番外編

遠雷

――あの日の濡れた微笑みを、君は覚えているだろうか。





 茹るような暑さが世界を抱き締める。肌の上を這う熱が、じりじりと己の身体を焦がしている。

「……暑い」

 ぽつりと呟く。

「……アイス、いります?」

「……いる」

 ぼうっとした声で答えれば、隣の少年が小さく苦笑を零して。はい、と手渡されたカップに入ったアイスをスプーンで掬い、口内へと導く。優しいバニラの味が、ふわりと広がった。





 季節は夏。蝉達の鳴き声が鼓膜を揺らし、蚊取り線香の煙が細く立ち上がる時期。世間では所謂夏休みというもので、町は長期休暇を満喫している学生達で賑わっていた。

 そんな中、裏社会では有名な殺し屋の一族である藤雲家では、依頼が普段の倍は来ている為に皆一様に少し疲れた表情を浮かべていた。

「お手伝いを、頼みましょう」

 また一つ依頼をこなしてきたらしい一族の当主である梓が言う。彼の水色がかった背中まで届く銀髪が少し乱れていて。

「……手伝い?」

 己はゆるりと首を傾げた。兄とは少し違う、どちらかといえば白に近い項までの銀髪がさらりと流れた。

「ええ、そうですよ奏。大体、依頼の数が多すぎるんです。私達藤雲家だけでは対処しきれません」

 座布団を持って来てその上に座った――どんなに疲れていても座る時はいつも正座だ――兄が、ふう、と一つ息を吐いた。常ならば藤雲家の正装である着物を身に纏っている梓も、今は着流し一枚という涼しい格好をしていて。

「そういう訳ですから、奏。此処に行ってお手伝いを頼んできて下さい」

「……は? 俺が?」

「はい。御前が、です」

 地図と資料を己に差し出し、にっこりと微笑む藤雲家当主。己は、はぁ、と一つ息を吐いて自らの頭を掻き混ぜ、差し出された物を受け取る。

「……夕飯、刺身な」

 己がそう言いながら立ち上がれば、はいはい、と梓の優しい声がして。ああ、この声に、優しい微笑みに、己はとことん弱いらしい。

(……そのせいで、断れねぇんだけど)

 小さく苦笑を零しながら、手伝いを頼む人間の許へ行くべく、己は玄関へと足を向けた。


   *


 天が鮮やかな橙色に染まっている。これでは、家に帰り着く頃にはすっかり夜になっているだろうと思いながら、薄暗い路地裏を早足で抜けようと動く。

 兄から手渡された地図によれば、この路地裏は近道で、この道を抜けた先にある小さな食堂の店主が手伝いを頼む相手らしい。

(表の顏が食堂の主人、裏の顏が情報屋兼殺し屋……か)

 資料にざっと目を通しつつ、目の前を通った野良猫を避け、空を見上げる。少し急げば、夕飯の前に風呂に入る余裕が出来るかもしれない。

 そう思い、さっさと用事を済ませてしまおうとまた一歩足を前に踏み出した、その時だった。


「――待って!」

 ぐい、と腕を引っ張られる感覚。たたらを踏んだ後、一体誰が、と振り返ってみれば。

「……何だ、アンタか」

 己と同じ銀髪に赤い目。長い前髪で顏の半分を覆っている女性的な男性。裏社会のとある組織に入っている事程度しか知らないが、依頼をこなしている時にこうして時々顏を合わせる事がある彼。

