第87話 二九市丸脱走
(一)
さて、先年道雪は側室を持った。
宗像氏貞の妹・色姫である。
立花家と和睦、実質的には降伏した宗像家からの人質だった。
他家に嫁していたものを離縁させ、側室として送り出したので、歳は当時としては年増にあたる二十二歳になっていた。色姫は由緒正しき宗像氏の姫らしく、貴族の姫のような瓜ざね顔の色白で全体的にふっくらしていた。所作も上品で大人しく控えめ、籠の中の鳥のような風情で一日自室にいることが多かった。
「閨の方はどうなのかねえ?」
近がくすくす笑いながら静香に聞いた。
「私が知るか!他のものに聞け!」
由利までからかうように、近の口調を真似する。
「そりゃあねぇ…殿様はお年を召されたとはいえ、あんだけ立派なお身体だ。毎晩、いくいくって大変だろうよ。」
静香が怒鳴りつけた。
「お前も処女だろうが!知ったふうな口をきくな!」
由利が扇で口を隠してくすくす笑う。
「さあどうかねえ…ぐずぐずしていると…。」
「えっ…まさか?!」
「しっ!」
近が居住まいを正した。
誾千代が広間に入ってきて、ちらと三人の様子を見、そのまま書院へと向かった。
ふぅー
三名とも大きなため息をつく。
「そういえば…お方様、阿蘇から戻られて以来、立花山城に泊られることが無いね。こっちの夫婦仲もどうなっているのやら。」
「ご側室お二人もご懐妊の知らせが無いし…。後継ぎはどうなるのか。」
近と静香が顔を見合わせてため息をつく奥で、由利は何がおかしいのか、扇で口を隠してくくくと笑い続けていた。
(二)
「しかし広門殿…、それでは我が妹・色姫はどうなる!」
「それもこれも戦国の習い…。わしも龍造寺に人質に出した嫡男のことは、とうにあきらめており申す。」
「いや…しかし…。」
「覚悟を決めなされ!由緒正しい宗像家が、いつまでも格下の大友家の支族中の支族・戸次氏出身の道雪ごときの下風に立っているおつもりか。」
「むう……それは…。」
「原田も秋月も、熊の居ぬ間に領土を拡大しておるのですぞ。宗像だけが出遅れてよろしいのか!」
「む、む、む…確かに!」
「これが最後の機会と心得られよ。わが筑紫家と手を取りあって、立花、高橋を滅ぼしその領地を分けどりにしようではないか!」
具体的には、立花山城は筑紫が手に入れるが、博多の支配は宗像に委ねると言う内容だった。米と土地は広門が、金は氏貞が。
先の立花山城攻めで痛手を負った筑紫家は、単独では立花、高橋と戦う力は無い。原田が弱体化し、秋月もなりを潜めている今、頼れる家はこの宗像だけだ。交換条件としても悪くは無い。
「…分かり申した。」
広門が伸ばした手を氏貞はがっと掴んだ。
広門は内心ほっとしている。
やれやれ、欲には勝てぬか…。欲勝ちなだけにこの男、信用するには値いせん。
宗像の兵力を利用するだけ利用して、どこかで見極めをつけぬとな。
立花山さえ押さえておけば、いつでも博多を盗れるというに
この欲深はそんなことも考え及ばぬのか。
宗像氏貞が蔦ヶ岳城に二千の兵を集めて挙兵したのは、その三日後のことである。
(三)
道雪は、宗像だけなら高橋に援兵は頼まぬ。必ず単独で対処するはず。
広門は今度は慎重に立花軍の動向を探った。
道雪が小野鎮幸、由布惟信らと千五百の兵を率い宗像方面へ出陣したことを確認すると、二千五百の兵を率いて鷲が岳城を密かに出た。
宗像氏貞と謀って、立花軍を北と南から三倍の兵で挟み撃ちにする。筑紫軍得意の野戦に持ち込む算段であった。
もちろん、道雪率いる立花軍の驚異的な強さは聞き知っているが、肥前の悪源太率いる精鋭は、立花軍などにおさおさ劣るところはないと思っている。
立花軍の第一目標は行軍の方向から、宗像家重臣・吉原貞安が百の兵で守る許斐岳城であるようだ。この城は宗像領南西に位置し対立花の最前線の守りである。
そして、ここまでは広門と氏貞の計画通りだった。
許斐岳城を囮に、城に取りついた立花軍を北東から宗像軍が、南から筑紫軍が挟み撃ちにする。単純だが効果的な策だ。特に道雪は氏貞を舐め切っている。その慢心が隙となり、広門に味方してくれるはずだった。
城の北方には氏貞が千五百の兵を率いて陣を構え、城の南方・吉原口には宗像一の将・許斐氏備が五百の兵を伏せている。城に向かう立花軍をまず氏備の伏兵が襲い、混乱した軍の後方から筑紫軍が襲いかかる。そして氏貞の本軍が来襲して止めを刺す。
「兄上!前方から鬨が聞こえます。」
吉原口へ向かう山道で、弟の晴門が馬を寄せて言った。
林の中の一本道で前方の様子は窺い知れないが、頃合いからおそらく間違いない。
「よし、馬に鞭を入れよ!後方から立花軍を襲う!」
筑紫軍は歩を速めて山道を登った。
そこへ
しゅしゅしゅしゅしゅ
左右の森から雨のように矢が降り注ぐ。
ばたばた倒れる筑紫の兵たち
「しまった!伏兵か!」
広門は手甲で顔を覆いながら、馬を鎮めつつきょろきょろと森を見回した。
ははははははは
どこかで聞いたような笑い声が響く。
うす暗い森の中に忘れもしない短躯を見つけ、広門の血は沸騰した。
「立花の軍師…またお前か!」
軍配で口を隠して笑っている藤内は、おかしくてたまらないと言った風だ。
「何がおかしい!」
「おかしいさ!」
森へ突っ込もうとする兄の手綱を晴門が押さえた。
「勇猛で鳴らす筑紫広門殿…頭の方はとんとお留守のようじゃ。おのれが伏兵を仕掛けると、敵も伏兵を仕掛ける可能性は一顧だにしない。なんと戦いやすい…なんと謀りやすい相手か。ここまで来ると張り合いが無い。」
広門のこめかみに青筋が立ち、ぎりぎり噛み締める口の端から一筋血が流れた。
うわーっ!
