第11話 桜のジャム

 午後から翔さんがやってくる。

 掃除をしなければいけないと、いつもより念入りに掃除機をかける。

 それからお茶を入れて少しずつ飲む。

 パンが焼けて、バターの代わりに、新宿御苑で買ってきた桜のジャムを塗って食べる。優しい味わいだった。こころがほのかに、温かくなるようなそんな味わいだ。

 これならば、翔さんにも食べてほしいなと思う。

 食器を洗って、翔さんのためにいれるお茶を選ぶ。今回はほうじ茶にした。

 半そでの柔らかい素材のワンピースに着替えてから、カーディガンを羽織る。

 今朝のメールで、たまごを分け合ったあのスーパーで待ち合わせることになっていた。でかけるには、まだ早い。そう言えば、翔さんは食事をすませてくるのだろうか。あとで、聞いてみよう。この前に会ったときは、お互いに何か食べて行ったはずだった。

 夏なので、いれたてのお茶よりも冷めたお茶の方がいいことに気づく。ほうじ茶を入れて、ポットを水につけて冷ます。二回くらい水を取り替えて、ふきんで水滴を拭ってから、冷蔵庫の空いているスペースにそっといれる。

 約束の時間が近づいてきた。わたしはスーパーに向かう。

 平日は毎日通るのに、休日だと雰囲気が違うように感じる。

 公園に止められた小さな自転車。滑り台で遊ぶ子どもたち。夏休みも残り少ないはずなのに、あの子たちにはまるで関係がないようだ。そろそろ、宿題の追い込みがあるはずなのにと、わたしは思う。今と、わたしの頃とでは、宿題の量が違うのだろうか。

 スーパーについた。暑いので、中に入っていようと思った。翔さんもそろそろつくはずだ。

 特に買いたいものはないので、フードスペースにいることにした。

 すると、翔さんが自動ドアから入ってくるのだ。わたしは、軽く右手をあげて翔さんの名前を呼ぶ。

「お待たせして、なんだか申し訳ないです。りんさんは、どのくらい待ちましたか?」

「わたしは、ほとんど待っていませんよ。だから、気にしないでください」

 椅子から立ち上がって、翔さんがいるほうへと歩く。

「何か、買い物はありますか?」

「ぼくは、特にありません」

 わたしの住む部屋までの道のりは、とても覚えやすいものだった。

 鍵を開けて、スリッパを出す。そして、翔さんを招きいれた。

 「お邪魔します」と言いながら、翔さんがわたしの部屋に入った。

 翔さんには適当に座ってもらって、わたしはお茶の準備をする。

 おぼんに、コースターを三枚載せて、ポットとグラスを運び、テーブルの上に置いた。

 コースターの上にグラスを載せて、お茶を注ぐ。

 翔さんは、翔さんで持ってきてくれたDVDを見せてくれた。

 DVDはあとで観ることにして、しばらく会話を楽しんだ。

「今日は来てくれてありがとう。まさか、来てくれるとは思わなかったから、本当にうれしいよ」

「ぼくが会いたいと思ったから、来てしまいました。りんさんのヒビが気になりますが、美味しいお茶を用意してくれていたんですね。こちらこそ、ありがとう」

 久しぶりに翔さんは、ほうじ茶を飲んだらしい。昼食も軽くだが、すませてきたそうだ。

 長い平日を過ごして、翔さんと過ごす時間を、これほど楽しみにしていたとは自分でも気づかなかった。

 そういえば、翔さんはどこに住んでいるのだろうか。聞いてみよう。

「翔さんは、どのあたりに住んでいるのですか?」

「ぼくはね、ここの最寄り駅の隣の駅から出ている別の路線です。ちょっとだけ、遠いけれど、あのスーパーじゃないと新鮮な食材は買えないんですよ」

「確かに、そうですね。東京都内の交通網が発達している場所で、あれだけ新鮮な野菜を販売しているスーパーは珍しいですよね」

 やはり、わたしの住んでいる部屋は、立地条件に恵まれているのかもしれない。

 翔さんが持ってきたDVDをデッキに入れて、再生してみる。おそらく、ジャンルで言えば恋愛もので、あらすじを短く簡潔にまとめると、事故の後遺症で障害を負った男性が、ちょっと訳ありの女性と恋に落ちるというものだった。最後は、ハッピーエンドということになるのだろう。わたしは優しい映画だと思った。

「優しい映画ですね」

「ぼくもそう思います。優しくて、温かな物語ですね」

「さっき食べた桜のジャムみたいです。こころがほのかに温かくなる。そんな映画です」

 わたしは、お茶をいれなおすためにキッチンへ行った。

「カルピスは飲めますか?」

「大丈夫です」

 そういう訳で、わたしはカルピスを作ることにした。

 翔さんのほうへグラスを置いてから、わたしのところへ置く。

 一口飲んでから、翔さんは「美味しい」と言ってくれた。

 そのたったの一言で、わたしは嬉しくなる。

 こうして、幸せな時間は過ぎていく。翔さんといられる時間は、あとどのくらいなのかなと、ふいに考えてしまった。そして、どうしてわたしは、いつも先の心配ばかりしてしまうのだろうかと、考えた。それが、どうやら翔さんに伝わったらしい。

「どうしたんですか?」

 だから、つい、話してしまった。

「まだ、出会ったばかりなのに、先のことが心配になるのです」

 きっと、マイナス思考だと思われたはずだ。

「それならば、大丈夫です。ぼくもネガティブな人間ですから、りんさんはどうしてぼくと一緒にいてくれるのかと、考えてしまいます」

「翔さんは優しいですね。プラス思考になりたい訳ではないけれど、どうしてこんなに暗いのかなと思ってしまいます」

「ぼくは、暗いとは思っていませんよ。りんさんは穏やかなかたなので、一緒にいると落ち着くのです」

「ありがとう」

 わたしは、泣きそうになりながら答える。

 翔さんは、そっとわたしの頭をなでてくれた。自然と、笑顔になれる。

「わたしは翔さんといると、落ち着くし、安心できるなって思います」

 そんなこんなで、そろそろ帰りの時間だ。翔さんが帰り支度をはじめて、わたしはそれを見守る。

「今日は来てくれて、ありがとうございました」

「こちらこそ、お邪魔しました。飲み物がとても美味しかったです。また、会いたいですね」

「はい、また会いましょう」

 そうしてわたしたちは、玄関先で名残惜しさを感じながら別れた。

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