HUMAN CLAD MONSTER 4

 夜街にとんぼ返りする形となったジンだったが、ヒトの群れを出来うる限り避けて行動していた。


 今では落ち着いているものの、いつまた耐え難い飢餓に襲われるかもしれぬ身だ。自分の血を吸う形となって、食慾は峠を越しているが、そもそも血を本当の意味で栄養としたわけではないのだ。


 次は更に濃い慾求が襲ってくるのは明々白々、どう考えても耐え切れぬだろう。


「くそっ、俺、路地裏になにかと縁があるな」


 ジンの口をついた毒突きを聞くものは当の本人だけかと思われたが、その実、耳に聞き届けたものがいた。


真木永人まきなジンさん、ですかねェ?」


 寄ってきたヒトの気配に気付かなかったのは、先ほどの膨大な存在感に晒されたせいだろうか。あたかも、強い光に姿を隠す星の光のように。


 くたびれた砂色のコートとスーツを着た無精髭の男だ。髪もざんばらで、しょぼくれた身なりではあるが眼光だけは恐ろしく鋭く、まるで虫類のように油断ならぬものを感じる。


「こういう者ですがねェ。ある事件について、少々聞きたい事があるんですが……」


 懐から取り出した、色褪せた金メッキの桜紋を付けた黒い手帳が、彼の弁よりもなお明快に男の身の上を語った。


 ――刑事ッ!?


 心臓が氷の鼓動をついた。雨の一夜/足元に生命力を亡くしたオンナの屍体――。氷点下の理解が心臓をより冷たく叩く。


「そういえばぁ……あの事件が起きたのもこんな路地裏だったなぁ。いやはや、痛ましい事件でした」


 男の顔が赤い灯火に照らされたのは、煙草に火を付けたからだ。痛ましいと言いながら、仰ぎつつ紫煙を吐き出しながらつぶやく姿は哀悼や義憤の意とは程遠い。


「ということでご同行願いませんかねェ? 煩わしいのはごもっともなんですが、こちらも仕事でねェ」


 気だるげに頭を掻くが、ジンを見つめる眼光だけは全く弛みないどころか、却って煌然の色を増した。


「すみませんが……今は忙しいんで……」


 心にもない謝罪をしながらじりじり後退りするジンだが、眼前の刑事は目ざとく認めていたらしい。懐に手を入れ、離れようとするジンを追いかける形で――そして、余計な刺激を与えぬ速度で詰め寄ってくる。


「長年、こんな稼業やってますとねェ、経験則とでも言いましょうか……勘働きが鋭くなるんでさ。最近では、〝刑事の勘〟ってェと曖昧あいまいで証拠が無い、冤罪えんざいの元ってェ見方されとりますがねェ? いや、これが馬鹿にしたもんじゃない。結構当たるんですよ。仮に間違っていてもね、大体容疑者に近づけるんですよ。まあ、全くの見当外れも無きにしも在らずですがねェ。そこは……世は全て事もなし。お分かりでしょう?」


 ――結局、強制自白で冤罪にするんだろ。クソ刑事!


 心中で悪態をつくも、残念ながらあのオンナの件に関しては、異常な空腹感を経験した後では冤罪とは言い切れない。心に巣食う確かな血への希求は、ジンの脆い理性を砕き……〝彼〟を駆り立てるには充分過ぎるほど強烈だ。況して、意識を失っていたとあっては……。


「さて、誤発砲したくないのでねェ。おとなしくこちらに来てくださいねェ」


 懐に手を入れた刑事は、既に怠慢の外装を完全に取り払っていた。犯罪者に対しての苛烈な嗜虐しぎゃくの意志は、彼の人格はさておいて刑事という職業にはうってつけだろう。


「アタシャねェ、自分の勘と見たもの以外は信じないタチなんですわ。そして、あなたはアタシの勘によると――クロですわ。どこかの居酒屋チェーンの経営かっちゅうくらいに真っ黒ですわ」


 取り出された金属製の兇器の黒い孔がジンに向けられる。ただの学生では滅多なことでは目に触れる機会もない、リボルバー拳銃。


 ジンのヒトではありえぬ異感覚が向けられた銃器の威力、射程、かかる重量から構造に到るまでのことごとくを詳らかにした。


 威力――心臓と脳に達しない限りは即座に致命に到るものではない。しかし、致命には到らずとも、少なくとも失血は免れぬ。今の自分の状態を鑑みるに、失血などしようものなら、それを引鉄に内なる獣が失った血を贖おうと刑事を一切の呵責無く餌食にするのは、想像に難くない。


