#50 Adam's Apple(禁断の果実)

 その航路は滝よりも遅く、川よりも速い速度で淀み無く。

 狭い路肩を利用し、曖昧な法律の間を縫うようなグレーゾーン気味な擦り抜けなど行使しなくとも今宵の道路は空いていて、彷徨う客を探すタクシーばかりが目立つアスファルトを法定速度で駆け抜ける。


 普段の適当な運転とは異なり赤信号に捕まる度に背後の女性に安否の確認をとる。振り向いた瞬間誰もいなかったなんてオチは死ぬより酷い。


 そんなことを繰り返している内に彼女の住居の最寄りと称されるコンビニに到着。純然たるホームスポットとは言えないまでも、まあ普通に地元民故に迷子になることなんて全く無くて、夢のクルージングの終焉は実に呆気無い。


 サイドスタンドを下ろして彼女に降車の合図を送る。


「さあ到着。ごめんね。乗り心地わ…って、えっ…?」


 僕が言い終わるのより早く、背中に実像を持った熱と重力が明確に加わり僕に伝わる。


 つまり、それは後部の彼女が何らかの理由を持って僕の背面に間違い無く身体を預けた訳で、つまり…えっと、つまりどういうことだ?


「え? あれる? に、にの新山さん…?」


 呂律の回らぬ拙い言葉で真意を問うものの返答が届くまで十数秒。永遠にも感じる悠久の刹那である。


 やがて、強い感情を伴い絞り出す様に彼女は唇を震わせた。


「…そ、…っぐ…」

「え? 何だって?」


 接している筈の肉体から発せられたその声か聴き取れず――持ち前のコミュ障を加えた結果が――テンプレの様な聞き返し。

 謎部活が舞台のラブコメ作品以外では特に効力を発揮しない妄想それはアンサー待ちの受け身スタイル。所謂後の先である。そうであればいい。いつかそうなればいいと思う類の幻想ユメである。


 彼女は僕の貧相な上着をしっかりと、それでも控え目さが滲む力加減で掴み、より明瞭に考えを言葉にした。


「その脇から出て、真っ直ぐ進んで…」


 何やら悲壮な決意を秘めた声色に僕は疑念と疑問を抱えながらも再発進。

 意図が読めずに流されるままの僕に時折後方から指示が飛ぶ。


「次の交差点を左に…」

「いやちょっとま……」


 僕の反証は敢え無く霧散する。

 何時の間にか腰に回された細い両腕に力が入る度、言う気が失せて集中が切れそうになる。だってそんなの刺激が強いよ、現代の高機能化学繊維越しに接する彼女の膨らんだボディ…正気を保つだけで精一杯だろマジで。


 肉感的な誘惑に堪えて、何とかアクセルワークを維持してカノジョの指示を完遂した。

 自分の意思を排除してひたすらに指示に従った末、導かれた僕達が辿り着いた先には――、


「ココは…そう、所謂アポルトマンでフラット…そう、一つのアパート的、なん…だよね? そんでまた、ひょっとして…」


 長年愛用しているフォルツァがアテも無く辿り着いたのは四階建ての集合住宅の眼前。あえて描写のしようが無い程に普遍的でありがちな鉄筋コンクリート造の建築物。

 女性経験の無い僕が素人ながら察するに、一人暮らしの彼女のお住まいだったりする気がしなくも無いが…って、おいマジかっ?


 眼前に展開される展開が思い描いていたものと乖離しすぎで、思考回路はショート寸前。まさかこのまま自室に招かれちゃったりするのでしょうか? 抜き差しならぬ関係に発展したりするのか?

