デッド・オア・アライブ・オア・ネイビー

るび

1 人々はふらふらと


 不明瞭な意識の中で、僕は何かの声を聴いた。

 それは真っ直ぐ頭に入り込み脳味噌を突き刺してくるような刺激を含んでいて、意識の覚醒を手伝うには十分すぎるものだった。


「う……んん……」


 小さく呻きながら、僕は薄らとだけ目を開ける。視界はどこかぼやけていて、中々はっきりと定まらない。どうやら深く眠り込んでいたようだ。

 目蓋の上を指で軽く擦っていると、わずかに染み出した涙が眼球を濡らす。潤いを取り戻した瞳で周囲を確認すると、今度は問題なく景色を見ることが出来た。


「ええっと……ここは、教室?」


 前方の壁面を半分以上埋める黒板は、日直が雑に消したのかほのかに白く染まった部分が散見された。右端には日付が残されており、そこには七月八日とある。僕が寝ぼけていないのなら、これは今日の日付で間違いない。


 続いて時計を確認すると、もう夕方と呼んで問題ない時間だった。今は七月のため日が長く、空にはまだ明るさが残っているが、一時間もすれば星が見え出すころだ。


「うわぁ、大分寝ちゃってたな」


 記憶を辿ると、どうやら帰りのホームルームが終わった直後に、机にうつ伏せになっていたようだった。


 夏休みに入ったらやろう、と足早に購入したゲームを結局夏休み前に始めてしまったせいで、昨晩はあまり寝ていなかったのだ。そのことを今朝幼馴染みに伝えたところ盛大に呆れられた。


 とにかく、そのせいで本日は眠気と大戦争しながら授業を切り抜け、しかし放課後の訪れと同時に白旗を揚げることになったのだった。

 幸い僕は部活に入っていない、いわゆる帰宅部なので、放課後に用事などない。放課後に眠りこけても大丈夫だったのだが、しかし寝心地を考えるならば帰宅してから眠るべきだった。


 座って眠るのには慣れておらず、少しばかり体が痛む。立ち上がって大きく伸びをすると、節々から音が鳴った。


「早く帰ろ」


 慣れておらずとも、まだ中学三年生という十代半ばの体だから、特に異常は感じられない。

 滲んでいた汗を手の甲で拭き取る。放課後のためか、窓は閉め切られていた。十分暑いと評せるほどの室温である。汗をかくのも仕方がない。


「暗くなる前には帰れるかな……」


 学校からそれほど距離は離れていない。何もなければ空が赤くなる頃には家に着いているだろう。

 僕は鞄に手を伸ばす。


 その時だ。


「――――ッ!」


 それは悲鳴……いや、そう呼ぶにはあまりに空気を揺るがせ過ぎている。その声は絶叫と呼ぶ方が近いものだった。


 どことなく聞き覚えがある、と思考すると同時に思い出す。

 僕を眠りから覚めさせた声――あれに似ている。声質が違うようにも思えるから、もしかすると別人の絶叫かもしれない。


 しかし、どちらにしても、絶叫が響きわたるなどあまりにおかしい状況だ。遊園地などで、ジェットコースターから聞こえてくるような声の比ではなかった。

 先程の絶叫は、恐怖と絶望が強烈に感じられるものであり……まるで死に直面しているように思えた。


 まだ部活で残っているであろう人たちがいたずらか何かして、それの被害者が叫んだだけかもしれない。大げさに感じ取ってしまっただけだろう。そう考えてみるが、どうしても絶叫が頭から離れない。


 鞄に伸ばす手を止めたままでいると、外から微かに声が届いた。

 今までのものとは違い、意味を持った言葉のようだ。はっきりとは聞こえなかったため、なんと言っていたのかはわからない。

 僕は急いで窓を開け、顔を出して下を見る。三年生の教室は全クラスが校舎の三階にあり、下の状況が細かいところまでわかりはしない。だが大体は見えた。


「なんだ、あれ」


 男子生徒がひどく疲れた様子で走っている。しきりに背後を気にしているようで、そちらに視線を移してみると、数人の生徒の姿を確認できた。


「歩き方が……」


 男子生徒を追いかける人たちは、ふらついている。そんな調子なのに早足で歩いているから、今にも転けてしまいそうな危うさがあった。しかし実際にそうなることはなく、真っ直ぐ男子生徒に向かっていく。

