56 寺、貝殻、秘密

 目の前のシミと格闘してどれぐらい時間が経っただろうか。いや、時間は分かっている。時計は壊れてしまったのか、さっきからほとんど動いていない。耳をすませると、ジリジリ鳴く蝉の声と、ふすまの向こうで客と話をする和尚の声が聞こえる。話の内容に興味はないが、声の調子からするとすぐに出てくることはなさそうだ。雑巾を音が出ないように床に叩きつけ、しばらく休憩することにした。

 縁側に出て適当に歩いていると、和尚の部屋の前を通りかかった。その時頭の中に何やら悪魔が現れ、俺にその部屋に入れと囁いたのだ。何の気なく戸に手をかけると、するすると何の引っかかりもなく開いてしまう。「扉がしまっていたから諦めた」という退路を断たれ、これから起こることは自分の意思でやるのだという認識が突然腹の中に落ちてきた。

 和尚の部屋を見る。古い、油のような匂いがほのかに漂っている。普段の厳しい頑固ジジイという印象とは打って変わって、父親や大学生の兄さんとあまり変わらない、現代風のものだった。入ってすぐに戸を閉じ、音を立てないように静かに机に近づく。そうだ、どうせここに入ったのなら、和尚の弱みや秘密でも握って一泡吹かせてやろう。そう思って棚の本や紙を見るが、達筆すぎて読めないものや、角ばった漢字だらけのプリントなど、わけわからないものばかりだった。諦め半分で一番下の引き出しを開けると、その中には一つだけ和尚にはひどく不釣り合いな、紙でできたちゃちな箱があった。そっとつまんで手に乗せる。紙の質から、これは相当古いものだろうか。蓋を取ると中には白い貝殻が二つ、ポツンと入っている。閉じた二枚貝と、同じくらいの大きさの丸っこい巻貝。これは一体なんだろう?

 昔のものだし和尚の思い出のものか、と考えていると、のしのしと廊下を歩いてくる音に気がついた。思わず立ち上がって音を立ててしまうと、足音は打って変わって猛然とした勢いとなりふすまの前に立った。

 勢いよく開くふすま、和尚は中途半端な姿勢で立っていた俺に一喝をよこしたが、手に持っていた箱に気がつくと無表情になった。いや無表情ではない。色々な表情が混ざりすぎてこれまた中途半端な顔になってしまったのだ。ともかく和尚は箱をむしり取って部屋の前で正座しているよう俺に言いつけ、ぴしゃりととを閉じてしまった。その時の和尚の顔は、少し赤くなっていたような気がする。

 どうやら期せずして当たりを引いてしまったらしい。しかし展開的に不利になったのはこっちの方のようだった。一体どんなことをされるのか、震えながら待っていると、ふすまがゆっくり開いた。師匠は穏やかな顔をしていた。「中に入りなさい。話がある」

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