07 特別な時間 9/8~9/9


〇2005年9月8日(木)


 夏合宿最後の夜――廊下からそっと隠れた、薄暗いソファーのある秘密空間。そこで、一生の思い出ができたね。


 私は、大里君からの「今、去年の過去問やったけど、難しくってもう……ダメ」っていうメールに返信せずに、磯ちゃんと二人でいたんだよ。

 二人とも、大里君を無視して一緒にいたの。私はね、このときは大里君のことなんて何も考えてなかったよ。もう、この日の夜はあやねのことしか考えていなかった。

 本当に、本当に幸せだったよ。


 あやねの手をぎゅっと握り返したとき、なんだかふわふわした。「手をつなぐことってこんなに大きなことなんだ」って思った。

 手をつないで、あやねが私の肩に寄りかかっていたとき、あの夜で一番幸せな時間でした。あやねはどうだったのかな?

 この日のことはさ、他の人に理解してもらえないかもしれないけど、私たちにとっては、忘れられない出来事よね。

 悪いことをしているっていうドキドキと、ほかの部員にバレてしまうかもしれないっていうドキドキと、二人が一緒にいて、心が一つになっているっていうドキドキが重なって、まざりあってね。

 なんだか、もう一生訪れないような、特別な時間だったと思えるよ。

 あやねはさ、私が頭をなでたり、服がよじれているのを直してあげたとき、どう思ったのかな。嫌だとは思わなかった? 私はもう、自然にしてしまったけど。

 来年も合宿最後の夜はさ、またあの場所で二人で座っていたいね。一年経てば、まったく別の想いが溢れるのだろうけど、少なくとも、仲良しでありますように。幸せな気持ちっていうところだけは、共通であってほしい。どうしても。


 朝がやってきて、あやねと別れたあともね、嫌な気持ちは少しも出てこなかったよ。大里君に対して……とも考えなかった。

 ただただ……いい時間だったなという想いと、今回の合宿で一番大きな、一番大切な思い出だなってことだけでした。


 あっ、ひとつだけ余計なことも考えたよ。

 磯ちゃんと一緒になれたなら、何も考えずに、いつもこうしていられるのになって。

 この先どんな展開が待っていようとも、あやねから離れることだけは絶対したくないと思った。大学を卒業しても、一度もあやねと一緒になれなくても、たまに会えるだけでもいいから、本当に離れたくないって思った。なんだか、ただ単純に好きとは違うのかもしれない。だって、うちら不思議と一緒にいれてさ、こんな複雑な関係なのにこんなに近づけたのってすごい! 

 あやねが、私にとって大切ってことが、ほんとうによくわかったんだ。



〇2005年9月9日(金)


 合宿最終日です。磯ちゃんも私も、無事部屋に戻れましたね。夜遅くだったのに、割とみんな起きていたね。最終日だからかな。でも、こういうときに女の子同士って便利だね。だって、二人で歩いているところを目撃されても、そんなに怪しまれたりはしないもの。

 でも、手をつないでいるところを見られていたら、それは話題になったりしたりして。ま、私はそれでもいいかな!


 確か楽器をトラックに積み込んでいるときも、少しだけ話をしたね。でも夜二人きりでいたときと違って、いつも通りの接し方だったね。二人きりでずっと一緒にいたのが、ついさっきの出来ごとだなんて全く思えなくて……。

 二人きりでいた夜は、現実の話ではなくて、本当に夢の中だったのかなって思うほど、楽器の積み込みっていう現実世界に戻ってきている二人がいて、変な感じがしたよね。

 この日の帰りのバスで、高峰明日香ちゃんと会う場所と時間を決めました。正直なところ、明日香ちゃんに会いたいって気持ちは、もうゼロに近かったよ。明日香ちゃんに会いにいくこと自体が、磯ちゃんと明日香ちゃん、二人の女の子を選ぶことができていないように思えて、なんだか嫌な気持ちになりました。

 沖縄で旅行中のあやねの苦しみはさ、これの何十倍なんだろうね……。

 自己嫌悪だろうね。あやねを闇の中から救い出したい。それができなきゃ……自分って意味ないじゃないか。

 明日香ちゃんと会いたい気持ちがゼロになったのは、二人きりでいた夜、磯ちゃんがさ、「美紗都さんに彼氏ができたら……やっぱりさみしいよ。そしたら今みたいに仲良くできないんだね。私は高峰君と知り合いじゃないから気をつかって、美紗都さんと話せなくなっちゃうんだもん」って言ってくれたから。

 あのときの、磯ちゃんの瞳。忘れられないよ。きらきらしていて、しっとりとしている瞳。私の視線から、けっして離れないあのおおきな瞳。


 私が思うに、磯ちゃんがこれを言うのはすごく勇気がいることだったと思う。

 だって、磯ちゃんにとって私がただの仲良しな先輩だったなら、私の彼氏に気を使うなんて、そんな考えが浮かんでこないのだから。これって、私が恋愛対象になりうるってことでしょう? それを、私にこっそりと、伝えてくれたんだね。

 それに、大里君がいる磯ちゃんは、こんなことを言ったら私にわがままで自己中って思われても仕方がないから。でもね、私はもう磯ちゃんのことが好きだったから、嫌な思いはしなかったよ。本当に嬉しかったよ。

 あやねだって、わがままだって分かってて……でも、私がどこか遠くに行ってほしくなかったんだね。大里君がいるのに、そう思ってしまったんだね。あやねって、ほんとうに素直なやつだなあ……。

 その気持ちを、あやねがあの二人きりでいた夜に、言葉にしてくれたことは大きい。

 あの「美紗都さんに彼氏ができたら……」っていう言葉は、本当に大きかったよ。


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