走って15分⑵
「あぁ?」メンチ切って立ち上がるネズミスーツ。
「今なんつった?」怪訝な顔をしてビリーを見ている。一方のビリーはさらに声を張り「だ、か、らぁー」とテーブルに肘をつき、「うるせえぇーってーのっ!」と言い放つ。
「んだとコラッ!」
ネズミスーツは椅子を後ろへ蹴り飛ばし、眉をこれでもかとひそめながら2人の元へやってくる。その左横には紫ネクタイが。ビリーは全く怯んだ様子を見せないどころか、「さっきからギャーギャーと。弱い者イジメしてるガキじゃあるめーし」と目の前までやってきてるのに、淡々と言葉を吐き捨てた。
「腹立つ言い方でバカにしやがって。喧嘩売ってただで済むと思ってんのか? 俺らを誰だと——」
「誰だよ?」
黙っていた秀一が声を発する。ビリーは少し驚き、思わず振り返り見る。秀一はメガネを掴み、位置を整えながら「教えてくれよ、どこの誰だか」と凄んだ声と鋭い目つきで続ける。
「ど、土橋組だよ」
ネズミスーツの勢いは少し失速していた。
「土橋?」
「ま、端的に言やぁヤクザだよ、ヤクザ」代わりに、紫ネクタイが一歩前に出て、続けた。
「矢柄組の傘下、まで聞きゃあ分かるか?」
片眉を上げ、嘲笑う紫ネクタイ。
「ああ。十分に分かった」秀一は立ち上がり、「てことは」左足を一歩引く。同時に椅子が地面を擦る音が響く。
「いいよな?」
秀一は体勢を崩しながら右アッパーを繰り出した。拳が紫ネクタイの顎に激しく当たる。ヒビ割れたような感触が秀一の手の甲に伝わった。
地面から足の離れた巨体は宙を舞い、無抵抗のまま反対側の赤テーブルに叩きつけられる。真ん中から折るように落ちたため、けたたましい音を立てながらテーブルの面が割れ脚が折れ、割り箸や卓上調味料が飛び散った。周りの人々の短い叫び声が店内を包み込む。飛距離、ざっと見積もり3メートル。
目の前で起きたことに理解できず、口にボールを入れられたかのようにあんぐりしていたネズミスーツは紫ネクタイが白眼をむいたまま伸びた顔を見て、我に返る。
「テメー何すんだ」と言おうと振り向こうとした。だが、最後までは言えなかった。「テメー何す」の時点で、秀一に胸倉を掴まれてしまったからだ。いつのまに、と驚きを隠せないネズミスーツ。
「オメェらこそ何してんだ? 上のモンに楯突いていいと思ってんのか?」
「えっ……」
秀一は体を斜めにし、紫ネクタイのみぞおちに右手を打ち込む。あまりの早さに避けられず、もろに食らったネズミスーツは膝から崩れ落ちた。両手を地面につき、胃液を吐く。ネズミスーツは自分に近づいてくる影に気づき、口から唾液を垂れ流しながら虚ろな目で見上げた。
そこには、左手をポケットに手を突っ込んでいる秀一が。右手でメガネを押し上げ、「ご丁寧にヤクザ名乗るバカがどこにいんだよ」と言葉を吐きかけて、踵を返す秀一。目の、言葉の圧に耐えられなかったのか、再び吐き始めるネズミスーツ。
「知り合い?」
ビリーは両手を頭の後ろで組みながら秀一の隣に。出る幕のなくなったためか、つまらなそうな顔をしている。
「いや、でも組の名前はうちの下だから知ってる」
ポケットから出した秀一の手には、ケータイが握られている。
「何次なの?」
「3次」
そして、電話をかけ始めた。
「下の下、か……ヤクザの世界は厳しい縦社会。なのに、上に楯突きゃあ殴られても仕方ないっていうか当然だな」
うんうん、と頷きながらビリーは勝手に納得していた。
『はい』電話が通じた。出たのは若い男。
「組長はいるか?」
『ええいますが……おたくはどちら様?』
相手が怯えて怯む言葉をこんなにも早く言わなければいけないのかと少しため息をつきながら、秀一はこう答えた。
「矢柄組若頭、日岡秀一だ」
「この度はうちの若いのがご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした」
