蘭佳譚

本編

【第一話】白露

――その日は、雪が降っていた。

 今年に入って初めて天から舞い降り、世界を真っ白に染め上げた、雪が。





 花月町。多くの人が行き交うこの町は、クリスマスという事もあってか常より人が多いように見えた。

「……いつ来ても、少し息苦しいです。ここは」

 駅前にある大きなショッピングモール、その片隅にある小さな喫茶店。出された珈琲を一口飲みながら、はぁ、と溜め息を吐いた人物がいた。

 この町では珍しい銀色の肩まで届く髪を項で一括りにし、顏の左側を前髪で隠した、赤い瞳の青年。

「まぁまぁ、奏さん。すごく美味しいんですよ、ここのケーキ」

 ほら食べて食べて、と満面の笑みでケーキを頬張るのは、奏と呼ばれた青年とは真逆の色を宿した男性だった。

「それで、久坂さん。今回はどなたと会って欲しいんです? もう気が強い女の方は嫌ですよ?」

 ああいうタイプは苦手なんです、とまた溜め息を吐いた奏に、男性――久坂は苦笑を漏らした後、今回は女じゃないですよ、と懐から一枚の写真を出して見せた。

 写っているのは、明るい茶色の項までの短髪に、両耳を金色のピアスで飾り立てた派手な格好の青年で。

「蓮水葵といいましてね、この間妹と結婚したんですが……それはもう酷いらしいんですよ」

「酷い……ですか。それで、私にどうしろと?」

「僕と一緒に、彼に会いに行ってもらいたいんです」

「……一緒、ですか? 珍しいですね」

「今回ばかりは、妹が関わっていますから。この目で直接確かめたいんです」

 久坂の言葉に、奏の右目がすっと細められる。からん、と喫茶店の扉が来客を知らせる音を鳴らした。

「――それでは、今晩。八時に例の場所でお会いしましょう」

 楽しみにしていますよ、と微笑んだ久坂は、机に一万円札を一枚置いて席を立った。


   *


 白い息が空中に吐き出される。勘定を支払ってから喫茶店を出た奏は、その足でショッピングモールの裏へと回り、あまり太陽の光が届かない薄暗い路地裏へと入る。

 さくさくと地面を疎らに染める白を踏みながら、コートのポケットに手を伸ばし、黒いスマートフォンを取り出して。

「……はい」

「……もしもし、梓兄さん? もしかして寝てました?」

 数回の呼び出し音の後に聞こえてきた眠そうな声に、奏は小さく苦笑を零した。

「……ええ、モーニングコール、ありがとうございます」

 ふわ、と電話の向こうから欠伸が聞こえる。

「もうすぐ昼ですよ梓兄さん、しゃきっと起きて下さい……帰ったら、仕事の報告をしますので」

「はい……気を付けて、帰ってきて下さいね」

 では、と言う言葉と共に電話が切れる。

(こういう時は、決まって料理失敗するんですよね、梓兄さんは)

 終始眠そうだった兄の声に、奏の足は自然と帰路に近道を選んでいた。



   ***



 駅から歩いて十分程の距離にある住宅街、そこから少し外れた所にある大きな日本家屋。藤雲、の表札が掲げられたその家の玄関先に、腰まで届く銀色の髪を項で纏めた男性がいた。藤色の着物に薄い水色の羽織を肩に掛け、箒を片手に玄関の前に積もった雪を一ヶ所に集めている彼は、名を藤雲梓といった。

「……寒いですねぇ」

 ふるりと身体を震わせ、せっせと手を動かしていれば、ふわりと首元に柔らかい温もり。

「風邪、引きますよ」

 見れば、自分より少し背の低い己と同じ色を持つ青年。先程通話した、弟の奏だった。

「ありがとうございます……おかえりなさい、奏」

「ただいま、梓兄さん……昼ご飯は伊織が?」

「ええ……眠そうな兄貴には作らせられねぇ、ですって」

 くす、と苦笑しつつ、玄関の扉を開けて家の中に足を踏み入れる。ほんのりと暖かく、外の空気で冷えた身体を優しく包み込んでくれるような雰囲気に、ほう、と一つ息を吐いた。

