#78 Rights and Wrongs(正誤)
街中や駅のホーム、どこを探しても『君』だけが見つからない。
そして自問自答。
それでもまだまだ探す気ですか?
ジュテーム・クラリネット…そんなポップスがあった様な――あったっけ? どうでも良い、ヤバい。テンパってる。
雪が疎らに舞っているにも関わらず薄く汗が滲む。
内外で支配的な思考は既に相当狭まっていて、余裕を失いつつあるのが辛うじて理解出来た。何よりも消えた彼女の身が気にかかる。
偏向する意識を現実に回帰させる外圧。ズボンのポケットが震える。緊迫した状況にそぐわぬ軽快なメロディが鳴り響いた。…知らない番号、まさか本当に誘拐とかじゃねぇよな?
若干の警戒を抱きつつ電話に応答する。
「アラタさん! 泣きじゃくる姉から電話があったんですが、一体どういうことですかっ!?」
「あ、ああああ、
その声の主は僕が喪失した女性の妹君である。数時間前、別れた女性。
電話番号教えたっけという関係ない思考が頭の隅で揺らめいた。
取り敢えず誘拐や犯罪行為の類の可能性がぐっと下がった事で一つ溜息。だが、まだ安心には程遠い。電話の声にしっかりと耳を傾ける。
「さっきもさっきで恐縮ですが、理由や状況を説明して貰っていいですか? 姉の話は泣きながらでよく分かりませんし、元々
先程の声色と打って変わって温度の低い口調。
辛辣な内容はともかく、どうやら僕に対して一方的にクレームを告げる電話では無いらしい。
彼女の真意はどうあれ、僕としては釈明の余地が与えられたことになる形だ。
ならば、まずは問うべき事柄がある。
「一つ確認。お姉さんは…
「? 家に帰ったと言っていましたが…それが何か?」
マジで本当に良かった。マジで本当に、心の底からそう思う。
安堵の脱力で、コンクリの壁に背中を預けてそのままへたり込む。掻き上げた短い前髪から熱い汗が仄かに垂れた。
女を泣かせた分際で、一体何を言うかと思われるかも知れないが、僕の身の上なんて些事でしか無く、何よりも彼女の身が危険とは遠い場所にあるのならばそれ以上は無い。
しかし、それをイチから妹に説明するのは骨が折れるので、簡潔に。
「いや…おおまか、ざっくりふわっと説明すると、錯綜する彼女の身が悪い男とかに捕まって無くて本当に良かったって話」
我ながら意味不明な説明である。当然彩乃さんも咀嚼しきれない。それに乗じて釈明タイムと行きますか…。
彩乃さんと別れた後、知り合いの美人DJに出会ったこと。そして彼女に誘われクラブのイベントに音楽的な勉強しに行こうかと並び歩いたこと。その際にボディタッチを受けたこと。
それをたまたま…僕の至らなさ故に帰宅途中の新山さんに発見されたこと。懸命に彼女の姿を追い求めたこと。
彩乃さんと別れてから経験した殆どをそれなりに包み隠さないで話す。
黙って僕の言い分を聞いた彼女はその内に言葉を探す。
「…なるほど。姉の思い込みの激しさと心情を鑑みれば、さもありなんと言った所でしょうか…事前に聞いた姉の証言は些か偏向的でしたから」
「ち…ちなみにそれはどういう感じの証言だったのかな?」
それは中身次第で僕を大きく傷付けることになるだろう。
しかし、僕はまだ何がなんだか理解していない。事実の確認無しに物語の判断は出来かねる。
『その…姉が言うには宮元くんが裏切った。彼も同じだったと…』
「どういうこと? どういう意味?」
彼女は少し間を置いた後、僕の質問に直接的では無い回答を寄越した。
『緊急事態ですので、もうハッキリと言いますが…アラタさんも薄々勘付かれていることとは思いますが――姉は、男性恐怖症なんです』
彩乃さんはしっかりとした言葉で姉について語り、僕に大きな驚きは無かった。
確かに彼女にはそういう気配というか傾向みたいなものが素人目にも見えるのは間違い無い。でもそれは…、
「いやでもそれって既にっ…克服された過去の話じゃないのか? 現に僕とは普通に喋ってるし、ハンズのメンバーとも……」
僕の主張を遮る程に大きな溜息。そんなに見当違いな推理だったというのだろうか。
僕が続けるよりも早く彼女は言葉を紡ぎ出す。
『はあ…貴方の観察力はほとほと、呆れるほどに
え? いや…まさか…そんな……。
僕の混乱を袖にして極めて事務的な口調で続きを語る。
『私の記憶が正しくて、姉が私の認識する通りであるならば恐らく…面と向かってアラタさん以外とは言葉を交わしていないはずです』
いや待てよ、そんなの嘘だ。
『ハンズの方たちが良い人だと言うのは分かります。気の良い方達で、それなりに誠実で…恐らくは話題に出た悪いバンドマンの様にファンの子達を手当り次第みたいなことはしてこなかったはずです。だからこその人気バンドなのでしょう?』
日中の会話を踏まえて尚―――、
『それでも姉は、彼達とは喋ってないはずです』
「いや、でもならっ…どうして僕だけ…?」
男性恐怖症? まあいい。でもおかしくないか? 僕だって男性なのに―――。
僕の疑問は妹君の再三の溜息に吹き消された。
『そういう所で、モテないと自覚はありますか? 考えるまでもありません。それは信頼されているからに決まっているでしょう?』
「だ、だったら尚更変じゃないか? 自慢じゃないが信頼されるようなことも言ってないし、信頼に値する行動も起こしてない…」
真っ先に思い付いたのは似非業界人との諍い?
