第83話 宗像成敗
(一)
その年の暮れ、島津義久は隈府・阿蘇など中肥後攻略のために、北薩、南肥後の兵からなる一万の軍を派遣した。大将は島津忠長、副将は出水の島津義虎、大口の新納忠元の両将である。
忠長は義久ら四兄弟の従弟で、その父・忠将は島津の軍神と呼ばれた猛将だが、忠長その人は静かで控えめ、温厚篤実な性格そのまま、戦も堅実で派手な手柄は無く、しかも軍議などで、いるかいないか分からないので、家中では点いているかいないか分からない「昼行燈」と陰口をたたく者もあった。
義虎は、策謀家で先代貴久と島津家家督を激しく争ったその父実久と異なり、武勇一辺倒で裏表のない武将であった。
新納忠元は、槍を取っては島津家一と呼ばれる猛将で、官名武蔵守から鬼武蔵の異名で知られる一方、民政家で忠実無類であり、島津家臣において名のある者という問いに、必ず最初に名が挙がるため親指武蔵とも呼ばれた名将である。
忠長は御船城への抑えとして新納勢ら伊佐衆二千を嘉島に置き、自らは義虎や赤池長任率いる相良勢ら八千を率いて杉合に布陣。川尻に陣を構えた赤星勢六千と緑川を挟んで睨み合った。
赤星家は先般龍造寺家に降り、甲斐家は主家阿蘇家と共に大友家の所属であり、所属勢力は敵同士だが、対島津に関しては肥後国人どうし協闘関係にあった。
「甲斐宗運の動きが気になるとこいじゃっどん…。」
陣幕内で義虎が、冬には珍しい長雨を見つめて言った。
「そいは、武蔵守さぁ(新納忠元)がおいやれば大丈夫ごわそう。」
義虎の家臣で出水郷地侍の仁禮栄作が即座に応じた。いかに宗運が神算鬼謀を誇ると言っても、新納忠元も島津家有数の知勇兼備の名将である。簡単に出しぬける相手ではない。
「油断は禁物でござろう。なにせ老師は裏を掻くのが得意中の得意でござる。」
交流のある相良家の赤池長任がぽつりと言った。
大将の忠長は、黙って目をつぶり床几から動かない。
(二)
雨を避けて林の中に設けられた嘉島の陣
新納忠元は御船城の方を眺めながらため息交じりに呟いた。
「よく降っど…。」
北側を流れる緑川も、季節外れの大雨に随分増水しているようだ。
嫡男の忠尭が先ほどから川の方をしきりに気にしている。
「ないかあっとな?」
「………。」
忠尭は家中でも飛び抜けた無口で有名である。
主君義久の前で一言も発しなかったときは、さすがの忠元も叱責したほどだ。
「なんも愛想よくせぇち言うちょらん。言葉を発すっとも礼儀んうちじゃ!お前が影でなんち言われとるか知っちょるか!あん忠尭さぁは、父上・忠元さぁが死んにゃってん何も喋られんとじゃなかかち言われとっとぞ。」
それでも無口は変わらず、さすがの鬼武蔵もこれには匙を投げていた。
その忠尭が川の方を指さす。漁船が数隻、網をさしいれながら濁流の上を漂っていた。
「こん大雨に…?」
濁流に乗って漁船は勢いよく川下へと流されていく。
一隻、二隻…次々と
各船、ぼろぼろの野良着を着た五名ほどの漁師を乗せて
「こん大雨に網をさす…?流さるっとは分かりきっておっとに…。」
野良着の下で何かが雨に輝いた。
「しもた!」
新納忠元は飛び上がって出陣を命じた。
「やられたど!あいは甲斐ん兵じゃ!」
川岸に軍を急行させたが、四十隻ほどの船団は影も形も無かった。
「上流から数十の漁船が!」
物見の知らせに赤星統家は床几を立った。
「それは宗運師に違いあるまい。渡河の準備を…甲斐勢と併せて、島津に一気に攻めかかるぞ!」
島津軍が漁船に気づいたのと、勢いよく下流に流される船の上から無数の矢が陣幕内に射こまれるのと同時だった。不意打ちで大混乱に陥ったところに、濁流を押し渡って来た赤星勢が突入した。
島津兵は古代隼人族の血を色濃く残し、攻めには強いが守りに弱く、不意討ちを得意とするが、不意討ちされるのは大の苦手だった(この特質は西南戦争になっても変わらなかった。)。たちまちのうちに八千の軍はちりぢりになり、大将忠長でさえ一目散に甲佐城へと逃げ去ったほどであった。
「さすがは老師…敵には回したくないのぉ。」
漁船の上で雨に打たれる坊主頭を見つけ、赤星統家は感嘆して隈府城へ去った。
(三)
同じ年末、筑前守護代に返り咲いた道雪は大胆な方針転換をとった。
今までとらなかった領土拡大、国人の領地を攻め取るというもの
それも大友本家の裁可を待たずにやるという。