「それで? 奏、報告というのは?」

 ゆっくりと居間へ向かいながら、隣を歩く弟に問えば、それがですね、と彼は口を開いた。

「いつもの久坂さんから私への依頼で、今度は妹さんの旦那さんを始末して欲しい、と」

「また久坂さんですか……奏も大変ですね、気に入られてしまって」

「ええ……ですが、今回の久坂さん、珍しいんですよね」

「……珍しい?」

 どういうことです、と居間へ続く引き戸に手を掛けた状態で梓が立ち止まる。視界に入れた奏の表情は、ほんの僅かだが不安そうに見えた。

「……共に、行きたいと。見届けたいと、仰ったんです」

「…………」

 弟が紡いだその言葉に、梓は眉を顰める。

「……奏、お前に頼みたいことがあります」

 そして、奏に一つ頼み事をするのだった。



   */*/*



 午後七時五十分。すっかり暗くなり、人の姿もあまり見受けられない木造の駅舎。その駅前の小さな広場に、奏の姿があった。煙草を片手に、ふう、と紫煙を夜の冷たい空気に溶け込ませている。

 花月町ではあまり目にする事のない公共の喫煙所が、この蘭佳町には何ヶ所か設置されていた。

(……それにしても、遠かったですね)

 心の中で小さく呟く。今いる蘭佳町は、奏が住んでいる花月町から電車で片道三時間の場所にある田舎町であった。

「こんばんは奏さん、待ちました?」

「いえ、私もほんの数分前に来たところですから」

 また一つ紫煙を吐いた奏の傍に、黒い短髪を揺らした男性が駆け寄る。奏の今回の依頼人であり、二年程前から奏についている常連客の久坂だ。

「それでは、行きましょうか」

「ええ……久坂さん、一つだけお願い致します。くれぐれも、邪魔だけはなさらぬよう。間違えて、殺してしまうかもしれませんから」

 大事な貴方を私は失いたくありませんからね、と奏は煙草の火を消しながら目を細めて久坂を見つめる。

「分かっています。ちゃんと、物陰から見守っていますよ」

 奏の柔らかくも逃げられなくなるような視線に、久坂は穏やかな笑みを浮かべてそう答えて。

(……梓兄さんの言う通りなのか……まだ分かりませんね)

 奏や梓のいる藤雲家は、裏社会で名を馳せている有名な殺し屋の一族だ。今まで依頼を失敗したという例は非常に少なく、殺しの腕は信用出来る。特に、当主である梓と、その弟である二男の奏。二人の実力はほぼ互角――兄の方が経験豊富なので奏より若干強い――というだけあって、彼等には常連の客がついている。

 となれば、そんな二人を良く思っていない人物も勿論いるという訳で。

(彼に、そんな度胸があるとは思えませんが……)

 足を動かし始めた久坂に、喫煙所内にあるごみ箱に煙草の吸殻を捨て、奏は彼の一歩後ろを歩き出した。

――裏切りには、気を付けて下さいね。

 出掛ける前に、兄が小さく零した言葉を思い出しながら。


   *


「……ここでいいんですね? 久坂さん」

「はい、貴方にはぴったりな場所でしょう?」

 蘭佳駅から北に十五分程歩いた場所にある森の入口。駅の北側は山道になっていて、昼間は学生やこの先にあるマンションの住人の姿が見れるが、夜になれば人っ子一人いない上に電柱の明かりも歩道の少し奥にある森には届かない。

 つまり、今いるこの場所は殺しには絶好の場所なのだ。

「あともう少ししたら、彼がここを通りますから。よろしくお願いしますね、奏さん」

「……ええ、お任せ下さい」

 久坂が大きな木の後ろに移動したのを確認し、奏はこの距離ならば、とジーンズの上から太腿に装着しているホルスターから拳銃を抜き、弾丸を装填する。始末対象である蓮水葵の容姿は、久坂から見せられた写真ではっきりと覚えていた。

 木の陰に身を隠し、気付かれないように気配を殺す。そうして、五分程経った頃――歩道に、一人の青年の姿が現れた。

(来ましたね……!)

