第37話 まぶたの母

(一)

木々の合間から見える中空に満月が浮かぶ。

草むらに寝転がった弥七郎は、ぼんやりとそれを眺めた。

焚き火の炎がぱちぱちはぜる音

かすかに虫の声も聞こえる。

「寝られんとね?」

炎を見詰めたまま宗運が尋ねた。

「はい、もう寝ます!」

夕刻に阿蘇を出て清滝峠を越え、強行軍で波野村近くの森まで来た。

「明日は竹田ばい。よう寝とくがよか。」

枝を火にくべながら宗運が言った。

「明日は、…岡城を訪ねるのですか…?」

「そうしようち思っとうとばい。」

宗運は奇妙な空気を感じた。

「そがん言えば、親次と弥七郎は同い歳ばいね。」

「…はぁ。」

気の無い素振りの弥七郎を見て、宗運はにやりと笑った。

「何ね、親次のこつが好かんとね?」

「好きとかすかんとかそういったことではありません!」

相手は宗麟の孫、大友家の貴公子である。

普段そういうことは気にならない弥七郎だったが、親次だけは別だった。

恵まれた親次への嫉妬ではないと思う。

あの分別臭い、妙に整った顔が昔から苦手なのだ。

「あちゃあ、まだまだ子供ばいね。そんあたりが、同い年でも元服でくるかどげんかん違いを生みよっとよ。」

弥七郎の心を見透かしたように宗運が言う。

「好きか嫌いかで態度を分けよったら、まともな戦はでけんばい。」

薄笑いを浮かべたままの宗運にふっふっと怒りが湧いてきた。

「関係無いと申し上げております!」

そう言うと弥七郎はそっぽを向いてぎゅっと目を閉じた。

宗運はふっと笑って、手に持った枝を折って火にくべた。

火の粉が飛び時のぱちぱちという微かな音が弥七郎を眠りに誘う。

「おい弥七郎、お前(まん)、お誾ば好いとっとだろう?」

宗運の問いに帰って来たのは安らかな寝息だった。

「ほんにまだ子供ばい。つまらんつまらん。」

宗運もどんと草むらに横になると、そのうち鼾をかきだした。


(二)

 ぽちゃり

 岩肌から滴る水滴が白い湯気を上げる乳白色のお湯に落ちる。

阿蘇神社の帰り、誾千代たちは外輪山の袂にある内牧の温泉場に寄った。

湯の中に座った金牛が、岩にもたれて月を見ながら鼻唄をうたっている。

美馬と蜊も湯の中で何かを話している。

「お誾あのね…。」

 月を見上げる誾千代に、白湯を掻き分けながら法姫が近づいてきた。

誾千代より二歳上なだけ、十三の年だが

湯をはじく白い肌に、羨ましいほどの豊かな胸が揺れる。

見ていた誾千代は赤くなったが、もちろん法姫は気づかない。

「今回の旅で、私はいろいろ強くならなくちゃいけないと思ったの。」

湯の中で、誾千代とぴたっと身体を寄せて座りながら法姫は言った。

「母上にたいしてもね。よく考えると、今までは出来るだけ避けていたような気がするわ。自然と勝気な母上の機嫌が悪くならないようにしようと努めてきた。目が見えずに生まれたことが、自分の罪のように思えていたのね。」

 ざっ…湯の中で法姫は立ち上がった。

腿にかけ、弓のように反った影が月明かりに浮かぶ。

「私は生きているんだから…、これからも生きていくんだから。何者にも負けぬように強くならないと。ねっ金牛そうでしょう?」

 金牛が片目をつぶって右手を上げた。

しかし、玉鶴の方は積極的ではないにせよ、法姫を亡き者にしようとしたではないか。大丈夫なのかと聞く誾千代に、法姫は微笑んだ。

「大丈夫、お誾が雷神の娘なら、私だって筑後の金狼の娘で肥前の熊の孫よ。たとえ母上でもその気になったら負けはしないわ。ねっ、それより…。」

 法姫は、つぷりと湯の中に座った。

「お誾の母上の話をして…。どんな人か知りたいわ。」

 聞いた誾千代は少し困った顔をした。

「どういう人かどうか、わしは母上を知らぬのじゃ。」

「えっ!」

「わしを生んで母上は死んだ。じゃから、どういう人か知らぬ。」

「そう…悪いことを聞いたわね。ごめんなさい。」

声が沈んだ法姫を気遣って、誾千代は殊更あかるげに振舞った。

「それでも、父上や城戸の爺から聞いておるぞ。たいそう優しいお方じゃったと…。わしに似て美人じゃったともな。」

「まっ!」

法姫が笑顔になった。


仁志姫様おかわいそうに

雷神の子を宿したので耐えきれずに亡くなったそうな

今までの道雪様の子は、みんな生まれずに亡くなった。

それを、己の命と引き換えに生んで


ずっと幼いころに、侍女たちがひそひそと話しているのを聞いた。


ざっ

一瞬した暗い顔を隠すように、勢いよく立ち上がった誾千代を後ろから柔らかいものが包んだ。

「金牛…。」

誾千代は回された汗の浮いた逞しい腕をギュッとつかんだ。


(三)

