第5話 温室
目覚まし時計が鳴っていて、気づけば九時を少しまわっている時計の針。寝坊ではないけれど、よく眠っていて音に気づけなかった。深い眠りだったようだ。
ベッドから起き上がって、カーテンを開ける。太陽のまぶしさに一瞬だけ目を閉じた。
朝食は残り物で簡単に済ませた。問題は着るものだ。どうしようと考えているうちに、時間ばかりが過ぎていく。結局、ピンクの花柄のTシャツに、七分丈のアイボリーのカーディガンを合わせた。あとは、ジーンズとスニーカーにしよう。ショルダーバッグを肩にかけて、中をのぞいて見ると、足りないものに気がついた。それはデジタルカメラだ。それをバッグに詰め込んで、わたしは鍵をかける。
駅は休暇ということもあり、混んでいる。やや遅れてやってきた地下鉄に乗りこむ。やはり、空いている席は見つからず、つり革をつかんで少しの間立っていた。目的地が近づき、ドアの近くに移動する。家を出てから新宿御苑前駅に着くまで三十分ほどかかったことになる。翔さんとの約束で、わたしは改札の中にいる。思っていたよりも小さな駅だったから、改札の中にいる方が安心できた。まさかここまで考えてくれていたのだろうか。
「りんさん、こんにちは」
聞き覚えのある声がして、聞こえた方を向くと、翔さんが居た。
わたしも改札から抜けて、近くに行く。
「翔さん、こんにちは。改札の外ということは、どこかの駅から歩いて来てくれたのですか?」
「新宿駅から少しだけ歩いて来ました。本当に来てくれたんですね。ありがとうございます」
「翔さんこそ、時間通りに来てくれましたね。ありがとうございます」
「では、行きましょう。すぐ近くです」
翔さんは歩き出す。わたしも翔さんのスピードに合わせて歩く。大きな看板によると新宿門というらしい。翔さんに御苑の中はあまり自動販売機や、売店がないから事前に買っておいたほうが良いという話を聞いて、わたしはペットボトルに入ったお茶を買うことにした。翔さんも何か買っているようだ。
入園料を支払って、駅の改札のような場所を通り抜けると、そこはとても広い公園に思えた。
「まずは、温室に行きましょうか。あの温室は暑いけれど、とてもいいところなのです」
「それは楽しみです」
温室の一部が見えてきた。想像していたよりも広そうな温室だ。
いざ中に入ってみると、確かに少し暑いし、そして、独特のにおいがあった。温室の中は新宿というのが信じられないくらいに静かで、それでいてきれいだった。
赤紫色の葉がついていて、珊瑚のような形をした品のあるピンクの花。天使の羽はきっとこんな色をしているんじゃないかしらと思ってしまうような白い星型の花。丸い椅子の形をした大きなサボテン。ソラマメのさやのような色をしたフタつきの食虫植物。白地に緑の線が入った葉を身につけた木。はじめて見た不思議できれいな植物たち。だけど、たまにちょっと不気味な気配をまとった植物もある。
「素敵な場所ですね」
「ぼくもそう思います」
「温室に入った直後は少し暑いと思ったんですけど、今は慣れてしまいました」
「それはいけない。熱中症にでもなったら大変です。もうそろそろ、外へ出ましょう」
翔さんはそう言うと、さりげなくわたしの手を引いて少し先を歩いていくのだ。別の意味で、わたしの顔が熱くなってしまった。
外に出ると、ほてった顔にあたるそよ風が心地よかった。
園内を歩いているうちに、二人とも歩き疲れてきた。案内図を見て、近くに休めるところがあるのを知る。この時にはもう、手は繋いでいなかった。
外よりかは涼しい温度の室内で飲むアイスティーは美味しかった。翔さんはアイスコーヒーとカレーのセットを、わたしはアイスティーとオムライスのセットを頼んだ。
「御苑には、はじめて来たんですけど、こんなにいい場所だったんですね。それに、なんだか落ち着きますね」
「ぼくは前にも来たことがあるけど、温室が一番好きなんです。だから、今日はこうしてりんさんと来ることができて、良かったと思っているんですよ」
「温室はわたしも好きになりました。はじめてみる植物がたくさんあって、とても面白いし楽しいですね」
二人が注文した料理が届いたのはほぼ、同時だった。
丸く可愛らしい形をしたオムライス。そのてっぺんにはイチゴのジャムが塗られていて、さらに何かの花びらが一枚乗っている。オムライスの周りには、デミグラスソース。ちょこんとのっているサラダにはオリーブが添えられている。食べるのが惜しいくらいに、可愛らしい盛りつけ。おすすめとしてメニューボードにのる価値は十分にあった。
わたしがオムライスに見とれていると、翔さんに笑われてしまった。
一方、翔さんの頼んだカレーは丸い器に盛り付けられていて、花びらの代わりに福神漬けが乗っていた。
お互いに食事をしているので、会話らしい会話がないのだが、そんな時間もわたしには居心地がいい。
ここには売店もあるようで、見たところ最初に目に留まったのが、さくらのジャムだった。わたしはそれを購入した。
二人で樹木が植えられた通りを歩いていると、そのうちの一本は偶然にも木のうろがハートに見えるのだ。それが木になって、わたしはデジタルカメラで撮った。
この頃には、わたしはすっかり新宿御苑という場所に魅せられていた。
「翔さんが連れてきてくれたこの場所は、本当に素敵な場所です。ありがとうございました」
「こちらも、楽しかったです。ありがとうございました」
「通り道です。駅まで送って行ってもいいですか?」
「よろしくお願いします」
二人が並んで歩いている風景は、第三者の目からしたら、恋人同士のように見えるのかなと、わたしはつい考えてしまう。
あっという間に駅に着いてしまった。
「また会いましょう」
「わたしも、そうしたいです」
「ありがとう。それじゃあ、気をつけて帰ってくださいね、りんさん」
「翔さんも気をつけて帰ってください」
そうして、お互いに軽く手を上げて別れた。
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