しかし、あの程度誰にでも出来る対応だし、僕じゃなくとも問題なかった。幾らでも代替可能な消耗品の様な役割だった。なら何で?
『しかし、そうやって信頼を勝ち取り、男性への恐怖が薄まりつつあった精神が真っ逆さま。姉ならば…さもありなんと言った所でしょうか?』
自虐的な印象を受ける言葉で電話の向こうの妹は呟いた。
僕がそれに突っ込む前に彼女から釘が突き立てられた。
『その件を含めて、直接姉尋ねてもらえますか?家はご存知ですね?』
「いやそれは…」
それはそうだろう? どの面下げて泣かせた女に会いに行ける?
『今から私が姉に事情を説明して、そうですね…三時間後に姉の住居を訪ねてください』
逡巡とは名ばかりの躊躇いに揺れる僕を放置してテキパキと段取りを整える女子大学生。
所であの…拒否権とかって存在しないんですかね?
この瀬戸際で臆病風に吹かれる僕の思考を先回りした様に彼女は逃げ道を明確に塞ぐ。
『当然拒否権はありますが、勿論行使されたりなんかしませんよね?』
「も、勿論ですとも!」
恫喝めいたやり口に対して即座に肯定。
情けない僕に更に迫る彩乃さんの言葉。
『ああ、追加で一つほど…』
「なんなりと…刑務官殿」
最早やけっぱちだ。何でもござれという具合に返事をした。
しかし、電話の向こうの女性は極めて冷静である。
『貴方は先程言いましたね。姉が悪い男に捕まっていなくて、安全な身の上であるならそれでいいと。どういう意味ですか?』
一体どんな毒を吐いてくるのかと身構えていた僕は正直拍子抜けした。なんだそんなことかと肩の力を抜く。
そして、真意をありのままに妹君に伝えた。
「言葉のままだよ。あの時の彼女は酷く取り乱して…その、正気を失っている様に見えた。そして彼女の性質というか特質というか。話に聞く彼女の日常を加味して、悪い男に捕まっている…最悪の可能性が浮かんだ。それだけだ」
『そこまで…いや、悪い男…アラタさんこそが悪い男の一人なのでは?』
豹変した様に軽い口調で僕を非難。
そうだね…僕こそが彼女に言い寄る最大の脅威であるのは否定出来ない部分ではある。でもさ…、
「僕は牙の抜けたウルフだからね。ジャンルとカテゴリが違うよ」
『はてさて、私はそうは思いませんがね…まあ何にせよ三時間です。今から三時間後に姉の住居を訪ねて下さい』
随分と長い三時間になりそうだ。
その短い限られた時間で僕は何を考えるべきだろう…?
「あ、僕の方からも最後にもう一つだけ…」
『なんでしょう?』
ここまで格好悪い姿を晒した事だし、良くも悪くも素直な気持ちを彼女にぶつけてみることにしよう。
「色々本当にありがとう。けど…人の親切を疑うみたいで心底嫌なんだけど…どうしてそこまで?」
僕のみみっちい設問に対して愛する人の妹は欺瞞かと思ってしまう程綺麗な返答を寄越した。
『関係はどうあれ…家族の幸せを願うのはそんなに不自然なことでしょうか?』
「それが理由…?」
今迄多少彼女達姉妹の関係性を見てきた者としてはにわかに信じ難い言葉だが、彩乃さんは「ええ勿論」と追求を許さぬ鮮やかな締め。
僕が言葉を探している内に彼女が会話自体のエンドロールへと誘った。
『では私から…最後の最後に、返す刀でみっともなくもご忠告を』
そう言って一息を置いた後に僕への助言を口に出した。
『自信過剰も困りものですが、過度な小心者も男を下げますよ? 女はいつだって最高の男の腕に抱かれた最高の女でありたいものですから…』
うおおお! なんてハードボイルドな発言だ。本当に年下かよ? 人生の経験値が違い過ぎるぜ。
異性に対して性的とは程遠い――妙な興奮を覚えた僕を正気に戻す一言を置いて、通話は終了することになる。
『きっと上手く行きます……姉を、宜しくお願いします』
新山彩乃が残したそれは今後の僕の行動をある種強制する様な響きを持っていて。彼女は僕を急かしている様に聞こえて。
僕は一つの覚悟を腹の中に溜める…。
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