第15話 異界の本


 龍司が禁書庫から出たことで、一人になった麗は深い溜め息を吐いてテーブルに置いた箱を見る。

 どうにか跳ね返しの方法を探っていたものの、箱の中にある呪詛の欠片は数多の呪詛を見てきた麗でも異質と思えるものだった。

 箱越しにも伝わる禍々しい霊力。

 夜陰から箱を受け取ったとき、触れた箇所から全身に走った悪寒は今なお思い出すだけで震えが蘇る。


「こんなの、この世界に存在するような物じゃ――」

「分神が敢えて視せたのは、そういうことだ」


 突然、後ろから聞こえた声と気配に、麗はハッとして振り返る。

 そこにいたのは、金色の燐光を纏った九尾の狐だった。その左前足には白い布が巻かれているが、今なお出血しているのか赤い血が滲んでいる。

 燐光が狐に集約していくと、眩い光に包まれた狐は見慣れた青年へと変じた。


「な、なんでここに……!」

「麗さん!」


 外に出ていた龍司も血相を変えて室内に飛び込んできた。恐らく、狐が侵入した瞬間に気づいたが対応できなかったのだろう。

 敵意を露わにする龍司だが、神器や神使を呼び出すという愚行には走らなかった。もし、出してしまえば室内の呪詛が反応するからだ。

 対する青年――刻裏は、怪我をした左手を袖の中へと仕舞うと、涼やかな顔で言ってのける。


「何故、というのは分神に訊いてほしいところだが……まぁ、ここに入れたのは、結界が緩んでいたからだな」


 刻裏がここへ来たのは、あくまでも分神のある行動によるものだ。また、禁書庫は隔離を施されていないが、刻裏ほどの力ある幻妖であれば、室内に入るのは容易なことだった。ただし、入ったところで、大半の幻妖にはデメリットしかないのだが。

 刻裏は、都季と話すときよりもずっと堅い声音のまま、言葉を続ける。


「分かたれた陰が視せたのはお前達だけでない」


 そこで、二人は刻裏の持つ能力を思い出す。遙か遠くの物事を見通すことのできる千里眼を。

 夜陰が呪詛を身に触れさせ、その一部を持ち出したのは、呪詛を刻裏にも視せるためだ。


「あれは、お前が見抜いたとおりのものだ」

「…………」

「どういうことですか?」


 刻裏の千里眼は、麗の思考すらもお見通しなのか。

 怪訝に眉を顰める麗と得意げな顔の刻裏を交互に見た龍司は、二人の中で何が通じているのかと首を傾げる。

 だが、刻裏がそれに答えることはなく、ただ室内を見渡して感嘆の声を漏らした。


「素晴らしい量だな。これだけあれば、分からぬ呪詛はないだろう。この世界にあるものならば」


 意味深に付け足された言葉。

 それを今、言う意味はひとつだ。


「更科さんにかけられた呪詛が、この世界に存在しないものだと?」

「左様」

「そんな、まさか……」


 頷いた刻裏に訊ねた龍司も愕然とした。麗を見れば歯痒そうに俯かれ、真実なのだと分かったが。

 しかし、この世のものでないなら、納得がいかない点がある。


「呪詛をかけた破綻者や、力の元であるルーインは元人間です。扱いについては勿論、知るはずがありません」


 呪詛をかけた者は二人とも、この世界のものであり、幻妖界にある呪詛を知る術はないはず。もし、何かの影響で呪詛の記された本を見つけたとしても、書かれている文字はこちらのものではないため読むことは不可能だ。相応の能力を持つ龍司ならばともかく。

