第67話 間違わぬ義陽
(一)
紅葉の森の中を、ひとつの桶を仲良く持った男の子と女の子が行く。
男の子は十歳くらい、女の子は五歳になっただろうかと言う感じ
木漏れ日が眩しいなか
ときに絡み合った木の根に足を取られ
重そうな桶をふうふう言いながら、汗だくで運んでいる。
風穴の前まで来ると、どっこらしょと桶を降ろした。
「お誾さま、持ってきたよ!」
元気そうな女の子が呼びかけ、風穴の中から誾千代と火巫女が現れた。
「おお、もうそんな時間か…お誾、昼げにするかの。」
男の子が桶に被せられた布巾をとると、味噌を塗った握り飯や塩もみした胡瓜、それに焼いた川魚が入っている。
「新六郎、今年でいくつになった?」
「はい、十一歳です。火巫女様。」
齧り付いていた岩魚を離し、口を拭って男の子は応えた。
「あたしは五歳です!」
女の子が、口から飯粒を飛ばしながら言う。
「銀杏、お主には聞いておらぬ。」
「えーっ!兄上だけは不公平です。」
「勝気で知恵の多い娘じゃの。の、お誾、誰かを思い出すのではないか…。」
火巫女が苦笑いした。
確かに…自分の小さいころによく似ている。まだ十年に満たない前だが…
「あたしがお誾さまに似ているの!うれしい!あたしお誾さまが大好き!なにより、同じぎんって呼び名ですもの。」
銀杏が抱きついてきた。胸についていた米粒と一緒に
誾千代も苦笑するしかなかった。
「おじゃまいたしますばい。」
繁みを掻き分け、僧形の老人が現れた。
「おお宗運、しばらく見なかったの。…南に行っておったか?」
甲斐宗運は座りながら言った。
「はは…、あん義陽ん馬鹿たれが、島津に降伏なんぞしよりますばってんが…。」
火巫女は目を閉じた。
「ふむ…。ついに島津が攻め上がってくるか…。熊の力も強くなっておる。今後、この肥後はますます大変じゃの。」
蒲池家を滅ぼした龍造寺隆信は、瞬く間に筑後全土を支配下に置いた。肥前筑後八十万石太守となったその次の目標は、混沌とする筑前か?それともこの肥後か?
「おら、お前も出て来んか!挨拶をせにゃ。」
繁みの中から、黄色い小袖を着た少女が出てきた。
大人しそうな顔立ち、手足はがりがりに細く
おろおろと視線定まりなく、何か独り言をぶつぶつ言っている。
「火巫女様…孫の妙でございます。」
「孫と言うと、嫡男の親英殿の…?」
「いえ、次男親正の子ですばい…。」
「そうか…。」
甲斐親正は、二人の弟と共に日向伊東氏に内通し、阿蘇家転覆を謀った重罪で宗運自ら討ち取っている。実はその際、嫡男・親英にも疑いがあったのだが、証拠が十分でなかったことと、後継ぎがいなくなることより、深い追及がされなかった。その一件は、甲斐家に未だに暗い影を落としている。
「その娘、心を病んでいるのか?」
「目の前で父が斬り殺されましたけん。それ以来、心を閉ざしてしまいよりました。」
銀杏が前に回ってしきりに挨拶をしているが、妙はうろうろと所在無げにしている。
「とこいでお誾…法姫はむごかこつだったばいな。」
誾千代は黙って頷いた。
「墓は隈部親泰が菊池に立てたち聞いたばってん。ただの想い人に、異例ちゃ異例なこつばいな。それほど惚れ込んでおったち言うこつか…。ただ、そん墓ば巡って、親泰は親父ん親永ともめたごたるな。」
息子と違い策謀家で知られる隈部親永は、龍造寺家にいち早く近づいていると肥後じゅうの噂だった。たとえ墓でも、龍造寺と敵対した蒲池家と関わるのを嫌ってのことだろう。
「宗運様こんにちは!」
妙をあきらめた銀杏が、大声で宗運に挨拶した。
「おお、赤星んところの新六郎に銀杏か!少し見んかったばいが大きくなったの。お前たちも来とったか。」
大きくなったと言われ、銀杏は、にまっと笑顔になった。一方の新六郎は大人びた挨拶を返す。
妙をちらっと見て宗運が言った。
「こげなよか子に恵まれち、赤星統家は果報もんばい。なあお誾!」
誾千代は微笑んで頷いた。
この子らと過ごしていると、法姫を失った悲しみがなぜか癒えるような気がしていた。
(二)
その日、相良義陽はひとりで人吉北方の山中にある鹿目の滝まで来ていた。
降伏しにいったとき、島津義久から発せられたのは意外な言葉だった。
「えつ!城も領地もそのままですか…?」
「そうじゃ…。」
異例中の異例、というか常識外だった。
武士は所領を巡って戦するもの、敗れれば領地を失うのが当然だ。
勝った方としても、配下への恩賞に困るのではないか。
さらに、もし相手が背けば勝利自体が無意味となる。それが戦国の常ではないか。
「島津も存外甘いですな。」