「悪ぃけど、急いでる。今度じゃだめか、真一郎」

「……だめ。今聞いて」

 そう言葉を紡いだ男性基真一郎の表情に、己は彼に向き直る。

「この道を通ってるなら、目的はあの食堂でしょ? ……気を付けてね」

「……何故?」

 ゆるりと首を傾げる。今までどんなに危険な相手でも、彼がこうして忠告してきた事など一度もなかった。

「……何でかは、分からないけど。でもね、嫌な予感がするの」

 だから、気を付けて。

 真一郎の真剣な瞳に、己は「おう」と一言返し。

「気を付けておく……ありがとう」

 彼の忠告を頭に入れ、真一郎に向かって片手を上げて挨拶とし、今度こそ路地裏を抜けようと彼に背を向けて走り出す。少し心配そうな視線が己の背中を貫いたのが分かった。


   *


 からん、と辿り着いた食堂の扉を開ける。店内に響いた来客を知らせる音に、店の奥からばたばたと店主らしき人物が駆け寄ってきた。

「いらっしゃいませ……藤雲家の奏様ですね? お話は当主様から窺っております、二階へどうぞ」

 ぺこりと一礼し、慣れた手付きで己を二階へと誘う男性は、見たところ四十代半ばといったところだろうか。

「私は吾妻喜助と申します、この吾妻食堂の店主にして情報屋、時に殺しの依頼もこなしております」

 そう自己紹介をしてきた店主基喜助に、己もと軽く自己紹介を済ませた頃には、二階にある少し広めの部屋に通され、敷かれた座布団の上に正座していた。

 そして、己の目の前には一人の少年の姿。肩まで届く黒髪を項で一つに括り、胸では金色のネックレスが光っていて。その純粋そうな黒い瞳は、まだ殺しを知らないように見えた。けれど、匂いで分かる。彼は、己と同じ殺し屋だ。

「息子の樹でございます。依頼の手伝いは彼にさせますので。奏様と同じ年頃ですから、仲良く出来ると思いますよ」

「よろしくお願いしますね、奏様」

 ふわりと樹が微笑む。彼のその笑みが、己には何故だか眩しく見えた。



   ***



 それからというもの、己と樹は行動を共にするようになった。初めこそお互いに唯の殺し屋同士、余計な馴れ合いなどいらないという態度だったのだが、ある時樹に出来た一瞬の隙を狙った敵を己が斬った事で、徐々に互いの距離が縮まり、今ではプライベートでも会うまでに仲が良くなっていた。

 ちなみに彼の敬語が外れないのは、本人曰く幼い頃からの癖で、どうしても抜けないらしい。己は様呼びされる程偉くはないし、樹とは対等の立場でいたかった為、何とか説得して様呼びだけはやめてもらった。

「奏さん、今度私のネックレスあげますね」

 絶対似合いそうですから。

 肌を焼く暑さから逃れようと公園の日陰に避難し、近くのコンビニエンスストアで買ってきたシュークリームを幸せそうに頬張りながら樹が言う。その口角がクリームで汚れていた。

「……クリーム、ついてんぞ」

「……どっちにです?」

「……右」

 充分冷やされたスポーツ飲料を飲みながら教えてやれば、慌てて右の口角を汚すクリームを指で取る樹。そんな彼を、目を細めて見つめる己。

(……もう一ヶ月になるが……怪しい動きは無し、か)

 どんなに彼と親しくなっても、己は真一郎の言葉を忘れてはいなかった。なので、樹には悪いがこの一ヶ月の間、彼を観察基監視していたのだが、樹自身にはこれ以上警戒しなくてもいいだろう。

(……気を付けなきゃいけねぇのは、父親の方か)

 くぁ、と小さく欠伸を零し、スポーツ飲料を全て飲み干して空になったペットボトルを近くにあったごみ箱へと放り込む。丁度シュークリームを食べ切ったらしい樹が、そろそろ帰りましょうか、と己に優しい微笑みを向けた。

――この時はまだ、己と樹があんな事になろうとは夢にも思わなかった。





「……おかえり奏ちゃん、最近頑張りすぎじゃないの?」

 今日も今日とて樹と二人で依頼をこなし、ふらりと自宅に帰って風呂から上がった己を待っていたのは、その言葉だった。

「…………」

 無言でぱたりと自室へと続く扉を閉める。己の見間違いでなければ、樹と仕事をする以前によく共に依頼をこなしていた相手――緩いパーマが掛かった首筋を覆う程の赤い髪を持つ女性的な話し方をする青年――が何故か己の自室にいた。

