#77 Please Please Please(どうかお願いだ)

「に。その、に。にー…あ、にぃ、に、や…ま、さん……?」


 エキセントリックな現状に僕は声にならない声を微かに絞り出す。

 メジャーデビューを決めたバンドの作詞作曲を担当するギターボーカルを担当する崇高な僕の喉を通って発された音はいつも以上に掠れていてスカスカで。

 

 その軽薄さはまるで僕の行動そのものみたいに思えた。

 戒めの懲罰としては都合が良いほどに符合する。

 

 脆弱な肉体を離れた精神が、事態の全景をさめざめと俯瞰フカンする感覚。


 相対する新山ニイヤマ彩夏アヤカの存在感はかつてないほどに曖昧で陽炎か蜃気楼の様で。

 それはともすれば瞬きの間に煙や霞みたくあっと言う間に何処かへ消えてしまいそうな儚さで。


 僕は綿埃の様にあっさりと風で流されてしまいそうな彼女に向ける言葉を暗い海の中で必死に探すが見つからない。見当たらない。


「え…っと、あれ? これはその?」


 完全に巻き込まれただけの悪意の第三者は意外にも戸惑いの表情を見せた。

 もっと小悪魔的に場を乱しても良さそうなのに、猿の手の様に願いを捻じ曲げても良さそうなのに。黙って静観している。好都合だ。


 彼女に何か声を掛けなければと必死に右手を伸ばした。

 すがる様に頼りなく虚空を掴む僕の掌は鼻先三寸の彼女に届く事は無く、少ない期間に積み上げたはずの『全て』が瓦解する音だけが遅過ぎる警告音として耳の奥で忙しく騒いだ。


「おいっ…くそ、なあっ…新山さんっっ!!」


 ようやくまともな発声が出来た瞬間、彼女は駆け出した。両の目に溜まった涙は長い前髪に沿って流れて、彗星よりも一瞬で儚く弾けて混ざる。


 くそったれ、だ。有り得ないだろ。こんなのさ!


 混乱する頭を抱えたまま、今尚状況が飲み込めていない佐奈サナさんを強引に振り解いて早口で一方的に別れを告げる。


「すみません! 諸事情により行けなくなりましたっ…そのっ、この埋め合わせと説明はまた後日にっっ!!」


 善意の第三者たる美女DJとの約束を反故にするのは大変心苦しいが、僕的にはそれどころでは無い。

 なんせ僕における優先順位は遥かにが上だ。想い人が立ち去った方に向かって弾かれたように駆け出す。


 しかし生憎の帰宅ラッシュ。

 不特定多数の無価値な人混みの中に溶けて消えてしまった――僕にとってのを見つけ出すのは容易では無い。クソが…!


 だがしかし、家の方向は――彼女の向かう先は無鉄砲に分かるんだ。その方向を重点的に探せば見つからない筈も無い。

 お世辞にも彼女は運動が出来るタイプには見えない。加えて先天性の性差もある。大丈夫…行けるはずだ。


 大した用も無い癖に入り乱れる学生と大義なんか持ち合わせて無いだろう社会人達が構成する有象無象に掻き分けて…無遠慮に蔓延る子供と恥知らずな老人が支える烏合の衆を踏み越えて彼女を追う。


 何処だ? 何処にいる?

 せめて説明させてくれ…どうか謝罪をさせてくれ……。


 必死にそう祈りながら一目惚れの相手を探す。

 それは大海で一粒の宝石を探す行為に等しい。


 やがて発想は飛躍し、一つの結論が頭を占める。


「彼女自身の身は大丈夫か?」


 圧倒的な人の物量。

 そして彼女の誘蛾灯の様な性質。

 日が沈む時間帯。夜を迎える時分。


 それらを加味して、彼女の精神状態を加算する。

 最悪の想像に行き着く。


 頼む。僕の過失はこの際良い。これで終局でも構わない。

 お願いだ。彼女をこれ以上傷付けないでくれ。

 友達もおらず、男を知らない女性の身に降り掛かるのはもういいだろ! これ以上は莫大過ぎて流石に余計だろ…。


 自身の蛮行を脇において、度外視して。

 純然たる純粋な祈る思いだけを濾過して組み上げて。

 自分勝手な願いだけを胸に彼女を捜索して三十分――それでも僕は、新山彩夏の存在を影も形も――霞の一片すら掴めずに、あっという間に暗くなった空を見上げた。


 もう…何もかもが嫌になるくらい、空気は冷たく澄んでいた。

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