第12話 破綻の刻限
『恵月学園』は、初等部から大学部まである大きな学園だ。校舎の大半と専用寮は北区に集まっているが、高等部と大学部は学部によっては町内の別の区画に校舎がある。
都季が以前、この町に住んでいたときはさほど学部も多くなかったのだが、この数年で一気に増えたようだ。
都季や魁、琴音、悠のいる中等部と高等部の校舎は、学園の敷地の中央に位置している。西に初等部、東に大学部があり、そちらとはグラウンドも違う。中高の校舎はコの字型になっており、西側の棟が中等部、東側の棟が高等部だ。
「じゃあ、僕は教室があっちなんで」
「おー。また放課後な」
「はーい。またお昼に行きますねー」
「放課後だっつってんだろ」
ひらひらと手を振りながら自分の下駄箱に向かった悠は、見事に魁の言葉を無視している。
中等部と高等部は校舎こそ同じだが、互いの教室を行き来することはほぼない。そのため、中等部と高等部の人が顔を合わせるのも正門からこの玄関までくらいだ。
魁にきちんと言葉を返そうとしたのか、早々に靴を履き替えた悠がまた現れた。
「いいじゃないですか。僕、友達いないんですよ」
「嘘つけ。女子にキャーキャー言われてるくせに」
「羨ましいんですか? あっ! もしかしてヤキモチ?」
「さっさと行け!」
「あははっ。それじゃ、また後で。先輩」
声を荒げた魁に動じず、悠は笑顔で去って行った。
玄関や廊下にいる女子生徒は、「朝から子峰君に会えちゃった」などとはしゃぐ姿もある。
この学園は人数が多いこともあって一個人を狙って会える確率は低い。現に、都季もこんなきっかけができるまでは知らなかった人物だ。
「やっぱり、悠って芸能人なんだな」
「一時期は超売れっ子でな。十二生肖に選ばれる前までは、結構、テレビに出ててたんだ」
「うわ、全然知らなかった」
都季はドラマをあまり観ないせいか、俳優や女優には疎い。バラエティー番組やニュースなどに出演しているのを見かける程度だ。もしかすると、見てはいるが認識していなかっただけの可能性もあるが。
魁は最近の悠の仕事を思い返しつつ、俳優業についての補足をする。
「今は仕事が別にあるからさすがに数は減ってるけど、それでもちょいちょい出てるぜ」
「へぇー」
昨日、茜に「仕事を選んでいる」と言われていたのを思い出した。さすがに、学生と十二生肖と俳優の三つをやるとなると、選べるところは選びたくもなるだろう。無理をして周りに迷惑をかけるわけにもいかない。
機会があれば悠が出演しているものを調べて見てみようと思いつつ、都季は魁達と一緒に教室に向かった。
* * *
「ごほっ、げほっ! うっ……」
カーテンを閉めきった部屋で、一人の青年が苦しげに悶えていた。
六畳ほどの和室は敷かれたままの布団があるだけで生活感はほとんどない。室内がひんやりとしているのは、異常気象による寒さだけでなく、窓よりも遙かに大きいサイズの遮光カーテンを引いて薄暗いせいもある。
酷く咳込んだせいか、喉の奥がじんじんと痛む。口内を鉄の味が満たし、気持ち悪さに拍車をかける。咳に混じって出た血が白い布団を汚す。
ふいに、ノックもなく木製のドアが開かれた。錆びた蝶番が嫌な音を立てる。
涙で滲む視界で、青年は布団の上に横たわったまま、開かれたドアを見た。
時計もなく、窓という窓をすべて塞いでいるせいでおおよその時間すら分からなかったが、ドアから見えた外の世界は夕焼けに染まっている。
その夕焼けを背に、一つの人影が立ってこちらを見ていた。
「随分、苦しそうだな。大丈夫かよ?」
「て、めぇっ……! よくも騙したな!」
心配する言葉に対して声音は冷たく、まるで青年を見下しているようだ。
逆光で顔までは見えないが、青年はその人物に覚えがあった。
今では自身を苦しめるこの力を得た数日後の夜。異質な力に馴染めず苦しむ自分に、「『アイツ』じゃどうしようもない。月神を狙わなくちゃな?」と言ってきた少年だ。
常にグレーのパーカーについたフードを目深に被っている上、大きめのマスクで顔の半分を隠しているため、素顔を見たことはない。
「騙す? あははっ。人聞き悪いなぁ」
嘲笑うように言って、少年が近寄ってくる。玄関で靴を脱ぐこともせず、平然と土足で上がった。
風でも吹いたのか、開いたままだったドアが軋む音を立てながらゆっくりと閉まり、室内は再び薄暗い闇に包まれた。
暗闇に目が慣れた青年と同様に、少年も明かりがなくともある程度は動けるようだ。
青年が何をする気だと思った直後、腹に走った鈍い衝撃で息が詰まった。せり上がった胃液で喉の奥が熱い。蹴られたと分かったのは、彼が足で脇腹を押さえつけるようにして体を上にひっくり返したからだ。
少年は腹の上から足を退けずに言葉を続けた。
「忘れたかい? 滅多にお目にかかれない狐を、一般人だった君に引き合わせたのはオレだってことを。感謝してほしいくらいだよ。だって、“力”が欲しかったんだろ? 誰にも侮辱されることのない力が。……あははっ。ありがちな理由だよ、ホント。つまんない奴」