「……」

 もう一度、とゆっくり目の前の扉を開ける。

「ちょっと、大丈夫? ホントに疲れてるんじゃない?」

「……なんでアンタがいるんだよ」

 ああ、どうやら己の見間違いではなかったようだ。


   *


「で? 何で、霧弥が、此処にいる」

 ちゃっかり己のベッドに腰を下ろし、まるで自宅のように寛いでいる赤に問う。己はといえば、ベッドは彼基霧弥に占領されてしまっているので、一人用のソファに腰掛けて一つ息を吐く。

「一応ね、伝えておこうと思ったのよ。奏ちゃん……あの樹って子と、早く離れなさい」

 その言葉に、ぴくりと己の手が震えた。

「……そんなに怖い顔しないで? アナタだって、気付いているでしょう? 彼の父親は、危険なのよ」

 吾妻喜助は、息子を一番強い殺し屋に育て上げようとしている。その為なら、どんなに汚い手だって使うわ。

 霧弥が紡ぐ言葉の意味を、己は頭では理解していた。つい先日、怪しいのは父親の方だと、己の中でも答えが出ていた。けれど、それでも。

「杞憂に終わればいいんだけど……奏ちゃん、それでもあの子と一緒にいるつもりなら……分かってるわね」

 覚悟は、しておきなさい。

 彼の言葉に、小さく頷く。己に優しい微笑みを向けた樹の顏が、脳裏を一瞬過ぎって消えた。



   ***



 霧弥に覚悟しておけ、と言われてから三日が経った。今日は、朝から空がどんよりと重く、今にも冷たい雫が降ってきそうな天気だった。夏真っ只中な今には有り難い、涼しい日であった事を覚えている。

「……奏、少し……いいですか?」

 依頼をこなしに行く為、黒いシャツを着てジーンズを穿き、白いベルトを巻き終わったところで扉の向こうから遠慮がちに声が聞こえた。四つ上の兄、梓のものだ。

(……兄さんが直接来るなんて、珍しい)

 そう思いつつ、自室の扉を開ければ、そこには少し硬い表情の梓の姿。

「……今日の御前への依頼は、一つだけです」

「……一つ? 他のは?」

 直前になって、こうして依頼が変更される事は時々ある事だ。今日の予定は三件だったが、それが一件になるとは。増える事はあっても、減る事は今迄にはなかったはずだ。唯でさえ藤雲家は、己の二つ上の姉が海外に留学中で人手不足だというのに。

「他の依頼は私がやります……奏、」

 ふわり、と兄が持つ仄かに甘い香りに包まれる。そっと、まるで壊れ物を扱うかのように、己は梓に抱き締められていた。

「……私を、赦さないで下さい……っ」

 全て、私の責任なのです。御前に、背負わせてしまった私の。

 そう己の耳元で囁くように言葉を落とし、一度目を閉じて瞼を持ち上げた梓の瞳は、藤雲家当主の鋭い光を帯びていて。

「……奏、私からの命令です。吾妻樹を――殺しなさい」

 その言葉を聞いた時、例えようのない闇が……言い知れぬ恐怖が、己の心を一瞬にして飲み込んだのが分かった。



   ***



 さく、と地面を踏む音が小さく響く。己の主人から、吾妻の当主が藤雲を滅ぼして息子の糧にしようとしている、という情報を聞いた。

「…………」

 己の嫌な予感が、当たってしまった。時々見掛けていた藤雲の二男と吾妻の息子が笑い合っている様子を思い出し、ゆっくりと瞼を閉じる。

 藤雲の二男――奏が、己の忠告を忘れていなかった事は容易に想像出来る。ああ、けれど。

(……せめて、)

 優しい奏が、泣く事を赦されますように、と。願わずには、いられなかった。



   ***



 夕方からぽつぽつと降り出した雨。それは、己が家を出る頃にはざあざあと音を立てながら地面を叩くようになっていた。いつもならば雲の合間から己を見守ってくれるかのように大きな金色が視界に入るのだが、今夜はそれも涙を流す鉛色の雲に覆われていて姿を見せない。

(……このまま、樹と二人で遠くに逃げられたら)

