4 罪人を気取っているだけ

 鳥の鳴き声すらしない、静かな朝。

 僕は荒い呼吸を繰り返しながら飛び起きた。


 汗により前髪が額に張り付き、シャツが湿って気持ち悪い。

 知世のカメラを見ている内に眠ってしまっていたようだ。固い床に転がって寝ていたから体が痛む。

 僕は額の汗を手の甲で拭き取り、呼吸を落ち着かせた。


「ゆ、夢、か」


 あの写真を撮った日の夢だった。

 最後だけは違ったが。


「そう、だよな。恨んでるよな」


 殺したのだから、恨んでいないわけがない。


 それなのに、知世の血を僕の血で塗り替えようなど、おこがましいにもほどがある。むしろ彼女の死を汚す行為であった。

 自殺するならばもっと別の場所でするべきだ。


「そういえば、音はもうしていないな……」


 眠っている間にヤツラは去ったようで、教室は静寂に包まれていた。

 もしかすると叩くのを止めただけで、近くをうろついているかもしれない。

 そっと扉の方に近づき、耳を澄ませてみる。だが何も物音はなかった。

 どうやらすぐ近くにはいないらしい。


 ほっと息を吐くと、緊張が少し解けたのか、強いのどの渇きを覚えた。

 考えてみれば、半日以上何も飲んでいない。のどが渇くのは当然だ。


「確か……」


 呟きつつ、僕は自分の鞄を漁る。

 そしてまだお茶が残っているペットボトルを取り出した。

 蓋を開けて中身を一気に呷ると、急速に渇きが癒えていく。


 中身が空っぽになったペットボトルを床に置き、僕は大の字に寝そべった。机の多くは扉側に配置してあるから、スペースが空いているのだ。


「なんで、飲んでるんだろ」


 これっぽっちも生きる気がないというのに、お茶を飲んでしまった。

 何も飲まずにいれば数日で死ぬだろうに、浅ましくも命を長らえさせてしまった。

 死にたいと思いながらも、生に執着するような行いをすることに、僕は嫌な気分になる。


 何を生きようとしている。

 僕に生きる価値などないというのに。


「でももう、飲み物はないし、食べ物もない。このままここにいれば、その内……」


 飲み食いしなければ、人は何日で死ぬのだろう。

 餓死はとても辛いものだ。聞かなくても、想像でわかる。

 じわじわと死に近づいていくのは、拷問そのもの。


 でもそうすれば、僕の罪が少しくらい軽くなりはしないだろうか。

 知世が、ほんの少しでもすっきりしてはくれないか。


「何したって完全に許してはくれないだろうけど」


 わずかでも、許しを与えてもらえるならば。


 所詮は自己満足だと理解しながらも、僕はただ時が過ぎるのを待つ。

 目をつむり、無為に時間を過ごす。


 果たして僕は何日生きるだろう。

 一週間はいかないはずだ。三日か、四日くらいだと思う。

 もしかするとその前に救助が来るかもしれない。でもこの騒ぎが始まって結構時間がたつが、救助のきの字もない有様だ。

 騒ぎは学校に止まらず、町中に及んでいる可能性があった。


「まあ……どうでもいいけど」


 どうなろうと、僕は生き続けるべきではない。

 苦しみの果てに、地獄に落ちるべきだ。


「そうだろう? 知世」


 あの世で僕をせせら笑うといい。

 嘲り、見下し、唾を吐いてくれ。

 それくらいしてもいい罪が僕にはある。


 しかし、僕の中の知世は、変わらない笑顔を向けてきていた。

 にっこりと満面に笑みをたたえて、嬉しげに僕の名前を呼んでくる。


「やめてよ」


 まさか、これが僕の本心だというのか。


 表面上では罪を責められるべきだと考えていながら、心の底では罪などないと思っているのか。


「馬鹿か。僕は、知世を殺したんだぞ」


 仕方がないことだった。

 あんなことになれば、誰でもそうする。


 言い訳じみた思考が湧いて出てきて、僕は自分の頭を叩く。


 僕は弱い。

 罪から逃げようとしている。罪を罪と認めることが、とても恐ろしいのだ。なのに罪悪感は僕の胸に溜まってしまっていた。

 それらの折り合いをつけるため、表面上だけ取り繕うように罪人を気取っている。


 なんて浅ましい人間だ。

 本当に自分が嫌になる。


「死ねば、終わるのかな……」


 死は、終わりなのか。

 死後などないのならば、きっと僕は救われる。知世も死んだ瞬間に終わっているから、恨まれているというのは僕の想像止まりになる。


 だが、死してもなお続きがあるならば、僕はこの苦しみを永遠に感じるだろう。知世の恨みも本当に存在してしまうかもしれない。いや、恨まないはずがない。


 果たして、どちらか。


「わかるわけないけどさ」


 死ななければわからないことだ。

 でも、希望を言うならば、死後などいらない。

 死が絶対的な終わりではないなんて、救いがなさすぎる。


「……僕にとって、だけど」


 乾いた笑いが漏れた。

 僕はなんて自分勝手なのだ。


 知世はあんな終わり方で、さぞや不満だろう。

 あんなにもあっけなく命がなくなって、悔しいに違いない。

 もう先がないなんて不憫だ。

 知世にとっては、死後の世界があった方がいいに決まっている。


「ああ……だけど、ごめん……」


 僕の中で段々と、罪悪感よりも救いを求める声が大きくなっていた。


「死後なんて、きっとないよ」


 そう、思いこむ。


 これ以上苦しみを感じ続けることに、僕は耐え切れそうもなかった。

 死にたくないという気持ちが表に出てきて、それに合わせて拳に込める力が強くなる。