 射程――刑事の身体能力を、おそらくヒトの平均は上回っているであろうと予想。吸血鬼の身体能力を駆使すれば逃げきることは可能か。特に壁面を飛び渡る、ヒトではありえぬ三次元移動には、心理的な盲点もあり、対応するのは不可能といっていいかもしれぬ。ただ、吸血鬼の能力を発揮する行為は、それだけ血への獰猛どうもう貪慾どんよくさをかき立てるに違いない。


 では、いっそ戦うか。仮令たとえ銃を持っていたとしても、構造から分解の手順まで理解したジンであれば、接近さえできれば使用不可にはできる。ただし、勢い余って殺してはしてしまわないか。


 ――どうする?


 どう、しようもない。刑事を振り切る行為自体はたやすい。ただし行えば、確実に宿痾しゅくあとなった飢餓が身体を支配する。今のジンにとって、自分の身体すらも敵に――それも強大に過ぎる敵に等しかった。


 絶望に落ちかけ、いよいよもって進退窮まろうとした瞬間、意外な人物がジンを救った。


 刑事の背後に黒い影が落下、ばさりと音を立てる。


「!?」


 刑事が背後の気配に敏感に反応したのは、実地の経験と訓練の賜物だろう。振り返りながらも、リボルバーを両手で構え、振り向き終わる頃には発射体勢が既に整っていた。だが、この一連の流れる動きも拳銃を豆鉄砲程度にしか捉えぬ生物が相手では、残念ながら功を奏さない。


 ジンは見た。振り向く刑事の向こう側、山高帽をかぶった血の通っているとは思えぬ顔色の怪人の姿を。


「絶対零時の継嗣?」


 刑事の銃を無造作に掴み上げ、ぬめったきばを首筋に突き立てんと口を開く。ジンの姿を一顧だにしないのは、彼同様に強すぎる血慾に酔っているからであろうか。それとも、同属と認識しているのか。


 ――これはチャンスだ。今なら簡単に逃げ切れる。どうせ、俺を逮捕しようとした刑事だ。他には縁もゆかりもない。見捨ててもいいだろ。


「くっ。お人好しか!」


 胸中に湧いた甘い誘惑を噛み締め、ジンは今にも命を刈り取られようとしている刑事の元へはしった。捻りを加えて跳躍/円回転して脚を伸ばす/回転の中心から遠ざかった足は、身体の中で遠心力を最も与えられ/絶対零時の継嗣の側頭部をしたたかに蹴り当てた。


「  !?  」


 いくら絶対零時の継嗣といえども、同属の膂力りょりょくで以って全くの慮外りょがいからぶつけられては、さしもの吸血鬼の頑強さであってもひとたまりもなかったと見える。刑事を放り出して、楼閣ビルの壁面と情熱的に衝突/コンクリートの破片をばらまいて、完全に頭を壁面にうずめてしまった。むしろ、壁面に頭蓋を除く五体が生えたみたく見える。


 放り出された格好となった刑事は尻餅をついていたが、見たところ幸い無傷で済んだようだ。

 我知らずついた溜息は、刑事の安否よりもむしろ血を見ずに済んだ安堵あんどからだった。今度、ヒトの血を目の当たりにしては正気を保っている自信が、ない。


「おい、刑事さん! 二秒で立てよ。逃げるんだよ!」


 人を喰った刑事も流石に呆けるばかりだが、いつ吸血鬼が襲いかかるか知れたものではないと、ジンは手をとって無理矢理立たせる。

 一瞬、刑事を抱えて逃げようかとも考えたが、己が秘めている獣欲を鑑みるに、ヒトが近くにいる状態で吸血鬼の能力を開放するのは躊躇ためらわれた。


「とにかく逃げますよ!」


 ジンは刑事の手を引いて、いつ目覚めるかもしれぬ絶対零時の継嗣から遁走とんそうした。ある程度まで逃げると、追いかけてくる気配が無いことを確認しながら、ジンの脳裏が益体もないつぶやきを発した。


 ――しっかし、色気ねえな。おっさんの手を引いて逃げるなんて……。



 もう充分だろうと足を止めると、跫音あしおとにまぎれていた音が、揺れていた視界が判然と姿を顕す。すると、絶え絶えになった息が鼓膜を震わせた。自分のものではない。


 手を引いていた刑事が、今にも倒れそうになりながら肩で息をしていた。


「はあはあはあ……げほっ。真木永まきな、さん。アナタ――はあ、はあ――バケモンですか……? あれだけはしって息が乱れて――うおっほん――ないって……」


 疲労困憊といった様子で、咳き込んで息をしながらとあっては、かなり言葉を汲み取りにくい。


 吸血鬼のもつ瞬間的に発揮される筋力自体は使わずとも、それを支える持久力はジンの身体に備わっている。そして、ヒトの身体能力程度に限って使用したならば、衰えを全く見せぬほどの過分に過ぎる持久力として顕れるのであろう。