森からわらわらと小野鎮幸率いる立花兵が湧きだし、混乱する筑紫勢を容易く討ち取っていく。
「兄上!わしが殿軍するゆえ退却を!」
そう言って晴門は兄の馬に鞭を入れた。
山道をかけ降りながら、振り返った広門は叫んだ。
「立花の軍師…一度ならず二度までも、この広門に恥をかかせおって。覚えておれよ…必ず必ず殺してくれる!」
奇襲した許斐氏備は道雪に敗れ、氏貞ともども蔦ヶ岳城に引き上げた。
挙兵した宗像を挫けばいいのであって、許斐岳城攻略は本来の目的ではない。
この堅固な城を一瞥した道雪は、一旦軍を立花山に返した。
(四)
水之江の奥の間、人質の子弟が学ぶこの場所は、数か月前とは違う陰惨な空気が支配していた。どたどた足音が聞こえただけで、皆どきりと肩を動かした。
次はだれが処刑されるのか?
ここはまるで死刑囚の集まりであった。
小鶴は努めて平静に振舞っていたが、どんよりとした空気を変えようが無かった。
お前はなにも見なかった。
あの巨人からそう言われたが、あの夜の光景は目に焼き付いて離れない。
あの声は今でも銀杏の耳の中で響いていた。
あの人は女だった。
そのことだけでも衝撃なのに
本当の親子で…どうして?
初めて見たが、それが何を示すのかは幼い身でも分かった。
あの人は一体どんな気持ちで…実の父と…
口にすれば命は無い。
しかし、どうしても知りたかった。
幼い銀杏の中に芽生えた”女”がそうさせるのかもしれなかった。
ある月の夜、城内であの頭巾を見かけ、どきどきしながら後をつけた。
頭巾はどんどん奥へ
例の部屋へと向かっていく。
「きゃっ!」
暗闇からにゅっと伸びた太い手が銀杏の口をふさいだ。
あの巨人…?だったらこんどこそ殺される。
「しっ!」
よく知っている声がした。
がじっ
腕に齧りつく。
「いてつ!」
緩んだ腕をするりと抜けた。
「またあんた!」
二九市丸は、腕の歯型をふうふう吹いた。
「ああ…見失ったじゃないの。どうしてくれるの!」
二九市丸は白い歯を見せた。
「お前が危ないことしようとしてるからだ。」
「危ないことしようと関係ないじゃない!」
「関係ある!」
「どんな関係よ!」
「お前は…。」
二九市丸は少し赤くなった。
「わしの女だ。…わしの妻になれ!」
「な…!」
銀杏は真っ赤になった。
「いきなり!何を…。」
二九市丸は真顔だ。
「ここにいたら殺される。わしも…お前も。」
そんなことは聞くまでも無かった。
「だって…人質だから。」
「わしは殺されるのは嫌じゃ!」
「そりゃあ私も…。」
「だったら…わしと一緒に来い!」
「えっ!」
「今晩…たった今、わしは逃げる。」
「そんな…無理よ。」
二九市丸は太い二の腕を見せた。
「逃げてみせる。必ず…。だからわしと一緒に来い!」
差し出された右手
握ってしまいたい衝動にかられた。
ちらと父と兄の顔が横切る。
ぶんぶんと頭を振った。
「無理…兄様を置いて逃げられない。それに父様も…。」
二九市丸の顔に、一瞬落胆が浮かんだ。だが、後の筑紫春門の精神は強い。
「それなら三年、いや二年生きていろ。わしが筑紫軍を率いて熊の軍勢を破り必ず助けに来る!」
銀杏の頬を涙が伝った。
なぜ…こんな奴に
「な!生きていろよ。」
銀杏はこくこくと頷いた。
二九市丸はするすると手近の松の木に登り、
銀杏に手を振るとばっと城壁を飛び越えた。
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