 否定した龍司だったが、言ってからある可能性に行き当たって刻裏を見る。

 刻裏は、瞠目する龍司に大きく頷いた。


「ラグナロクに手を貸す幻妖がいるということだ。それも、相当の力を持つ、な」

「じゃあ、解呪どころか、跳ね返しなんて無理よ。幻妖にしか分からない呪詛なんて、こっちにいる私達に分かるわけが――」

「ここにいるのを誰だと思っている」

「え……?」


 呪詛に通じている麗とて限界はある。彼女が知るのは、この世界にあるものだけだ。

 早々に弱音を吐いた麗を叱るかのように、刻裏は彼女の言葉を遮って言った。

 刻裏は怪訝な表情の麗と龍司に、わざと聞こえるように大きな溜め息を吐いてから言葉を続ける。


「月神も難儀なものだな。自身の力の強大さ故に、呪詛にまつわるものには触れられないのだから」


 月神は、自身の霊力が反応して影響を及ぼさないようにするため、呪詛からは離れるようにしている。短い間とは言え、少し前に禁書庫に現れたのは例外中の例外だ。

 もし、月神が呪詛についてもう少し関わりを持てるのであれば、もっと早い段階で呪詛がこの世界のものではないと分かっていただろう。

 重苦しい空気が室内を満たしていく中、刻裏は袖に右手を入れると、中から一冊の古びた本を取り出した。

 練色の表紙は所々がよれて年代を感じさせ、端の方も擦り切れている。


「正直、私もこれ以上の手助けは出来ない」

「それに、更科さんを救う方法が?」

「ああ。ただし、文字は幻妖のものだ。まぁ、お前にすれば読むのは難しくないだろうが」


 刻裏は、分神についた呪詛の力の一部と残滓を千里眼で視て、すぐに根元が幻妖界であると分かった。呪詛の出所を探ろうと遡った際、ルーインが施していた術による邪魔は入ったが、左腕の怪我だけで済んだのは幸いだ。ただ、血がなかなか止まらないのであとで浄化と止血は必要だろう。

 元凶を知った刻裏は、すぐさま幻妖界に戻り、今回の呪詛についての資料を探した。刻裏も膨大な術などの知識を持つ幻妖であり、住処を少し探せばすぐに該当のものを見つけたのだ。

 麗は、袖に滲む血を見て眉を顰めつつ、未知の呪詛に対する躊躇いを覗かせる。


「あなたがやるんじゃだめなの?」

「言っただろう。『これ以上の手助けは出来ない』と」

「っ!」


 言葉は冷たく、突き放すようだった。

 麗は、誰に何を頼もうとしていたのか、と刻裏の本来の立ち位置を思い出す。

 協力的な姿勢は見せているものの、彼は局が追っている要注意の幻妖だ。数多の一般人に力を分け与え、依人へと変えている。本来であれば、今すぐにでも捕まえなければならない。