「……う、運動不足なんじゃあないですか? 刑事さん」


 我ながら苦しいが、咄嗟とっさとあってはうまい言い訳など思いつくはずもない。


「運動不足、とか――ぜえぜえ――そんな問題じゃあ、ない……んじゃないですかねェ」


 吐く言葉に力も無くした刑事は、生まれたての子鹿もかくやと膝を震わせている。どうやら、よほどの距離を走破したらしい。


 辺りを見ると、ここは住宅街の中でぽっかりと空いた、夜闇に沈んだ公園だった。ルート43を少し南に下った辺りのようで、高速道路の高架が家々の隙間から垣間見えた。闇がさほど苦にならぬほど、明るい視界。これも闇に棲まう吸血鬼の視力の恩恵だろう。


「煙草、いいですかねェ?」


 台詞こそ疑問形だが、彼にジンの返事を待つ殊勝さはなかった。真っ赤な蛍が刑事の相貌を照らし、紫煙が公園の常夜燈の光に白く複雑な曲線を描いて、空へ溶けていく。


「……んんっ」


 わざと咳払いをしてみるも、予想よりも刑事の面の皮は厚かった様子で、全く意に介した気配すらない。

 悠々と煙草一本をんだ頃には、刑事の吐く息もかなり落ち着いていた。


「それで真木永まきなさん、あの不気味な奴らの正体はなんです?」


 公園のベンチに鷹揚おうように腰掛けて、刑事はジンに質問した。


「知りませんよ。ただの変質者なんじゃあないですか?」

「ふ~ん……。まあ、掛けてくださいよ。アタシだけ座っていても変じゃあないですかねェ?」


 隣に座るよう促されては、ジンも是非もなく掛けるしかない。

 ジンが座るのを確認した刑事は更に言葉を重ねてきた。


「アタシはね、一つ特技があるんですよ。聞きたいですか?」

「いえ、遠慮しま……」

「まあまあ、いいじゃないですか」


 即答するジンだったが、それを聞かずに刑事はじっと彼の横顔を眺めている。刑事の視線を横目と肌で感じ、ジンは薄気味悪い居心地の悪さを憶え、耳の後に伝う汗を意識した。


「……すんすん」

「何やってんだァァア! おっさんッ!」


 あろうことか、刑事はジンの汗が流れた耳辺りを匂い始めた。


 生理的な悪寒に思わず、言葉を荒らげてジンは飛び退く。咄嗟とっさのことで吸血鬼の膂力りょりょくが顔を覗かせ、ジンは一跳びで一〇メートルの距離を渡った。


「やっぱり、アナタ、異常ですわ」


 確信があってのことであったらしく、刑事の顔に驚愕の色は見られない。むしろ、吸血鬼の双眸そうぼうにも負けじと、底光りするナイフじみた眼光を炯々けいけいとジンに向ける。


「オリンピック選手でもこんな事は不可能ですよ? まあ、これもおいおいお話聞かせてもらいましょうかねェ。ですが、とりあえずは先程の話の続きですわ」


 カメレオンに似た動きで、顔をあちらこちらに忙しなく動かし、風の匂いを確かめるように嗅ぐ。


「すんすんすんすんすんすんすん……。アタシャあね、そいつが言ってることが嘘か真か……体臭を嗅いだら分かるんでさ。そんでね、アナタが言ってることは嘘に限りなく近いんですが……自分でも真実かどうかの判断が今ひとつ確信できない、自信のない匂いなんですねェ」


 組んでいた足を組み替えて、刑事は頭をベンチの背もたれに任せた。


「それにねェ。アタシの〝刑事の勘〟がねェ、今は『アナタは犯人と違うのとちゃうか?』と言うとるんですわ」

「……自分でも分からないんですよ。確かに自信はない。自分が犯人なのか、そうでないのか。記憶が無いんです。我ながら胡散臭いことを言っている自覚はありますけど」

「ふ~ん。アタシが自分の勘を頼りにしているタイプで助かりましたなあ。アタシでなけりゃ、今頃両手は繋がれていましたよ?」


 嘆息混じりに自嘲の笑いを滲ませて、刑事は続ける。


「もっとも、アタシにアナタを逮捕できるとは思えませんがねェ」

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