両手を太もも横にピシッと揃え、90度近く頭を下げている土橋組組長土橋
店内だと迷惑だから、と秀一とビリーは外で彼らの到着を待っていた。寒空の下、2人がタバコを吸っていると駆け足で向こうからやってきた彼らと合流し、今に至る。
土橋組はまだ最近できた新参なため組長も40代ほどと若く白髪交じりではあるものの髪にはボリュームがあった。一方、飛志組の方は今までの苦労が滲み出ており、髪が後退し見える額が大きかった。
一方、ネズミスーツと紫ネクタイは近くの地面に正座させられていた。2人とも直属の組長である土橋組組長から「何やってんだぁ、テメーラっ!」と拳で頰を一発、腹部への蹴りをこれでもかと浴びせられた。そのため、顔は赤く腫れ、口や鼻から血を流し、服装は乱れに乱れ、といった具合にボロボロであった。
さっきの威勢は風にでも吹き飛ばされたのかと思うほど、ただただ怯えきり、太腿に腕を立てて、俯いている。
「わざわざ矢柄組のカシラにご足労までおかけしてしまい……詫びとしてこいつらには指詰めさせますんで、どうかそれで」
土橋の声が聞こえたのだろう、腕と腿がビクビクと震え始める。寒さもあるかもしれないが、間違いなくそれだけではなかった。
「いらん」
メガネを直す秀一の言葉が聞こえたのだろう、2人は俯いていた顔を上げ、秀一を見た。
「で、でも、それじゃカシラに面目が——」
「俺のことは気にしなくていい。それよりも迷惑をかけた店員と居合わせた客にしっかり謝っておけ」
「分かりました」
矢柄組の方針を熟知し、上の人間からのお達しでもあるため、謝罪について十分に納得した返事と了解の意味を込めて、再び深々と頭を下げる組長2人。
「それで……二代目への詫びは?」
土橋の確認にも近い提案に「あ?」と今日1番に怪訝な顔をする秀一。
「いや、オ、オヤジへの詫びも必要かと思いまして。それに、うちらが3次だとはいえ、ちゃんとした挨拶ができてないのは」
「じゃあなんだ?」言葉を遮り、秀一は話し始める。
「わざわざ矢柄組のカシラが出てきたとか言いながら、わざわざその上の二代目にまでもお時間とお手間を取らせ、ついでにお顔まで拝見しちまおうってのか、この野郎」
凄みのある声と有無を言わせない目つきに、「い、いや、その、そんなことは決して……」と、土橋は慌てて首をふった。圧倒された他の組員もただその場で黙っているだけだったが、ビリーについては両手をポケットに入れて、呑気に「ひょえー」と笑っていた。
「詫びがしてぇなら、まずは納めるべき金を早く払うことからだろ。遅れた分の利息も忘れずに一刻も早くに、な」
「は、はいっ」
カタギを脅してまで取るのなら、上納金は多少遅れても構わない——矢柄千馬が作った独自かつ特殊なルールの1つである。今回、密輸入者といえどカタギを脅したのだから、通常はない利息を付けてしっかり払えよということだ。
「それで、ちゃんと持ってきたか?」
土橋組組長は小刻みに慌てて頷くと、後ろに手を出した。そこに乗っける形で黒いサングラスをかけた1人の組員が分厚い茶封筒と薄い白封筒を3つ置く。
「ど、どうぞ」
全て、秀一の元へ。手に取った秀一は店内を見る。怖くて動けないのか、陳夫妻は同じ場に立っていた。客も店から出て行くことはしない。
「ご迷惑おかけしました。テーブル等破損したものはこれで。あと、これは皆さんへの迷惑料です。これでどうか穏便にお願いします」
秀一は茶封筒は夫妻に、白い封筒は客らに手渡した。皆、最初は受け取っていいかどうか迷っていたが、「何も見なかったことにしていただければ」と念押して中を見せると、目を見張りながら客はそっと手元に引き寄せていった。
「一安心だな」ビリーがそう言うと、秀一は「いやまだだ」と返し、再び外へ出た。
中に風が入らぬよう引き戸を閉め、「おい」歩みを進める秀一。肩をビクつかせ恐る恐る顔を上げるネズミスーツと紫ネクタイ。