 不気味さを感じずにはいられない。


「……けて。誰か助けて!」


 それは男子生徒の声だった。助けを求める叫びが、僕の耳まで届く。


 様子のおかしい人たちに追いかけられる生徒。それは先程までの絶叫とも関わりがあるのだろう。

 あまりに必死な姿に、僕は動きを止めてしまう。

 突然日常と離れた光景を見せつけられ、混乱してしまっていた。


「あ……」


 ふと聞こえた間の抜けた声は、果たして男子生徒のものか、僕のものか。ここまで届くとは思えないから、おそらくは僕の声だったのだろう。


 男子生徒は疲労が限界にきたのか、足をもつれさせて転んでしまった。再び立ち上がろうとしているが、派手に転んだせいで痛みがひどいのか手間取っている。


 そうしている内に、様子のおかしい人たちが追いついてしまった。男子生徒はそのことに気がついて、這々の体で場を離れようとする。だがそれは、とても逃げられるような速度ではない。


 あっという間に接近され、男子生徒は悲鳴を上げた。


「やめろ! やめてくれ! 近づくな! やめろ、やめろおぉ!」


 大声をぶつけているが、相手は反応していない。

 そのまま男子生徒は数人に覆い被された。


 そして――絶叫が響きわたる。


 僕は、思わず窓を閉めた。何をされたのか見えはしなかったが、きっと恐ろしいことに違いない。


 無言のまま立ち尽くす。

 声を出そうとしても、口が固まったように動かない。男子生徒の声に乗った恐怖が、僕の恐怖を掻き立てていた。


 ……僕が眠っていた間に、何が起きた?


 思考が恐怖に塗りつぶされる中、小さく湧いた疑問が落ち着きを取り戻す一助になった。恐怖を意識しないよう、その疑問に集中する。

 様子のおかしい生徒によって、普通の生徒が追いかけられていた光景。どうしてあのような状況に陥っていたのか。


 変な薬でも打たれて気が変になっているとか、はたまた人を襲うように洗脳でもされているとか。演劇の練習という考えも浮かんだが、あそこまで派手に転んでいたのに心配する素振りも見せていなかった。そもそもこの学校には演劇部なんてないし、近々演劇を披露する機会があるわけでもない。


 自分たちで勝手にやっていて、例えばネットに上げたりするのかもしれない……とも考えてみるが、あそこまでの騒ぎになっていて教師が駆けつけていないはずがない。教師たちにも何か起こっているのだ。


 窓ガラス越しに下を見やると、未だ男子生徒に数人が多い被さった状態だった。教師の姿は全く見あたらない。


「それに……」


 ようやく出てきた声は、多少の震えを伴っていた。


「他に、聞こえてる」


 自分にすら聞こえないくらい小さく呟く。それは、あまり意識したくないから故だった。


 悲鳴が、止んでいないのだ。

 男子生徒のものは、もうとっくに止んでいる。しかし男子生徒とは別の方向から、悲鳴が、そして絶叫が響いてきていた。


 耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。

 誰かにドッキリだと言って欲しい。

 涙が出る一歩手前だった。


「……っ」


 ――足音。


 足取り不確かな、足音。


 それを耳にして、僕はようやくその場から動く。まるで二足歩行を覚えたばかりの犬のような、ぎこちない足取りで扉に向かう。


 様子のおかしい人が近づいてきているのかもしれない。それならば早く鍵を閉めて入ってこられないようにしなければ、と混乱する頭で考え出す。


 扉は教室の前方と後方の二カ所にあり、僕が目指すのは後方だ。僕がいる教室は校舎の端にあり、入るには後方の扉の方がどうやっても近い。だからそちらを先に防ぐべきだ。


 ……というのは歩き出してから、わずかに冷静な部分が導き出した考えであり、実際はただそちらの方が近いからという理由だった。そんなにすぐ冷静な思考ができるわけがない。


 たかだか数メートルが、数百メートルに思える。焦る気持ちが、冷や汗をかかせた。


 僕も絶叫を吐くことになるのかもしれない。あの男子生徒のようになるのかもしれない。

 実際に彼がどんなことをされていたのかは、ちゃんと見えなかった。見る気もない。ただ、なんとなく想像が浮かんでしまう。


 ヤツラは男子生徒に覆い被さり、そして頭を動かしていた……と思う。

 まるで、野獣のごとく、獲物を貪り食らうかのように。


 そこまで思考してしまい、僕は浸食してきた恐怖により動きを止めてしまう。すぐに動き出すが、一歩遅かった。

 本当に、一歩足りない。あと一歩で扉に手が届くというのに、しかし足音の主は、扉の目の前まできてしまっていた。

 扉にはめ込まれた磨りガラスに、人影が映り込んでいる。


 そして――ゆっくりと、スライド式の扉が開いていく。

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