 明るい項までの茶髪、両耳に金色のピアス。派手な装いに身を包んだ、写真で見た人物と全く同じ容姿。間違いない、蓮水葵その人だ。

 静かにセイフティを外し、彼へと銃口を向ける。引き金に指を掛け、そして――。


「……っ!」

 背後に感じた不穏な気配に、奏がその場から離れる。それと同時に、ぱん、という一発の銃声。積もった雪に飛んだ紅色の飛沫を、電柱の灯りが照らし出した。

「……ああ、」

 避けきれなかったのだろう、弾が掠って赤を流す右腕に、片膝を地面に突いている奏。そんな彼を見下ろし、口を開いたのは――始末対象の、蓮水葵だった。

「義兄さん、避けられちゃってますよ?」

「すまないね……相手は奏さんなんだ、大目に見てくれるかい?」

 そんな久坂と蓮水の会話を聞きながら、奏は久坂の手に握られた拳銃を視界に入れ、現状を理解した。

(失敗、しましたね……)

 小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。

「おや、この状況でも諦めないんですか……さすが藤雲家の御方だ」

 蓮水が奏を見て口角を上げる。

「そうですね……久坂さん、この依頼……破棄させて頂きます。こういった裏切り行為は契約違反に当たりますので」

「……構わないですよ。その代わり……」

 久坂の言葉に続けるように、また一発の発砲音。

「……ここで、死んで頂きます」

「……御冗談を」

 奏の足元には、先程の発砲で砕けた石の欠片。咄嗟に飛び退いて避けた奏の身代わりとなったのだ。

「申し訳ありませんが、私はまだ死ぬ訳にはいきませんので」

 お暇させて頂きます。

 にこりと微笑んだ奏の表情に、蓮水と久坂も同じような表情を浮かべる。

「――逃がしませんよ!」

 久坂のその言葉を合図に、奏は森の中へと走り出した。



   */*/*



「すっかり遅くなっちゃったなぁ……」

 蘭佳駅から北に二十分程歩いた山の中にある高等学校。その昇降口にある時計を見て、小さく息を吐いた少女がいた。矢筒を肩に背負い、弓を抱えた彼女は、上履きを脱いで革靴を持ち、職員用の玄関口へと向かう。

 今は午後八時過ぎ。最終下校時刻を過ぎている為、生徒用の昇降口は鍵が掛けられ、出入り出来ないのだ。

(雫はちゃんと帰ってるかな……早く帰ってご飯作らなきゃ)

 玄関口に着き、持っていた革靴を下ろして履いていれば、あら、という声が。

「こんな時間まで残ってたの? しのぶちゃん、熱心ねぇ」

「み、宮城先生! 驚かさないで下さい!」

 声が聞こえた瞬間に肩をびくりと跳ねさせた少女に、ごめんねぇ、と笑う白衣を着た赤い髪の男性。

「今から帰るんでしょう? 途中まで一緒に帰りましょうか」

 暗くて危ないから、という男性の言葉に、少女ははい、と頷いて。

「そういえば、さっき遠くから銃みたいな音聞こえたんですけど……」

「私にも聞こえたわよ。きっと鹿でも出たんじゃないかしら?」

 お役所の人達も大変ねぇ、とくすくす笑う男性に、少女はそうですよね、と安心したように微笑み、男性と共に外へと足を踏み出した。



   */*/*



――油断した。

 森を抜け、人気のない道を選び、駅の方へと走りながら、奏は唇を強く噛む。今回は常連客が依頼主であるし、自分一人だけでも充分こなせるだろうと、甘く見てしまっていた。

(伊織にでも、着いて来てもらうべきでした……)

 ぽたぽたと紅を滴らせている右腕を押さえ、暗い夜道を必死に走る。まさか、信用していた常連客に裏切られるとは。

(梓兄さん……貴方に頼まれたこと、しなくてはならないようです……)

 はあはあと獣のような息を口から吐き出しながら、背後から自分に迫ってくる声から逃れる為、隠れられるような場所を探す。

「……!」

 久坂と待ち合わせた駅前の広場の近くに、殆どの店が閉められた大きな商店街。その入り口の脇に、暗くて分かり難いが大人一人なら通れるであろう細い道があった。

(……ここなら……!)