秀一がネズミスーツを見下ろす形でそばまで向かい、「証拠ってのはあるのか?」と質問する。すぐに「い、いえ、ありません」と首をこれでもかと振る。目には涙が浮かんでいる。
「嘘ついてたんだな?」
「はい。嘘ついてました。申し訳ありません」
年齢的なことを鑑みて、カマかけたと言ったってとこか——秀一はそう考えた。
「最後に」しゃがむ秀一。顔が真正面にきた分、2人の顔に緊張が走る。
「今度またウチの名前出して、こんなクソみたいなことしてみろ。ただじゃ済まさねぇからな」
「「ず、ずいまぜんでじだ……」」半ベソかきながら謝る2人。
「分かればいい」
秀一は立ち上がり、再び引戸を開け、陳夫妻に告げる。
「すいません、ラーメンはキャンセルで」
「すまんな、お前のお気に入りの店なのに」
右横にいる同じくキャンセルしたビリーと、秀一は東区の大通りの夜道を歩いていた。中央区とまではいかないものの、ビル街になっているため、街灯やネオンのようなものは多い。
「大丈夫大丈夫。むしろ『助ケテクレテ有難ウゴザイマス』って言われた」
「いつの間にそんなこと?」秀一は取り出したタバコをくわえる。
「秀一が外で話してる間」
「そうか」そう反応すると、秀一は火をつけた。先が燃え、赤く染まる。眉をひそめながら吸い込み、左手でタバコを離す。口から白い煙を吐く。冬だから余計に白かった。
再び口へ。吸い込んだ頃にふと目線をやり、おもむろに内ポケットから取り出す。そして、タバコを挟み、口から離した。
「赤マルでよければ」
秀一は箱の口をビリーに向ける。仲間外れにされてるかのように1本だけ出して。
「よく分かったな」嬉しそうに笑みを浮かべ、ビリーは手に取った。代わりに、空っぽになったゴールデンバッドの箱をくしゃりと潰した。
「長い付き合いだからな」
ライターは自分のを使い、火を灯す。ビリーも満足気にふかす。思い思いに吸う。沈黙が流れる。
「1つ聞いていいか?」ビリーはタバコを持った左手親指で鼻を掻きながら訊ねた。
「なんだ?」
秀一は右手で背広についた埃を払う。あの2人を殴った時に付いたのか、上着に小さいのが点々と。
「今日ここに来たのは偶然か?」
払う手が止まった。
「……どう思う」
顔だけビリーの方へ。
「まー必然か偶然かで言えば……必然、だろ?」
「相変わらず鋭いな」
払うのをやめ、眉を掻く秀一。
「相手の心を読めなきゃ、金貸しはやってらんないよ」
「何? 示談屋は辞めたのか?」
「ん? あっそっか……あれから会ってなかったもんな。辞めたわけじゃなくてな、副業で金貸し始めたんだ。繰り返しになるけど、それくらいしなきゃなかなか食ってけないご時世なんでね」
タバコをふかすビリー。
「それに都合いいだろ。金貸して何かあったら示談屋としても出動。金貸しと示談屋の両方から金を貰うことができる。互いにハッピー」
「いわゆるウィンウィン」ビリーは両手でピースサインを作り、外側に軽く2回折り曲げる。タバコは軽く噛んでいる。
「まあお前は要領いいからな」
「お褒めの言葉はそのまま受け取るタイプだから、ありがたーく頂戴しとくよ」
「話戻すけど」ビリーは続ける。
「なんであそこに?」
「移民系が経営している店で、矢柄組の名を使い『強制送還されたくなきゃ金払え』と脅す輩がいるって噂を聞いてな」
「誰かは分からなかったんだ?」
「ああ。ただ今日はこの辺りに出没するかもって情報を仕入れてな。そしたら、偶然飯食いに来たお前と鉢合わせて——」
「いやいや」手を振り否定するビリー。
「ちょっと違うんだわ」
「というと?」
「実はおれ、あそこにも貸してるんだけど、ある日『ヤクザ来ルカラ助ケテヨッ!』って頼まれて。だから飯食いに来たは来たんだけど、偵察の意味も込めてなんだわ」
店主の奥さんが少しホッとしたような顔してたのはそういうことか、と秀一は納得がいった。