武勇一辺倒の岡本頼氏などは単純に喜んだが…。
「ふう…。」
義陽は一つため息をついた。
瀑布から弾けた水滴が身体にかかる。
「殿!ここにいらっしゃいましたか。」
馬で駆け付けた深水長智が降りながら言った。
「島津から使いでござる…。」
「どうした…追加の人質でも言うて来たか?」
「いえ、それが…。」
人吉城大広間には使いの新納忠元が待っていた。
いや、待っていたのはそればかりではない。
「父上!」
「ちちうえっ!」
人質に出していた嫡男の四郎太郎と次男の四郎次郎が飛びついてきた。
その様子を忠元は微笑んで見ている。
島津家の意図は明らか。しかしこれも常識を外れた措置だった。
「これは新納殿、私としてはどうお礼申してよいやら…。」
新納忠元は人のよさそうな笑顔で返す。
「いやいや…礼を言われるなら殿にお願い申す。」
家臣たちのほっとした空気と逆に、義陽の胃の中に冷たいものが広がった。
領地と言え、人質と言え異例なるこの恩、それに報いるには、この命をもって返すしかないではないか。
新納忠元は威儀を正して懐から書状を取りだした。
「ごほん…今日はな…殿、島津義久様からの御命令を伝えに参った。」
「はは…。」
義陽はかしこまった。
「よろしいかな…。」
忠元が読み上げたのは予想通りの命令だった。
相良家が先手となって肥後を攻略せよ。
島津に臣従を誓った宇土の名和顕孝と協力の上
従わぬ阿蘇家、まずは甲斐宗運の御船城を攻略せよ。
宗運か…。
平伏した義陽だったが、天を仰ぎたい気持だった。
(三)
相良義陽はさっそく六千の兵を集め、まずは自領の八代に向けて出立した。
先鋒は犬童頼安率いる千、中軍に赤池長任率いる千と東長兄率いる千、義陽率いる本軍二千、後詰は岡本頼氏率いる五百と深水長智率いる五百である。
八代についた義陽は、犬童・岡本・深水隊、赤池・東隊、それと本隊と軍を三つに分け、犬童ら二千を、既に名和顕孝が囲んでいる甲佐城に、赤池ら二千を堅志田城攻略に向かわせ、自らは御船へ向けて進軍した。
御船城は、緑川の支流である御船川に面した丘の上に立てられた簡素な山城である。簡素であるが、謀将・甲斐宗運の手が入っており、千の兵しかいないとは言え、川や丘を上手く利用した堅固そのものの造りである。相良軍は兵の隅々にいたるまで、いわいる浮かぬ顔をしていた。甲斐宗運と義陽の関係、真の友ともいうべきそれを知っているからである。義陽自身は平静であったが、軍の士気が低いことは隠しようが無かった。
御船に到着した義陽は響野原に陣を敷いた。さすがに二千では御船攻略は難しく、犬童、赤池らが合流してから攻めるつもりだった。
「ここは見通しが悪く、敵の奇襲に対応できまっせん。近くん吉無田山に陣を移されては?」
近侍の佐牟田忠興が進言したが義陽は聞かなかった。
しばらくして、甲佐、堅志田両城の落城の知らせが届いた。陣中さすがに戦勝に沸く中、物見が陣中に矢文が撃ち込まれたとして持ってきた。矢文を見た義陽は、ひとり密かに陣を離れた。
矢文の指示通り御船の乙護王神社を義陽は訪れた。
社殿の影からぬっと僧形の老人が現れる。
「師の御坊…。」
挨拶をしようとする義陽を甲斐宗運はおしとどめた。
「堅苦しか挨拶はよかばい。用件だけいこかい。おるはお前とは戦いたくなか…軍ば引いてくれんな。」
それは…できかねると義陽は言った。
「兵糧の手配が突かんとか、どがんでも理由はつくだろがい。どうせ二城は落ちたこつ、手柄ばあげとっとだけん島津への義理も果たしたろうが…。」
義陽は首を横に振った。
「なしてかい?島津義久に心服したんな…。」
それも違うと言う。領地や人質に関して異例の恩を受けた。自分はそれに対して誠実でありたいと言う。
「また…面倒な男ばいね。そがん義理堅さを島津に見抜かれよっとだろう。まったく…こがん手も使わんとならんばい!」
「こがん手とは?」
「よう聞かんな…。」
甲斐宗運の手とは、相良家が面目を保ったまま退却する方法だった。今夜、義陽の本陣を甲斐軍三百で夜襲させる。義陽は朝駆けの準備をさせ、軍を動きやすくしてそれを待ち、夜襲を機に一斉に軍を引く。こうすれば、お互いの軍の犠牲は少ない。もちろん、島津に知れては面倒なのでお互いの将兵には内緒で行う。
「どがんな?」
義陽はしばらく考えていたが、決心した顔でわかったと言った。
「よかばい!こいで島津と心おきのう戦ゆっど。」
「ところで…。」
義陽が持っていた包みを開いた。
「どうじゃ…刻はまだあるゆえ、久しぶりに一局。」
「おお…よかな!」