 奏は迷わずその道へ飛び込む。ようやく血が止まってきた腕を庇いつつ、道の奥へと入っていく。どうやらこの道は路地裏のようで、積もった雪が凍っている場所も何ヶ所かあった。

 雪が凍っている場所を避けて壁に背を預け、荒くなった呼吸を整える。奏を追ってきていた二つの存在は、奏の事を見失って諦めたのか、気配を全く感じない。

 ふう、と安心したように息を吐いて、背後の壁を伝いずるずると白に覆われている地面に座り込んだ。

(……どうにか、逃げ切れたようですけど)

 少し疲れた表情で、ジーンズのポケットから煙草の箱とライターを取り出し、箱から一本取り出して口に銜えて火を点ける。立ち上った紫煙がじわりと夜の闇を霞ませて。

 右手に持った拳銃はそのままに、今になって途切れそうになってきた意識を必死に手繰り寄せていた、その時だった。


 さく、と小さな足音が鼓膜に届いた。

「……っ!」

 一気に意識が現実へと引き戻される。まさか、もう彼等に見つかってしまったのか。ぎり、と唇を噛む。利き手である右手は怪我で使えない。持っていた拳銃を左手に持ち替え、出来る限り気配を殺す。足音が段々と近付いてきて、その姿を見せたと同時に、奏は――上げようとした腕を止めた。

 奏の前に立っていたのは、この闇の中でも目立つ藍色のラインが入った真白なコートを着た少女だった。齢は十六、七といったところか。座り込んでいる奏を一目見て、少し大人びた顏に心配の二文字を乗せ、立ち止まったまま奏をじっと見つめている。

「……あの、大丈夫ですか? 酷い怪我……」

 稍あって、鈴を振るような声で彼女が紡いだ言葉に、奏はこれが大丈夫に見えますか、と肩を竦めて。

「貴女はさっさと家に帰りなさい。死にたいなら話は別ですが」

 偶然通りかかったとはいえ、彼女は一般人。そして、奏は裏社会の人間。表の社会とは関わりのない殺し屋なのだ。こんな事はしたくないのだが、いざとなれば武器を突き付けて追い返すしかない。撒いたとはいえ、久坂と蓮水に気付かれないという確たる保障はないのだ、彼女を危険に巻き込む訳にはいかない。

 というより、何故この少女がこんな路地裏にいるのか。彼女に此処にいられたら、今の奏には都合が悪い。

(早く……彼女に立ち去ってもらわなければ)

 巻き込みたくない。その一心で、先程上げかけた左腕を動かし、銃口を目の前の少女に向ける。久坂との一件で外したままだったセイフティをかけながら。

「……!」

 少女の竜胆色の瞳が丸くなる。これで、怖がって逃げてくれるだろうか――。

「それ仕舞って家に来て下さい。手当てしますから」

「……はい?」

 予想とは正反対の反応な上、家に来いなどという言葉を紡いだ彼女に、奏は思わず素っ頓狂な声を上げた。そんな奏に構わず、少女は奏の傷を負っている方の腕を取ってコートの中に手を差し入れ、胸からスカーフを引き抜くと奏の傷口をそれで強く縛る。撫子色の布に、紅色が滲んだ。

「ほら、血が出てるわ。ここじゃ応急処置しか出来ないから、家でちゃんと手当てしないと」

「……貴女、正気ですか」

 怯えるどころか応急処置までしだした彼女に、思わず口走ってしまった言葉。それに対し、少女はにっと口角を上げてええ、と答えて。

「怪我をしているくせに私を追い返そうとした貴方よりは、ずっと正気です」

 その言葉に目を見開く。気付いていたというのか、彼女は。奏の考えていた事に。

「ほら、早くその銃仕舞って下さい。行きますよ」

 傷に障らないように気を付けながら、腕をぐいぐいと引っ張って来る目の前の少女に、はあ、と心中で溜め息を吐いた奏は、手に持った銃を太腿のホルスターに納めて緩慢な動きで立ち上がり。