 藤雲からも、吾妻からも干渉されない、誰の手も届かない場所へ行けたら。そうしたら、もう誰も殺さないで済むだろうか。

 そんな事をぼんやりと考えながら、重い足を動かして樹といつも待ち合わせしている路地裏へと向かう。樹も、己と同じ考えだったら――。


 ひゅん、という風と雨を切る音と共に、右の脇腹に鋭い痛みが走った。宙に飛んだ紅色の飛沫が滲む。

「……っ、」

 考え事をしていたせいか、最初の一撃を避けられなかった。赤を零す脇腹を片手で押さえ、目の前の己を攻撃した人物に視線を向ける。

「……アナタが最初の一撃を避けられないなんて、珍しいですね……奏さん」

 ああ、己の血が着いた刀を手にしているのは、その双眸に冷たい光を宿しながらも、表情は泣き出しそうに見える彼は、己を殺そうと一歩一歩近付いてくる少年は。

「……アンタだから、避けれなかったんだよ……っ」

 黒い髪に、黒曜の目。胸で金色のネックレスを揺らす、吾妻樹だった。

「その隙が、命取りになりますよ? 殺し屋なら、分かっているでしょう?」

 例え昨日まで仲が良かった相手でも、命令を受けたのであれば殺さないと。

 まるで自らに言い聞かせるように言葉を紡いだ樹は、今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべていて。

(……そんな顔で言われても、説得力無ぇっての……)

 ぎり、と唇を噛む。此方に刀を向けてきている樹に対し、己はまだ銃も刀も手にしてはいなかった。そんな己を不思議に思ったのか、樹は首を傾げて目を細める。

「……樹、一つだけ……いいか?」

「……? 何ですか?」

 一応、話は聞いてくれるらしい。先程の彼の表情から、己を殺したくない、という気持ちは痛い程伝わって来ていた――ならば。

「……逃げよう」

「……はい?」

「俺と二人で、一族から……藤雲と吾妻から、逃げよう」

 じくじくと先程斬られた脇腹が痛む。樹のその黒曜が丸く見開かれる。

 ああ、頼む。頼むから、いつものあの優しい微笑みで、俺に頷いて見せてくれ――。


「……申し訳、ありません」

 まるで喉から搾り取るかのように小さく落とされたその言葉。激しい雨の音が、消えた。

「……藤雲奏さん、その命……取らせてもらいます」

 樹の声が、遠く聞こえる。こうなってしまっては、殺し合うしか道はない。

(……出来れば、もっと)

 二人で、笑い合いたかった。

「……吾妻樹。当主の命令だ……その命、俺が貰う」

 己は一度瞼を閉じ、ゆっくりと呟くと、瞼を持ち上げて手にした日本刀を鞘から引き抜いた。



   ***



 茹るような暑さが世界を抱き締める。肌の上を這う熱が、じりじりと己の身体を焦がしている。

「……暑い」

 ぽつりと呟く。

「……アイス、いります?」

「……いる」

 ぼうっとした声で答えれば、隣の少年が小さく苦笑を零して。はい、と手渡されたカップに入ったアイスをスプーンで掬い、口内へと導く。優しいバニラの味が、ふわりと広がった。

「……ねぇ、奏さん」

「……あ?」

 暑さで溶けてしまいそうなアイスを少し早いペースで食べていれば、隣で同じようにアイスを頬張っている少年が己の名を呼ぶ。

「……私達、お互いが殺し屋じゃなかったらもっと違う出会い方、してましたかねぇ」

「……、」

 彼が紡いだ言葉に、アイスを食べる手を止めて暫し思考の海に潜る。もし、お互いが殺し屋ではなかったら。そうしたら――。

「……さぁな」

 分かんねぇよ、そんな事。

 そう呟いて、再びアイスを食べ始める。そうですよね、と苦笑交じりに言った少年が、小さく微笑んだような、気がした。



   ***



 きん、と金属同士がぶつかる音が雨に溶ける。ばしゃ、と音を立て、目の前の彼から距離を取る。

「……っ、」

 己と彼は実力は互角――否、彼の方が少し上だろうか。己の方が脇腹に傷を負っている分不利かもしれない。

「……はっ!」

 彼基樹が己の喉を捉えようと刃を振るってきたのを、後ろに飛び退く事で回避して。今度は己が前に出て、樹に向かい刃を振り下ろす。樹はそれを身体を捻って避け、真っ直ぐ己を見据える。