 いやいやそれはない。まだ早い。そういうのは正式にお付き合いしている成人の男女の間で執り行われる神聖な儀式であって、まだ僕達はそういう…。


 僕が言い訳染みた念仏を唱えている内に彼女はぎこち無く降車。ヘルメットをまごついた手付きで取り外してから頭を低くする。押さえ付けられた髪が勢い良く流れ出したのが印象的だった。


「ごめんなさい。少しでも長く一緒にいたくて。迷惑かけちゃった」

「ああ、そういう…どういう? いや…え? えっ!」


 マジで招かれるのか? それともバイクに長い時間乗りたかったってこと? 分からん、その違いは僕には判断しかねるよ。


 なされるがままに彼女からヘルメットを受け取った。


「行って良かった。本当に楽しい時間でした」


 それは余りにも定型文めいた言葉であったが、その表情は明らかに定形外のものであった。

 少し哀しげに目を細め懸命に口角を上げようとしているその顔付きに至った感情はただ事には思えない。


 だが、触れられない。拒絶のニュアンスを含んでいる様に思えた。知らねぇよ。踏み込んでしまえ!


新山ニイヤマさん! 明日って時間ある?」


 些か考え無しにも程があった。適当にも程がある会話の切り出し方である。

 しかし引っ込めることは出来ないので即興で突き進むしかない。


「いやほら、明日って所謂法定休日の一つじゃん? 会社勤めには待ちに待ったお休みな訳だろ? まあ僕は一般的な社会人ではないけど――それでも、貴重な休みを少し頂いて――あっと、一緒にメシでもどうかなって思ってるんだけど…、もしよろしければ」


 何言ってんだ僕。

 昨日今日と彼女に似たようなしどろもどろの弁明を繰り返しているが、いくらなんでも下手過ぎる。言葉選びが致命的だわ。よく作詞とか出来てるな。


「随分と急な、話だね…」

「あっ、ああ…他に予定とかあった?」


 口元に右手を当てて考えを纏めるポーズの彼女。結果沈黙が生まれ、僕を緩やかに縛り付ける。

 いっそ断ってくれと願う自分が隣で悶て叫ぶ。ノープラン故の感情の別離。


 彼女からの返答は呆気なく。


「あ、そ…その夕方、からなら…」


 何とか形になりそうな気配に一安心。

 半ヘルをシートの下に格納しながら詰めに入る。


「ならまた詳細はメッセージするよ。あー…」

「どうしたの?」


 素っ頓狂な声を発した僕を覗き込む新山さんから放たれるフレグランスが惑わしい。芳しいパルファムで思考が乱れて疑念が煩悩の彼方に消え入りそうだ。


 煩悩に気圧された熱が逃げる前に『それ』を言葉にする。


「参考までに新山さんの好きな食べ物とその逆を教えてよ」


 多分事前のリサーチとかはきっと大事だ。僕の特性上、突発性の即興は苦手だと重々承知しているから。


 再度口元に手を添えて思案に耽る女性。この二日で何度か見た仕草。それは考え込む時の癖なのかも知れない。


「魚料理、とかが好きかな? 苦手な食べ物は…特に思い付かない」

「了解。最大限考慮させて頂くよ」


 意外と健啖家なのだろうか?

 何にせよ、食べ物の好き嫌いが少ないのはきっと良い事だ。倫理的にも生物的にも。偏食しがちな僕も見習わなければとさえ思う。


 それにしても僕は彼女について無知過ぎるな。もっと彼女を知らなければ到底届かない。

 彼女の抱える問題は――具体的な方策なんかは疎か、その全体図すら欠片も見当はつかないが――出来ることならば何とかしてあげたいと思う。


 だが、それはいずれの話であり。

 すぐさま現在の現実から地続きになるこの瞬間ではない。


 それを踏まえた上で僕に出来ることは、


「今日は来てくれてありがとう。また明日ね」

「うん。また明日」


 僕には侵入出来ない私室に帰宅する想い人が明かりを灯すのを――固くて冷たいアスファルトの上から見送ることだけ。


 彼女が住む部屋への距離は、見掛け以上に遠くて。

 異邦人が訪れるには幾つもの障害が見え隠れするみたいに思えた。

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