来年はやってくるだろう龍造寺に備えるため
そして、和議は結んだが膨張する南筑前の秋月家と
その傘下にありながら、龍造寺と一線を引きつつ領土拡大に乗り出した肥前の筑紫家に対抗するためである。
まず標的としたのは、筑前北方・糸島周辺の宗像家領南端の山東城である。
山東城は糸島攻略の足がかりとなりうる城で、ここを盗れば宗像家と高祖山城の原田家の連携に楔を入れることが出来る。
宗像は大友家に背き、秋月、原田らと歩調を合わせて立花山城まで攻めてきたが、元来、宗像大社の神官の家であってその兵は弱く
当主氏貞は戦下手で、しかも道雪のことを鬼か蛇のように恐れている。
ただ宗像軍の戦は、家老で水軍上がりの吉原貞安、一族で筑前国人の許斐氏備の二将が事実上取り仕切っていた。
山東城は宗像重臣の河津盛長が二百の兵で守っている。
十二月二十一日、道雪は統虎、誾千代、薦野増時と共に千余の兵を率いて立花山城を、紹運は福田民部少輔、村山志摩守、今村五郎兵衛の三将と二千の兵を率いて岩屋城を出た。
これに対して、宗像軍は許斐氏備を大将に、家臣・吉田貞辰を副将とした二千の援軍をさし向け、同盟の原田軍からは、侍大将・籠野大炊介が千の兵を率いて駆け付けた。
両軍ともに三千ほど、前原に陣を敷き山東城攻略の前哨野戦が始まった。
大将の許斐氏備は怒っていた。
「道雪めが…由布惟信と小野鎮幸を温存して臨むとは、わが宗像家を舐めておるのか!」
宗像軍二千は、怒りにまかせて立花軍千余に襲いかかったが、右翼の統虎と、左翼の増時の巧みな戦術に翻弄され、陣形が横に伸びきったところを、雷斬りの太刀を振るう誾千代を先頭にした道雪の隊が中央を食い破り、あっさりと敗走した。
ほぼ同時に、原田軍千も高橋軍二千に敗れ、籠野大炊介は激戦の中で今村五郎兵衛に討ち取られた。
立花・高橋連合軍はその勢いで山東城を攻めた。河津盛長は十倍以上の敵を相手によく防いだが、追加の援兵が来ず見捨てられた形で翌二十二日城は落ち、切腹して果てた。間をおかず、宗像氏貞から事実上の降伏に当たる和議の申し出があり、道雪は受け入れた。
山東城は立花家のものとなり、守将として堅守と民政に長けた立花家臣・十時連貞が置かれた。
(四)
天正十年の晦日、日向灘を四国へ向かう一艘の安宅船があった。
その甲板には、口惜しさをにじませる長倉佑政の姿があった。
一戦もせずに門川城を放棄せざるを得ないとは…
その前年は日向中央から続々と伊東家旧臣が駆け付け、まさに日の出の勢いだったが、今年は多くの将兵を食わせること、兵糧の調達に苦心しなければならなかった。最初は上手くいっていた北日向の国人たちとの関係も、兵糧を巡って悪化し、ついには小競り合いにまで発展した。
日向のことは日向のもので決める。
薩摩大隅からの侵略者・島津を追い出す。
この目標はどこへやら、わずかな飯粒を巡って日向のもの同士で争うようになってしまった。
北日向国人にとっては、島津より伊東旧臣の方が憎っくき敵となった。
状況を打開しようと何度も耳川を越え日向中央に攻め入ったが、島津の各城は堅く守って相手にしない。
その出兵が兵糧不足に拍車をかけ、ついには将兵が脱走するまでになった。
気付けば数名の旧臣とその家族併せて数十名が残ったのみである。
二十八日 島津家久率いる三千の島津軍が耳川を越えたとの報が入った。
他に選択肢は無かった。
金をかき集めて安宅船を用意し、残った家臣、家族と共に旧主がいると言う四国の長曽我部家を目指した。
「ここ数年…いったいわしは誰と、何と戦ってきたのか?」
闇に消えゆく船影
伊東家の不屈の勇将・佑政がぽつりと呟いた。
門川に入った家久のもとには、北日向国人たちが続々と戦勝の祝いをもって駆け付けた。家久は戦わずして門川城と北日向を手にしたのだった。
門川の天守から、北を眺めると豊後・佐伯の浜が見えた。
「やれやれ…やっと大友宗麟の後ろ姿くらいは見えるか…。兵や兵糧は損じなかったが思いのほか刻がかかってしもうたわい。」
家久はがりがりと頭を掻きながら城内へと消えていった。
上方において時代を左右する政変があったこの年は、九州でも波乱の翌年を予感させつつ…静かに暮れていった。
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