 気まずそうに視線を落とした麗を見て、刻裏は本の角を顎に軽く当てて悩む素振りを見せた。


「しかし、たった一度の過ちで歩みを恐れるような若輩者に、これが扱えるとは思えない」


 失敗されては、こちらとしても困るからな。

 そう付け足した刻裏の表情が、一瞬だけ余裕をなくしたように見えた。

 何かと都季に接触をしてきたほどだ。それなりの理由があるのだろうが、龍司に刻裏の考えは読み取れない。

 麗は麗で、刻裏に言われた「たった一度の過ち」が蘇り、ぐっと下唇を噛みしめた。

 そんな二人を見たまま、刻裏は突然、持っていた本を宙に投げる。

 本は刻裏の霊力に包まれ、宙に浮いた状態になった。


「これを扱えるか、見定めてやろう」


 二人の視線が本に向いた間に、刻裏は袖から一枚の札を取り出していた。

 札に書かれているのは模様にも見える赤い文字だ。

 自らの能力を用いて解読を試みた龍司は、流れ込んできた情報に怪訝に眉を顰めていたが、すぐにハッとして床を蹴った。

 それとほぼ同時に、刻裏は札を本に向かって投げた。

 禁書庫にある他の呪詛に纏わる物に配慮はしてくれたのだろう。濃縮した霊力が刻裏を中心に起こり、本にぺたりとくっついた札のみに注がれる。

 札の赤い文字から火の粉が飛び散ったかと思いきや、炎で出来た鎖が飛び出し、本を縛ろうとまとわりついた。


「こ、のっ……!」


 龍司は何とか引き剥がそうと手を伸ばす。

 だが、指先に鎖が触れた途端、分裂した炎の鎖が龍司の腕を這い、首に巻き付いた。


「っ!?」

「龍司!」


 絞められた苦しさから、一瞬だけ息が詰まった。ただ、見た目に反し鎖は炎ほど熱くはなく、このまま首を絞め上げて命を奪うというものでもないようだ。

 龍司は、緊迫した表情で声を上げた麗に「大丈夫です」と短く返し、鎖を外せるか軽く引っ張る。反発するように絞めつけが強くなったため、すぐに手を離したが。


「……触らないほうが、良さそうですね」

「賢明な判断だ」


 これが何であるか、龍司には詳しいものは分からない。

 札から読み取れたのは、「封印に近しい物」であるということのみ。しかし、龍司の記憶にある封印の術にはどれも当てはまらないものだ。

 つまり、刻裏が用いたのはただの封印ではない。

 現に、刻裏は龍司の判断に満足げに頷いていた。

 「少しばかり、『九尾の狐』らしいことをした」と言ってから、彼は言葉を続ける。


「それはただの封印ではなく、呪詛を交えたもの。下手に破壊しようとすれば、忽ち燃え尽きる」

「な、んで、そんなこと……! あの子を助けたいんじゃないの!?」


 本には都季の呪詛に関わることが書かれているというのなら、素直に渡してくれればいいはず。また、麗の腕を信用できないのであれば、自身が行えばいいだけのことだ。

 先も言っていたが、これ以上の手助けはできない、とはどういう意味なのか。

 麗の言葉に刻裏は、一瞬だけ眉根を寄せた。


「明言は避けよう。何せ、私にも立場というものがある。月神が人に偏っていると認識されている以上、私が手を出せる範囲は限られているのでね」


 刻裏は、元々は妖狐達を束ねる長だった。従って、幻妖としての位も高い。

 その役割上、幻妖達の長である月神が「人に偏っている」と一部の幻妖から反感を買っている今、刻裏までも人に偏っていると見られれば、幻妖達の人間への反感の意識はますます高くなるだろう。

 これまである程度助けられたのは、あくまでも直接幻妖が関わっていないからだ。

 軽く息を吐き、浮いたままの本を手に取った刻裏には、少しばかり疲労が滲んでいた。


「見つけるのも持ち出すのも苦労したんだ。くれぐれも、無駄にはしてくれるな」


 そう言うなり、本をテーブルに置いてから消えてしまったが、当然ながら本と龍司の首にそれぞれ巻きついた鎖はそのままだ。

 夜陰が地下で呪詛を切り取り、ここに来るまではそう時間は掛かっていない。

 さほど苦労していないようにも見えるが、幻妖界と人間界の時間経過の速度の違いを知る二人には、刻裏の言う「苦労」が分かった。

 幻妖界は人間界よりもゆっくりと時間が進む。そのため、刻裏は戻ってくる際に自身が離れた時に戻れるよう、相応の幻妖に力を貸して貰ったのだろう。当然ながら、対価も支払っているはずだ。

 だからといって、二人には刻裏を気遣う余裕はない。それは刻裏自身も分かっていることだ。

 麗は大きく息を吐くと、テーブルに両手を突いて俯く。

 恐らく、新たな問題を前に、どうするべきか考えているのだろう。

 その問題を作ってしまった龍司は、手を出さなければ良かったと後悔しつつ、何と声をかけるべきか思案する。

 沈黙が場を満たすそこに新しい声が響いたのは、それから間もない時だった。


「おーい。邪魔するぞー」


 緊張感に欠ける声が響いた直後、その人物は入れないはずの禁書庫に自然な流れで入ってきた。




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