3月3日 耳の日
やあやあ諸君。
私の名はいずく。いずくかけると申す者だ。
諸君らは今日と言う日を如何にお過ごしだろうか。日々は刻一刻と進む二十四時間の連鎖であるが、それは円環ではなく螺旋であり、繰り返しではなく積み重ねである。だがしかし、中にはどうもそれを理解していない者が多い。
私の話を聞き入れ、今日と呼ばれる日が先人達が積み重ねた如何なる日なのかを知らば、諸君らの過ごす毎日にも色が付くのやも知れぬ。
さて今日は、まず諸君らにしてもらいたい事がある。お手を拝借、両手で自身の耳を塞いでもらいたい。出来たであろうか。そのまま目を瞑り、一言も発さずに一分間、いや30秒だけでも耐えてもらいたい。よーい、スタート。
どうだったであろうか。たった1分の事とは言え、とても長く感じたのではないだろうか。なぜこんな事をして頂いたのかと言えば、今日紹介する女性の世界を少しでも知ってもらいたかったからである。本日、2017年3月3日は『耳の日』だ。
耳の日は33《みみ》の語呂合わせの元制定された一日であるが、実は他にも耳に関する出来事が起こった日である。電話を発明したグラハム・ベルの誕生日でもあるが、今日はヘレン・ケラーと言う女性について語ろうと思う。
ヘレン・ケラーほどの有名人をいまさら細かく説明する必要はないかと思われるが、一応簡潔に話すと、1882年、生後19ヶ月、2歳の時に高熱を伴う
幼いヘレンに躾すらできなかった両親は、1887年、聴覚障害児の研究をしていたグラハム・ベル、後に電話を発明する事になる彼の元を訪れ、彼の紹介から家庭教師を派遣してもらった。教師の名はアン・サリヴァン。20歳になるこの女教師がヘレンの元を訪れたのが今日、3月3日なのである。
サリヴァンはヘレンの世界に光を与えた。例えば、ヘレンの手に水をかけ、指でWATERと何度もなぞり、指話法によりヘレンに言葉を教え続けたのだ。
一人、暗闇の孤独に生きてきたヘレンは夢中になって言葉を覚え続ける。ヘレンが10歳になる1890年には、発声法を学び、不出来ではあったが、少しづつ言葉が話せるようになっていった。
父が他界した16歳、1896年に、ヘレンはケンブリッジ女学院に入学する。授業には常にサリヴァンが同席し、講義の内容を指話法にてヘレンに伝え続けた。その後、20歳になる1900年、ついには名門ラドクリフ女子大学(現ハーバード大学)に入学するまでになった。
卒業後、ヘレンは26歳と言う若さで盲人委員会の委員に選ばれる。盲目の人々の為に生涯を尽くすと、ボストンで盲人にも仕事ができる環境を整える事を訴えた。
1936年、56歳になったヘレンに一つの別れが訪れる。恩師、サリヴァンがこの世を去ったのである。次第に冷たくなるサリヴァンの手を、ヘレンは力一杯に握りしめていた。
「生命の光、音楽、栄光が消え去ってしまった」
50年間連れ添った恩師の死に、そう発し、泣き崩れたヘレンであったが、その後も盲人救済活動を辞める事は無かった。
その翌年には、日本語の点字を考案した盲目の社会実業家、岩橋武夫からの要請を受けてヘレンは日本を訪れる。横浜港にて財布を盗まれてしまったヘレンであったが、それが報道されると日本中から寄付が集まり、ヘレンが日本を離れるまでに盗まれた10倍以上もの金額が寄せられた。
ヘレンは新宿御苑の観桜会で昭和天皇に拝謁し、その後も日本各地を訪れた。奈良の大仏に自由に触っても許される権利を始めて受けたのも、このヘレンである。
日本を出た後、満州、朝鮮など各地を訪れ、ヘレンは97回の講演で、なんと20万人へと盲人の教育と福祉について訴え続けたのである。
ヘレンの生涯は、障害により2歳の頃より他者より自由が少なかった。
目も見えなかった。耳も聞こえなかった。言葉も発せられなかった。
だがしかし、ヘレンには世界に点在する盲人の不自由を見通せていた。彼らのSOSに誰よりも耳を傾けていた。そしてそれらを多くの人々に伝え広げることが出来た。
目も見える。耳も聞ける。言葉も自由に発せられる。
我々にも、きっとできる事がある。
耳の日は、そんな一言がどこかから聞こえてくるような一日である。
今日は耳の日、特別な一日である。
我々は本日を祝福し過ごさねばならないだろう。
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