(仕方ない、いざとなったら私が護ってあげますか)

 ぱあっと目を輝かせて歩き出した少女の背中を見て、奏はそう思った。


   *


 彼女は名を望月しのぶと言った。この田舎町――蘭佳町にある唯一の高校である蘭佳高校に通う現役の女子高生。齢は十七で、弓道部の主将をしているらしい。

 ちなみに、あの路地裏は家に帰るまでの近道で、今日のように部活動で遅くなってしまった日には必ず使っている道なのだという。

「怪我が治るまでは家にいていいわ」

 奏の右腕に包帯を巻き終わった後、しのぶは有無を言わせない表情できっぱりと言い、散らばった消毒液やらテープやらを救急箱の中へと放り込んでいく。

 どうして見ず知らずの相手、しかも手負いとはいえ男性の奏にここまで出来るのか疑問だが、きっと彼女の性格がそうさせるのだろう。

(……これも、何かの縁ですかね)

 そう思った奏は、有り難く彼女の言葉通り、怪我が治るまで世話になる事にしたのだった。





「……ん」

 ふっと意識が浮上した。カーテンの隙間から差し込む太陽の光が眩しい。緩慢な動きで上半身をベッドから起こし、欠伸を零しながらカーテンを引いて朝日を部屋全体に導き入れる。

(――夢を、)

 見ていた気がする。しのぶと出会った頃の夢を。

 ぐっと背伸びをして、掛布団を退けてベッドから身体を下ろし、床に足を着ける。あの時負った怪我はもうすっかり良くなっていたが、己は家に帰ろうにも帰れない。

 依頼に失敗した藤雲家の殺し屋に待っているのは、一族からその名を永久に消される事と、口封じにと何らかの傷を負わされ、家から追い出される事。

 最も、あの依頼は依頼主である久坂が契約違反の裏切りをした為に無効になっているのだが、あの時一族の当主である兄の梓にこう頼まれたのだ。

――もし裏切りにあったら、藤雲の者には一切連絡せず、藤雲から身を隠していて下さい。事を収めたら、私から連絡します。

(……とても心配です)

 梓の言葉を思い出し、己は眉根を寄せる。彼は、刀を振るう事に迷いは無い。けれど、優しすぎるのだ。依頼を終えて帰って来た後は、必ずと言っていい程ぼんやりと空を見上げている。それに加え、梓は家族の為に自身を犠牲にする事が多々あり、その度に己や弟の伊織、己の姉の紅葉くれはが説教をしてきた。

(頼みましたよ、伊織)

 紅葉は今、海外に留学していて不在なのだ。伊織だけが頼りである。後は、己が藤雲の者に見つからないように身を隠してさえいれば、梓の邪魔にはならない。

 幸い、この町は藤雲家の拠点である花月町からは遠く離れている。己が正体を隠してさえいれば、見つかる事は無いだろう。


 秋の肌寒い風に身体を震わせ、己はクローゼットの中からカーディガンを取り出して肩に掛け、きしりと床を踏んで階段を下り、リビングがある一階へと足を運んだ。其処が近付くにつれ、食欲をそそる良い匂いが鼻を擽る。

 今日の朝食はしのぶが当番だ。彼女の作る料理は質素だが、食べ応えがある。味付けは全て甘めなのだが、それを気にしていてはしのぶの料理は食べられない。

「おはようございます」

 リビングに入って挨拶をすれば、丁度テーブルにサラダを盛った皿を置いていた彼女がおはよう、と答えてくれて。

「奏さん、今日少し寝坊したでしょ」

 しのぶが微笑んで此方を見る。己はそうかもしれませんねえ、と小さく欠伸を零し。足元に寄ってきたしのぶの飼い猫である雫の黒い毛並みを優しく撫で、椅子を引いてゆっくりと座る。

 しのぶが席に着いたのを確認してから、両手を合わせて口を開いた。

「いただきます」

――嗚呼、今日も長閑な一日が始まる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る