第10話 平日
目覚まし通りの時間に起きて、今日から平日の五日間を会社で過ごす。
最寄り駅の近くなので、地下鉄に乗らずに会社へ行けるのは便利だ。そう思うのも、左足の裏に違和感があるからだ。ちょうど、親指の下の骨の部分になる。これはなぜだろうかと、考えながらタイムカードを打つ。今日が期限の納品先への訪問予定などを確認する。わたしが訪問するわけではないけれど、念のためということで、わたしも確認している。そして、電気ケトルでお湯を沸かして、マイボトルに紅茶を入れる。猫舌のわたしはかなり濃くいれてから、水で薄める。ティーバッグを捨ててから、キャップを閉めて、自分の席へ移動する。それから、午前の仕事は開始となる。
この仕事のいいところは、ある程度のペースを守っていれば、自分の処理速度に合わせて進められるという点だろう。
ほかの社員たちは、デザインが浮かばないとか、締め切りが近いという会話をよくしているように思う。
ところがわたしは、それらとは一切関係がない。なかなか向いている職業だと思っている。いくらでも、替えが効く職業とも言うのだが、そこは考えないことにしている。
お昼休み。今日も平和だと思って、お弁当に手をのばす。
同僚たちとのあまり踏み込めない会話にも、数年立てばすっかり慣れてしまって、今では時々相槌を打ったり、質問をしたりするだけだ。わたしが会話の中心になることは、まずないと思ったほうがいい。
こうして、お昼休みは過ぎていく。
午後の始業とともに、二人が納品先に向かった。
わたしは午前中のほうが好きだ。午後になると、電話が多くなるからだ。
こちらにはじめて電話をしたという新規のお問い合わせがあり、取り次いだ。最近は新規の開拓はしていないので、どちらで弊社をお知りになりましたかと尋ねると、なんとこの会社のウェブサイトだった。なんでも、料金が一例だが載っていて、安心できたそうだ。ウェブサイトも、無駄ではないのだなと、当たり前のことを思った。
そろそろマイボトルの中身がなくなってきた。新しく紅茶を入れなおそう。そう思い、席を立ったときだった。足の裏が例えるなら、ピキーンと音をさせながらではないと動かない。しかも、今朝よりも足の裏が痛むのだ。歩くたびに、響くように痛む。キッチンまで行き、紅茶をいれるのだが足が痛い。ポケットに入っていたハンカチを濡らして、当てておくことにする。しかし、嫌な予感がする。そのまま、仕事を続けようとしていたのだが、わたしの状態をみた社長から、早退するように言われた。軽い気持ちで行った整形外科では、全治一ヶ月と言われた。足の裏の痛みの正体は疲労骨折でヒビが入っていたのだった。
幸いにも、ギブスはしないという治療法があるらしくわたしはそれを選択した。整形外科の先生には、最低でも週に一回、できれば二回以上は来るように言われた。
整形外科からの帰り道、主治医から左足をかばい過ぎて、ほかの所をおかいしくしてしまうのが怖いから、あまり気を使いすぎないようにと言われた。
そうは言われても、クリニック内にある自分でやるレーザー治療器の使い方を教わってしまっては、無理な話で気になってしまう。
なんで、ヒビなんて入ったのかしらと考えてみても、思いつかない。
帰宅して、いつものように入浴と食事をすませる。
そして、まだ十九時だったが目覚まし時計をセットして、ベッドに横になる。眠ろうとしているわけではなく、なんとなく横になってみた。本の続きを読もうか、どうしようかと考えてみて、気づけば朝まで眠っていた。気づかないうちに、疲れをためていたのかもしれない。
セットしておいた時間よりも、早く起きてしまった。一時間も早い。
掃除機を軽くかけてから、緑茶をいれた。
昨日よりかは痛みが引いていることを願っていたが、やはり歩くたびに骨に響くようだ。ギブスをしていたら、もっと不便な生活を送らざるを得なかっただろう。
ちょうどいいタイミングで起きられたのだから、早めに出社して、そして、社長にお礼を言わなくてはならないのだ。
三十分早く家を出たら、見える景色が違っていた。ほとんど、人とすれ違わないのだ。
会社について、タイムカードをどうするのか迷ったが、打っておくことにする。
それから、わたしはいつものように、マイボトルに紅茶を注ぎ、水でうめる。
「あれ、どうしたの? 早いね」
社長から話しかけられて、ちょっとびっくりした。後ろを向いていたから、気づかなかったのだ。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「会社はそれくらい大丈夫だ。だけど、足は結局どうだったの?」
「整形外科に行ったら、疲労骨折でヒビが入っていると言われました。でも、ギブスをはめない治療法で、一ヶ月も整形外科に通えば治るそうです」
「えっ? 疲労骨折?」
「はい。最低週に一回、できれば二回以上通えば大丈夫らしいですよ。レーザー治療も、自分でできるタイプのもので、クリニックにある専用の器具の使い方を昨日、教わってきたばかりです。十九時までに受付を済ませられれば、問題ないとのことでした」
「それは、大変だったね。やっぱり、早退してもらってよかったみたいだ」
「はい、またよろしくお願いします」
「それじゃあ、仕事はほどほどに頑張れよ」
そう言うと、社長はまたどこかへ出て行ってしまった。
次々と社員たちがやってくる。ちょうど、通勤ラッシュの時間帯だ。
近くの席の同僚に、昨日のことを聞かれて、疲労骨折でヒビが入っていたと伝えたら、驚いていた。わたしも逆の立場ならば、驚くだろう。「お大事にしてね」といわれて、「ありがとう」と返しておいた。