 上体を起こし、立ち上がった。


「本当に弱いな、僕は」


 強ければ、罪を受け入れて生きていけるだろう。

 弱ければ、罪に負けて死を選ぶだろう。


 だけど僕は、罪に負けながらも死を怖がり、かろうじて生きているだけの存在になっている。


 自嘲気味に声をこぼして、掃除用具ロッカーへと歩を進める。

 ロッカーから箒を一本取り出して、それを握りしめた。何度か振り下ろして感覚を確かめる。

 ヤツラに対抗するには心許ないが、ないよりはマシだ。


「じゃあ、行くか」


 扉を押さえる机をどけて、自らに声を掛ける。

 目指す場所は――トイレ。

 そろそろ小便が漏れそうだった。




 ヤツラはどこに行ったのか、廊下は無人だった。

 血痕がある以外は何事もない廊下をゆっくりと進んでいく。


 胸の前に箒を構え、階段の前を通り過ぎたところにトイレはあった。

 箒を握る力を弱めながら、僕はトイレに駆け込む。


「――っ」


 次の瞬間、尿意が引いていくのを感じた。


 濃紺の目をした男子生徒が、呻きながらよだれを垂らしている。


 箒を握り直す。正面から襲いかかってくる男子生徒の肩を、箒で強く突いた。

 だが僕の方が押し負け、尻餅をつかないために一歩後ずさる。

 変色した知世と同じように、相手は狂気に満ちていた。


「どうなっても、知らないからっ」


 容赦はできない。すれば僕が殺される。食われて死ぬ。


 僕は持ち上げた右足を、男子生徒の腹に向けて放つ。

 箒の突きとは比にならない衝撃に、相手はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。

 ろくに受け身もとらないものだから、強かに背中を打つ。


 さすがにこれで少しは落ち着いたかと思ったが、それは楽観的過ぎる思考だった。


「な……」


 男子生徒は全く痛がる様子を見せずに、立ち上がってきた。

 僕が驚きの声を上げている間に接近してくる。


 慌てて箒を突き出すと、それは男子生徒の額を打った。

 常人ならば反射的に額を押さえそうなものだが、やはり相手は攻撃に対して一切の動揺を見せない。


 彼の身の内には狂気しか存在しないようだった。

 いやそもそも、狂気を内包する心自体がないように思える。


「くっ」


 逆に僕の方が動揺する。


 これほどだったのか。

 変色し、おかしくなった人間はこれほど人ではなくなるのか。


「落ち着け」


 自分に対して呟き、箒を構え直す。

 上段から大きく振り下ろした箒は、男子生徒の頭頂部を打ち据えた。


「これでもだめか……」


 攻撃が効いた様子はない。一瞬だけ動きを止められたものの、それだけだった。

 男子生徒が手を伸ばしてくる。それは箒を引く前に僕へとたどり着き、僕の腕を握りしめてきた。


 ……とてつもない、力で。


「ぎぃッ」


 今まで漏らしたことのない声が溢れる。大きな声を出してはいけないという考えが絶叫を抑え込んだが、それは完全ではなかった。


 僕は無我夢中で男子生徒に蹴りを放つ。そうしながら、僕を掴む相手の腕を、箒で何度も殴りつける。

 しかし、離れない。


 骨が折れそうなほどの力具合で握られていて、僕は我慢の限界が近づいていた。

 もうすぐにでも叫んでしまいたいという思考で頭がいっぱいになり、痛みで涙が溢れる。


 蹴り続けることで相手を遠ざけているから、まだ食べられていない。でも僕の体力が尽きてくれば、蹴りの勢いが弱まり、肉を食いちぎられるだろう。


 ――終わりだ。


 僕はもう終わり。死ぬんだ。

 諦めの感情が心を侵し始める。


 そうして心が折れる……前に、音を立てて箒が折れた。


 唯一の武器が壊れてしまった。


 さらなる絶望に襲われながら、思わず目を向けると、箒の折れた部分が尖っている。

 それをどう使えばいいかは一瞬でわかった。


「僕は死にたくないんだッ」


 男子生徒の腕に、折れた箒を思い切り突き刺す。

 罪悪感は一切浮かんでこなかった。


 相手は少し呻き声を大きくして、腕を握りしめる力を弱めた。その隙に腕を引き、最大の力を込めて蹴りつける。


 男子生徒はよろめきつつ後ずさり、床に尻餅をつく。

 また立ち上がろうとする相手の胸を、強く押し込む。


 完全にバランスを崩したようで、相手は背後に倒れた。

 そしてその倒れた先には、和式便所がある。

 便器にはまった男子生徒を蹴りつけ、体を完全に個室の中に入れてやった。


 それから、扉を閉める。


 昨夜の件からして、変色した者たちは知能が低いようだった。ドアを叩くばかりで開けようとしていなかったのだ。

 だからこうして扉を閉じてやれば、男子生徒はここから出てこられないはずである。

 内開きだから、いくら叩こうが無意味なのだ。


「これで、なんとか」


 荒く吐き出した息は熱っぽくて、戦いによって興奮していたことを悟った。

 それはまあ、当然のことだ。逆に冷静に事を為していたのなら、怖いものがある。


「しっかし、腕が痛いよ……」


 腕に意識を向けると、どうしようもなく涙が浮かんだ。

 骨はなんとか折れていないだろうが、その寸前までいっていた。


 僕は赤くなっている腕を手で押さえる。

 じんじんとした痛みがまだ残っていて、それはすぐに消えるものではなさそうだった。

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