 鼻孔をくすぐる良い香り

 どこからか

 ちゅんちゅんと朝雀の声がしてくる。

 とんとんと調子のよい音も聞こえる。

 障子からこぼれる光

 開いた目に茶色い天井板が映る。

「ここは…?」

 布団をはねのけ、がばっと立ち上がった。

 とたんに全身を槍で貫かれたような痛みが襲う。

「あいてててて…!」

 仙はそのまま倒れ、転げ回った。

「大丈夫かい?まだ寝ていないと…。」

 障子ががらりと開いて、人影が覗いた。

 陽が後ろからさして、よく顔が見えないが女の人らしかった。

「あんたどこから来たんだい?あんなところに倒れているからびっくりしたよ。あたしが、たまたま山菜摘みにいっていなきゃ、何日も発見されずに死んでいたところさ。」

 そう言うと障子を閉めながら部屋に入ってくる。手に持ったお盆には、山菜粥と香の物が乗っている。

「ゆっくり起きて。何か食べないと身体が治らないから、少しでも食べな。」

 ぺこりと頭を下げながら、仙はゆっくりと起き上がろうとして、その女の顔を見た。

「!」

「どうしたんだい?じろじろ見て…、あたしの顔に何かついているのかい…。」

 仙は激痛に耐えながら起き上がって、ゆっくり女の手を握った。そして潤んだ目でこう言った。

「お、お、おっ母!」

「はい?」

 女は呆気に取られてどぎまぎしている。


「そうかい、そんなに似ているかい。」

「うん、ごめんね。あんまり似てるんで、おっ母が生き返ったかと思った。」

 勢いよく粥を掻き込みながら仙が言った。

「生き返ったかなんて、面白い子だねぇ。」

 女は微笑みながら一瞬遠い目をした。

食べるのに夢中の仙は気づかなかったが…。

ここは人吉に抜ける峠の茶店の奥間

女は住み込みで働いている八重といった。

亡くなった仙の母・里に瓜二つだが

生国を聞いたところ日向というので

肥前の母とは血のつながりすらないと思われた。

「他人の空似ってやつかねぇ。」

そういう八重を外から呼ぶ者がいる。

障子があいた時一瞬見たが、茶店の主人にしては目の鋭い男だった。

何か外で話している。

そうだね、迷惑だしね。

仙は痛みを我慢して立ち上がった。

障子を開け、転がりかけながら外に出た。

「あ、あ、あ、あんた無理すんじゃないよ。たぶん高い所から落ちたんだ。近くにゃ、いつ死んだのか分からないでかぶつの仏さんがあったよ。刀が心の蔵に刺さって、ありゃ山賊かね…。」

転がりそうな自分を支えた八重にニッと笑って

「さよならおばさん!ありがとね!」

そう言うと仙は一目散に走り出した。

「あ、あんた、名前は…?」

坂の中腹で立ち止まった仙は叫んだ。

「仙、仙って言うんだ!」

そのまま踵を返すと、踊るように走り去った。

「せん、そうかいおせんって言うのかい。」

八重はまた遠い目をすると、頭を振りながら茶店へと戻った。


(四)

「よう出来てまんな。」

読み終えた木下昌直が言った。

「大友宗麟暴悪十カ条、書かれていること全て真実です。しかも、先般の北日向での行状含め、他国の国人でも知っている事実がほとんど。これを言いまわられても大友方で反論は難しいでしょう。」

秋月種実が書状を畳みながら言った。

「さすがは知恵者・秋月殿じゃ。ここ筑前では、前守護代・立花道雪の威を恐れ、大友家が衰退したと思ってはいても表立って叛意を表せない国人がほとんど。この十カ条は叛乱への追い風になるじゃろう。」

原田隆種が白髪交じりの虎髭をしごきながら満足げに言った。

「さっそく、われら筑前三家で別れてふれ回りましょうぞ。」

青い顔をした宗像氏貞が嬉々として提案した。氏貞は長年圧迫され続けた道雪の鼻を明かしたいのだ。

「ここに同じものが百通用意してございます。これを手分けして…。」

「おお、今日からでも。」

「叛乱の火ぶたは我らから。」


昌直は徒歩で、信種と氏貞は馬に跨ってめいめい帰っていく。

秋月城の天守から、それを見つめる種実に嫡男・種長が問うた。

「大友を見限って、龍造寺方につかれるのですか?」

種実は横目でちらと息子の顔を見ながら、振り向きもせずに言った。

「種長よ、よく覚えておくがよい。この戦乱の世の政略というものは、そう簡単なものではないのだ。」

「では、どうされるのですか?」

「右か左かという話ではない。秋月家にとってどういう選択が良いのかという話だ。ここに大友と戦う龍造寺という家があり、肥前で二万の兵を動員できる。我らには原田、宗像という味方があり、併せて筑前で五千の兵を動かせる。筑前の敵は立花道雪が二千、高橋紹運が三千、おそらく日田や久住の兵も応援に駆け付けるであろうから併せて大友方は八千というところ。未だどちらにつくか決めかねている筑前の国人が二万はおり、これが大友につくか、龍造寺につくかで戦の帰趨は大きく変わるのだ。我ら五千はここを慎重に見極めねばならん。」

「えっ、大友宗麟を激しく非難しながら、大友方につく可能性もあるのですか?」

種実はため息をつきながら、噛んで含める様に嫡男を諭した。

「よいか、それが戦乱の世を生きるということだ。蛇なのか虎なのか烏なのか、正体のわからん鵺のような存在にならねばならぬ。ことに我らのような弱小の国人はな。」


 肥前街道を行く昌直の前に山伏がやってきて平伏した。

うやうやしく小さな紙切れを差し出す。

取り上げて広げ、昌直はからからと笑った。

「これは吉報、いや吉兆や。捕まっとったあやつが帰ってくるとなると、もう銭の心配はいらんくなる。久々に御館様にも軍資金の提供ができるようになるっちゅうもんやわ。いや重畳重畳!」

 そして、立花山の方角を向くと言い放った。

「待っとれや、筑前の雷神ちゅうてなんぼのもんか。この信直様の知略を持って、その城から追い落としてやっちゅうねん!」




















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