「そしたら眉をひそめた秀一がいたまんだから、『こりゃもしかして同じ理由か?』って思ったわけ。なんとなく」
「じゃあ鉢合わせたらやってやろうとでも思ってたのか?」
「まあね。最悪メリケンで殴って逃げようとも思ってた」
ビリーは上着のポケットからメリケンサックを取り出した。かなり前から使っているようで、指を入れている内側のメッキがところどころ剥がれている。
「ったく……示談屋が火種起こしてどうすんだ」
「へへ」
金戸東駅前に着く。
「じゃあおれはこっちだから」
ビリーは右方向を指差す。
「じゃあな」
「おう」ビリーは手を挙げて去っていくが、「あっそうだ」とすぐに引き返して来た。
「今度温泉行かね?」
「温泉?」あまりに脈絡がなく突然な質問に素っ頓狂な返事をしてしまう秀一。
「最近色々とごたついてだろ? だからさ、疲れを癒しにザパーンとこう大きな風呂に入ってさ、風呂上がりにキンキンに冷えた瓶牛乳をクゥーっと飲んじゃってさ、ついでにマッサージなんかかかっちゃったりしてさ」
身振り手振りを添えたビリーなりの気遣いに、笑みをこぼして「考えとくよ」と返す秀一。
「それ、行かないヤツのセリフ」
指をさして指摘されたため、秀一は「じゃあいつか行こう」と返すと「それはある意味、もっと酷い」とさらに返された。
すると、ビリーのケータイが鳴る。着信音は、電子音楽で構成された特徴的なメロディの曲だ。甲高い女性ボーカルのキャピキャピした声がポケット越しでもはっきりと日岡の耳に聞こえた。この曲には聞き覚えがあった。つまりこの曲は——
「まー別に気にしないでいいから。そんじゃあーなー」
去りながら、電話に出るビリー。スクリーンをタッチしてから耳に付けるまでのスパンが恐ろしく短かった。
「もしもし? 久っしぶり〜マイたんの声聞きたかったよ〜今度いつ会える? だって〜早く会いたいんだもん〜〜」
背中越しでもウキウキなのが分かるほど肩を揺らして去っていくビリーを見て、「ったく……」と日岡はため息をつく。それに呼応するかのように今度は不意打ちのように秀一のケータイが震えた。何度も——つまり電話だ。かけてきた相手が誰か分かった瞬間、もともと伸びていた背筋がこれでもかと伸びる。
「もしもし」
『あっ、日岡さん?』
声を聞いて、空いてた腕がぴたりと横に付く。
「お疲れ様です、組長」
見られているわけではないのに、しっかり礼をする秀一。相手は矢柄組の2代目組長だ。
「いかがなさいました?」
『組についてちょっとお聞きしたいことがあって。今どこにいますか?』
居場所次第では——という組長からのニュアンスを察した秀一は「問題ありません、すぐに向かいます」と一つ飛ばした返事をした。
『でも、遠かったらまた明日でも大丈夫なので。そんな急用ではないですし』
「いや、歩いて……20分弱の所なので向かいますので」
言わなかったがそれに、先代から託された、「2代目を頼む」の命令に絶対的に従わねばという使命感を秀一は持っていた。
組長を守るためなら、いくらでも体を鍛え、いくらでも命を投げ出す所存である——それを聞くと組長は心配するので、胸の奥にしまってはいるが、常にその気持ちに変わりはない。それほどまでに日岡秀一という男の信念の炎は、見た目からは想像できないほど熱く燃えていた。
『それじゃあお言葉に甘えさせてもらいます』
「分かりました。すぐに向かいます」
電話を切ると、秀一はメガネを直してすぐに駆け出した。ボクシングを習っていた頃、基礎トレーニングで日頃から常にやっていたため、走るのは得意なのだ。周りの人間が怪しみながら一瞥してくるが、そんなのは全く気にならない。今の秀一は何よりも遅れることを気にしている。
時計を見る。
ここから矢柄組の邸宅までざっと見積もって——走って15分、だ。
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