 もうずっとこの状態だ。互いの攻撃を、互いが避けているだけ。これでは、どちらかの体力が尽きるまで決着はつかないままだ。

(樹の狙いは……俺の体力を消耗させる事か)

 けれど、条件は樹も同じ。このまま互いに体力を減らし、何とか殺さずに事を解決出来ないか。殺すと言っておきながら、己は未だに迷っていた。

 その迷いが生んだ、一瞬の隙。それを、樹は見逃さなかった。


――ざしゅ。

 皮膚が裂ける、音がした。己の脇腹、初めに斬られた傷の直ぐ下が赤く染まる。

「ぐ……っ!」

 小さく声を漏らし、濡れた地面に片膝を突く。

「……勝負、ありましたね」

 冷たい表情を宿した樹が、一歩、また一歩と己に近付いてくる。そんな彼の黒曜の奥に隠した感情。己は、それを知っていた。彼と付き合っていく中で分かった、彼の癖。

(……本当は、アンタも……)

 己の目の前に跪いた樹をゆっくりと見上げて、己はぐっと刀の柄を握り締めた。

「――さようなら、奏さん」

 その言葉を聞くと同時に、己は刃を振り上げた。


 ざあざあと雨の音が聞こえる。己の腕の中で、一人の少年が横たわっていた。

「…………どう、して……分かったんです……?」

 か細い声。腹から胸元に掛けて走る傷口から溢れる紅が、雨で地面に広がっていく。

「……私、が……本当は…………逃げたかった、こと……」

「……分かるよ」

 そっと彼の身体を抱き締める。激しい雨で、少年の体温は奪われて冷たくなってきていた。

「……アンタの癖だろ、冷たい表情してる時程……本当は正反対の事、考えてる」

「……はは、ばれて……ました、か……」

 少年が呼吸する度に、ひゅうひゅうと音が鳴る。己は、まるで自らの体温を分け与えるかのように彼を更に抱き寄せた。

「…………かなで、さん……」

「……うん、何だ? 樹」

 少年――樹が震える腕を持ち上げ、己の頬に手を当てる。

「…………次、会う時……まで、私の……ネックレス……持ってて、下さい……」

 ――奏さん、今度私のネックレスあげますね。絶対似合いそうですから。

 以前、彼がそう言っていたのを思い出して瞼を閉じる。

「……分かった」

 小さく頷いてみせれば、樹は嬉しそうな、安心したような微笑みを浮かべて。

「……私が、会いにいくまで…………外さないで、下さい……ね?」

 約束、ですよ。


「…………たつき」

 約束をして、瞼を閉じた少年。天から降る雫は、止まる気配を見せない。

 彼の身体をそっと地面に横たえ、その胸に光る金色を外し、自分の胸へとつける。そして、一度瞬きをして少年の身体を抱き上げて。

「……約束、ですよ……樹さん」

 いつか……私に、会いに来て下さいね。そうしたら、今度こそ――。





「……奏、御前への今日の依頼は二件です」

「……分かりました」

 それから、梓から言い渡される依頼の数が減ったような気がする。心なしか、簡単にこなせるような依頼ばかりに感じて。

 梓は、あの後家に戻った己を何も言わずに抱き締めてくれた。吾妻家の父親の方は、梓が殺したらしい。己の傷の手当てをしながら、ぽつりぽつりと教えてくれた。己はといえば、命令された事を遂行した、とだけ伝え、大人しく手当てを受けるばかりで。

 その日の夜は、唯彼の形見であるネックレスをじっと見つめていたように思う。


「……梓兄さん、行ってきます」

「……はい、行ってらっしゃい」

――あれから五年。己は今も、彼が会いに来てくれる日を待ち続けている。


 了

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