今日も仕事は忙しい。時々、お茶を飲む程度の休憩は取れるのだが、それ以外はほとんど何かをしていた。
そんな調子でお昼休み。わたしの左足の骨にヒビが入っているという事実は、会社中に知れ渡っていた。どんな症状なのかとか、どんな治療を受けているのかとか一通りのことは聞かれたし、わたしも話した。
メールの確認を昨日の夜にするのを忘れていて、今朝してみた。いくつかメールはきていたが、翔さんからではなかった。
午後は午前よりかは静かで、窓の外では雨が降り出していた。わたしは自分の席の引き出しを開けて、折りたたみ式の傘の存在を確認した。
キッチンで、マイボトルの中身を新しくする。気温が下がってきていたので、いつもよりやや温かくする。
窓の外に降る雨はだいぶ勢いがなくなっていた。これなら、あの傘でも大丈夫だと思う。
今日は帰ったら、翔さんにメールをしてみようと思った。
定時で仕事は終わり、スーパーで食材を買いこむ。
そして、その日の夜に、翔さんにメールを送った。
「こんばんは、りんです。
今日は久しぶりに雨が降りましたね。
急に冷え込んできたので、体調を崩さないように気をつけてください」
足を床につけているよりも、横になっている方がいい気がして、ベッドに寝てみる。取り扱い説明書がどこかへ行ってしまったので、今までこんな機能があるとは知らなかった。毎日、決まった時間に、アラームを鳴らすことができるらしい。これは便利な機能だと思った。
「こんばんは、りんさん。翔です。
雨は久しぶりでしたね。台風じゃなくてよかったです。
りんさんも、体調には気をつけてください。今は、大丈夫ですか?」
翔さんから届いたメールを読んで、まるで、催促していたようだなと、少しだけ反省した。
「実は、左足に疲労骨折でヒビが入ってしまいました。
自然にヒビが入ってしまったので、いつ、そうなったのかは分かりません。
でも、一ヶ月程度で治るし、ギブスもしていないのです。
翔さんは風邪などを引いていないですか? 大丈夫ですか?」
すぐに返信が来た。
「りんさんは、人の心配をしている場合ではないですよ。
ヒビでも侮ると大変です。お大事にしてください。
ぼくは何ともないですが、何か役に立てることがあったら遠慮せずに、教えてください」
ありがとう、翔さん。そんな気持ちを込めて、メールをした。
「ありがとうございます。
何かあったら、頼らせてください。
おやすみなさい、翔さん」
それから、何度か時計を見ているうちに、眠りについていた。
今日は整形外科への通院の日だ。
退社してから、レーザー治療を受ける。一日一回、三分間でどれほど効くのだろうかと考えていたら、照射の時間は終わっていた。
沖縄の方に台風が来ているらしい。北上してきたら嫌だなと思いながら、わたしは歩く。
いつものように部屋のドアを開けて、鍵を素早く閉める。いつもとは変わらない習慣の中で、翔さんとのできごとだけが、くっきりと浮かんで見えた。
木曜日ということで、今日は燃えるゴミの日だ。袋の口を縛ってから、定められた場所に置いて、わたしは出社した。
今日は、いつもよりも社内が慌ただしい。それも、無理はない。大きな仕事の納期前なのだ。社長が朝から「この仕事は、うちの会社を発展させられるかどうかの分かれ道だ」と力説している。社員のあいだにも、いい意味での緊張感が生まれた。
月曜日、水曜日、金曜日と通う整形外科も休診日だ。残業でも、大丈夫だ。
自分で自分に気合を入れてみたものの定時で退社できてしまった。
帰宅して、入浴も食事もすませる。
わたしは、、やはりベッドに横になってから、メールの確認をする。今のところ、新しいメールは届いていないようだ。
今日もまた、気づかぬうちに眠っていた。
金曜日、今週は長い。
家を出てから、折りたたみ式の傘を忘れたことに気づいた。急いで取って、バッグの中に入れる。
会社に着き、タイムカードを打ってから、机の引き出しに傘をしまった。
先日の大きな仕事が、一段落したようで、あの忙しさはなくなっていた。そして、わたしは退社の時間となり、整形外科へと向かう。この前と同じ手順で、レーザーを照射して、会計が終わるのを待つ。名前を呼ばれて受付に向かい、ここ以外はどこにも寄らずに帰宅。
メールが届いていて、どこからだろうかと確認をしてみたら、翔さんからだった。
「こんばんは、翔です。
明日ですが、りんさんに用事がなければ、お見舞いに行かせてください」
お見舞い? 入院したときなどのあのお見舞いなのだろうか?
「こんばんは、翔さん。
あの、お見舞いというほど酷い骨折ではないですよ?」
「そうなんですか?
りんさんに会いたいんですが、どこかへ出かけるのでは大変そうなので、それならば、りんさんのお部屋でなら大丈夫かなと思ったのです」
「わたしも、翔さんには会いたいです。
しかし、暇つぶしになるようなものはないので、何か翔さんが時間を潰せるものを持ってきたほうがいいと思いますよ」
「分かりました。
映画でも見ましょうか? DVDは再生できますか?」
「大丈夫です。
再生できますよ」
「じゃあ、明日お邪魔します。
時間はこの前と同じ十三時頃でいいですか?」
「はい、楽しみにしています」
「それじゃあ、おやすみなさい」
翔さんが明日、わざわざ、こんなわたしに会いにきてくれるというのが、本当に嬉しい。とても、楽しみだ。
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