宗運と義陽は、碁盤を囲んで社殿下の石畳に座った。
(四)
その日、宗運は息子の親英に三百での夜襲を指示した。
「我が軍、響野原は目をつぶっても歩けまする。一方、あんな見通しの悪いところに本陣を置いた相良義陽は油断しているとしか思えませぬ。必ず夜襲を成功させましょう!」
親英はいきり立った。宗運は張りきらんで良いと言いたかったが、島津の忍びの目がどこに光っているか分からぬので黙って頷いた。
義陽は本軍に明朝、他の二隊の合流を待って朝駆けの奇襲をかけると指令した。
「朝一で動けるように、よくよく準備するように。」
佐牟田忠興は将兵たちに、甲冑は脱がずに早めに就寝するように命じた。
丑の刻
相良軍がすっかり寝入っていることを確認して、草木も眠る丑三つ刻に
夜襲は決行された。
奇襲された相良軍は、早めに寝入っていたこともありすぐ跳び起きた。
「殿、甲斐軍の夜襲でございます!」
乱戦となり、本陣が混乱する中、忠興が陣幕の中に駆けこんできた。
義陽はまんじりともしなかった様子で床几に腰かけていた。
「敵の総数はわかりませんが、小勢と思われます。いかがいたしましょうか?」
小勢であれば、軍が落ち着いてくれば、このままでも十分対処できる。
「甲斐宗運は知恵者じゃ。どのような企てがあるやもしれぬ。ここは一旦、甲佐城まで引き、名和勢、犬童勢と合流する。」
安全策だが、慎重な義陽らしい。忠興は特に不審に思わなかった。
退却の法螺が吹かれた。
馬に跨った義陽だが、大事なものを忘れたと言い、指揮を一旦忠興に委ねて陣幕へ戻って行った。すぐ戻るという主人に不自然なところはなく、忠興は軍を束ねて退却戦を指揮した。
「押し込め!敵は奇襲で浮足立っておるぞ!」
親英が兵たちを鼓舞した。
相良軍は最初じりじりと後退し、一定の距離まで下がると、東南へ向けて一斉に走り始めた。
「深追いするな!なにか策があるやもしれん。」
十分な勝利だった。周りには無数の相良家の旗が残り、置き捨てられた兵糧、弓矢が転がっている。よほど慌てたのか、本陣の陣幕もそのまま立っている。
親英は馬を降り、数名の部下と共に陣幕の中に入った。
「!」
陣幕の中に信じられない光景があった。
敵の大将・相良義陽が目を静かに閉じ、身じろぎもせずに床几に座っている。
「さ…が…ら…どの!?」
親英の声に義陽は目を開けた。
「おお、親英ではないか。久しいの。」
親英が思わず一礼してしまったほど自然に義陽は言った。
ここで何を?愚にもつかぬ問いを発してしまいそうになる。
戦場で敵将を見つけた。やることはひとつである。
「言い残すことはございますか?」
親英の問いに、義陽はしばらく考えていたが…
「お主の父に伝えよ。相良義陽は、死ぬ場所も間違わぬとな…。」
(五)
わいわいと、口々にお味方大勝利を叫びながら、奇襲に出ていた軍勢が御船城に帰って来た。
味方の勝利は約束上のことだ。宗運は特に迎えにも出ず、居室で書状の整理をしていた。
廊下をどかどかと走ってくる音がした。がらりと開く障子の音にも浮ついた空気が感じられる。
「なんば、そがん浮かれおっとか!」
宗運が叱りつければ、いつも黙りこむ親英は今日は違った。
「父上!父上っ!大勝利、大勝利でござる!」
宗運は呆れながら言った。
「そがんおらぶ(叫ぶ)な…耳ん痛かが!」
「こるは失礼いたしました。ばってん大勝利です!」
「相良軍が退却したっだろうが…そんくらいで騒ぐでなか!」
「お言葉ばってん、そるを遥かに超える大勝利ですばい。」
「何な?そん大勝利ちゃ…。」
「まずはこるを…。」
親英がぱんぱんと手を叩いた。
近侍が桶を手に提げてきた。
宗運は嫌な予感がした。
「何な…こるは?」
親英が桶を開けながら得意げな顔で言った。
「敵ん総大将・相良義陽ん首、ここに!」
「なんちな!!!」
生白い顔に大きな鼻
静かに閉じられた目、微笑みを浮かべた唇
長年の友は穏やかな顔をしていた。
宗運はその首を抱き上げ、話しかけた。
「なんでな!なんで早まった!おるはこの後、誰と囲碁を打てばよかとな!」
友がここまで追い込まれていたとは正直想像できなかった。
なんが名軍師か…なんが知謀水の如く湧き出しか…友一人救えぬ…情けなか。
親英は背中を向けた父が微かに震えているのに気づいた。
島津め、ここまで義陽を追い詰めよって…許さんばい。誰が許してもおるは決して許さん。たとい最後んひとりになってん、おるは戦い続けっど!
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