「っ!」
饒舌に侮辱をしてくる少年は容赦なく足に力を入れて踏みにじる。肋骨が嫌な音を立てて激痛が走った。
青年の脳裏に今まで歩んできた光景が流れ、同時に憤りが募った。
大学を卒業して、なんとか就職もできた。なのに、会社ではいつも上司から注意され、先輩には虐められ、散々な目に遭うばかり。こんなにも一生懸命にやっているのに、と思っていた矢先の晩。青年の目の前に「ある者に頼まれてな」と狐が現れた。
この力さえあれば、見返してやれると思っていたのにこの様だ。
少年は腹から足を退けて隣にしゃがむと、楽しげな笑みを口元に浮かべた。
「でも残念。本来、この力は人間に知られちゃいけない。何のために十二生肖の“子”が記憶を一斉に弄ったか分かる? 分かんないよね? 正解は、『人間はこの力を最も忌むから』。つまり、この力は持っていると忌み嫌われる。ま、今じゃ知ってる奴のが少ないんだけど」
「なっ……!」
「あはっ! 惜しかったねぇ! お前、正反対のことをしてたんだよ。何をしようとしても事実は消される。君がやったことにはならないから、復讐心は満たせない」
「て、めっ……ひっ!」
苛立ちから凄むも、ナイフが顔の真横に突き立てられて思わず口から悲鳴が零れた。どこから取り出したのか、いつの間に持っていたのかすら分からなかった。
少年は何事もなかったかのように立ち上がると、遮光カーテンを僅かに捲って外を見る。
西に傾いた太陽の光が目に痛い。
「やっぱり、そんなちっちゃい復讐心じゃ使えないな。復讐って言っても、まだ車燃やしただけだっけ? 上司の。やるなら物じゃなくて本人にすればいいじゃん」
「…………」
そうすれば、君の憎き上司は君へ恐怖心を抱く。君の復讐心も満たされるのにね。
淡々と言葉を続けた少年に、青年は返す言葉が出ない。折れた肋が痛いせいでもあったが。
確かに、復讐はしたかった。見返してやりたかった。だが、本人に危害を加えたいほどのものではないのだ。
少年はカーテンから手を離して青年に向き直って問う。
「なぁ、『破綻』まで、あとどれくらい?」
「……はっ。知るかよ」
「オレは力を貸しただろ? 破綻したくないなら、せいぜい足掻きなよ。はい、これヒントね。月神の狗がついてようが、隙はあるだろ?」
軽い口調でそう言うと、少年は青年の眼前に一枚の写真を置いて部屋を出て行った。
遠くでどこかの学校のチャイムが聞こえる。浮かんだのは、あの月神を取り込んだ少年だ。
置かれた写真を見れば、思い浮かべた少年が教室で授業を受けている姿が映っていた。
「……この制服は学園のか」
少年は見た目からして中学生か高校生か。制服から学校は容易に特定できるが、近隣にあるものとなれば一つだけ。となれば、彼を狙う場合、どこに行けばいいかは分かってくる。
(この際、あのガキが月神を取り込めた理由はどうでもいい。とにかく、月神を奪うんだ……!)
目的が決まれば、息苦しさと痛みは不思議と消えていった。興奮からくる一時的な麻痺だろうが、体を動かせるようになったので良しとした。
腕をつきながら上体を起こし、ゆっくりと立ち上がる。まだ足元はふらつくものの、不思議と力は込み上げてきた。
だが、壁に右手をついたとき、違和感を覚えてそちらに目をやる。
「うわぁっ!?」
薄暗い中で過ごしていたせいで闇に慣れきった目。それが捉えたのは、乾いた大地のようにひび割れた手と腕。
少し動かせばボロボロと剥がれ落ちてしまいそうだったが、反射的に手を振るい、ひびを除けようと左手で払う。
しかし、手に伝わった感触は普通の肌と変わらず、払う手を止めて恐る恐る目を向ける。
「な、い……?」
ひびなど跡形もなく、いつもどおりの肌がそこにあった。
では、あのひびはなんだったのか。ついに幻覚まで見てしまっているのだろうか。
呆然と腕を見る青年の耳に、あの少年の言葉がふいに過った。
――『破綻』まで、あとどれくらい?
「っ!」
背筋に悪寒が走った。
破綻とは、異能の力を与えられて力が定着しなかった者の末路だとは聞いたが、どんなことになるのかは聞いていない。ただ、自身の苦しみは破綻の前兆だと本能で気づいてしまった。
もしや、このまま放っておけばこの幻覚が現実となるのか。
体が崩れ落ちていく自分を想像して、言葉にならない恐怖が襲いかかる。
「早く……早く、月神を……!」
やけに腑に落ちた事実に、募っていた興奮が焦燥感に変わった。
焦りで足が縺れながらも部屋を出る。暗闇から出たことで、一瞬だけ辺りが白く霞んだ。それでもひたすらに足を動かした。
フラフラと学園に向かう様を、先ほどの少年がアパートの屋根に腰かけて眺めていたが、一つのことしか頭にない青年が気づくはずもなかった。
「バッカじゃないの。幻覚と麻痺は破綻の初期症状。アンタ、もうとっくに堕ちてるよ」
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