ハッピー老荘

ツヨシ

本編

小暮が物心ついた時には、自分の母親がどこか人と違っていることに気がついた。


一見、息子を溺愛しているようにも見えるが、そんな単純なものではない。


何にしても全て母親が決めてしまい、小暮の意思や都合は一切認めようとしなかった。


かと言って正しい判断をしているわけではなく、母の言い張ったとおりに事を進めると、問題発生、不都合、取り返しのつかないことばかりであった。


小暮が言うことを聞かないと、母が勝手に物事を進めてしまい、やはり問題発生、不都合、取り返しのつかないことになってしまう。


十歳を迎える頃の小暮の母に対する口癖は「勝手に決めるな! 勝手にするな!」となっていた。


それに対する母親の反論は「おまえがそうしたいのかと思った。だからおまえが全部悪い!」であり、「同じことを何回も言うな。しつこいぞ!」であった。


そして再び的外れな決断を下し、問題発生、不都合、取り返しのつかない事態を招くのである。

 



高校時代、地元の大学を通うように勧める母に対して、生まれて初めて徹底的に抗戦し、「他県の大学に行く」と宣言した。


それに反発した母は、毎日一日も欠かさず数時間にわたって小暮の耳元でわめき、叫び、抗議をした。


小暮はそんな母を無視して、一切の返答、反論を口にしなかった。


無言の抵抗を貫いたのだ。


反論しても全くの無駄であり、到底話し合いにはならないだろうという考えと、ひたすらうっとうしいという感情からである。


そんな小暮を見て母は「おまえが黙っておとなしくしている私に毎日けんかを売ってくるから、こうなるんだ!」と言い放った。

 



大学に入っても、母親から毎日のように電話がかかってきた。


母だとわかって電話にでないと、一分おきに何時間もかけてくるので、出ざるをえない。


出ると事実無根の文句と説教が始まる。


見てもいないのに、やれ部屋が汚いだの、勉強しないで遊んでばかりだの、その他もろもろ。


小暮は盆も正月も実家には帰らなかった。

 



卒業前に大学のある市内の薬品会社に就職を決め、二年後には社内恋愛で結婚した。


美佐子という名の、穏やかでおとなしい女性だ。


結婚式には、呼びたくはなかったが美佐子の両親の手前もあって、親族に混じって母親も出席してもらった。


母はその日初めて美佐子を見た。


美佐子を見るその眼には、憎悪、敵意と言ったものが満ち満ちていて、後に美佐子の両親から実に言いにくい事だが「おまえの母親、ほんとに大丈夫か?」と聞かれたほどだ。

 



その後は特に問題はなかった。


絶え間なくかかってきていた母からの電話も、結婚式の後はぴたりと途絶えた。


小暮は生まれて初めて「平穏」という日本語の本当の意味を知ったのだ。

 



ところが結婚して半年くらい経った頃のことである。


ある日、小暮の住むアパートに、引越し業者のトラックが乗り付けてきた。


そして空いていた小暮の部屋の隣に、荷物を運び入れている。


――誰か越してきたな。


そう考えていた小暮の目に、信じられないものが写った。


最後の荷物が運び入れられた後に現れたのは、小暮の母親だったのだ。


「母さん!」


思わず大声の小暮に、母はにっこり笑って答えた。


「おまえが心配だからね。ちょっと近くに住むことにしたのよ。父さんは仕事があるから、置いてきたけどね」


「……」


翌日、小暮は気をとりなおし、母親に「帰れ!」と言った。


母は「わかった」と返答したが、一向に帰る気配がない。


そして起こるべきことが、起こった。


小暮が仕事で留守の時に、寿退社で家にいる美佐子のところへ母が毎日何度となく押しかけて来て、あれやこれやと口を出してきたのだ。


美佐子が母の言うとおりにすると「勝手な事をした!」とわめきちらし、言われない事をやらないでいると「なぜ言われたとおりにやらない!」と因縁をつけ、やってもいないことを「こんなことをしでかすなんて、とんでもないことをする酷い嫁だ!」と攻めたてた。


おとなしい美佐子は反論も出来ずに、言われるがまま。


美佐子から話を聞いた小暮が止めるように言っても「誰それがそう言ったから、絶対に間違いない」と意味不明のことを言う。


誰それとは父親であったり親族の誰かであったりするが、どう考えてもそんなことを言うはずがない。


そして「誰それが言った」はいつのまにか「おまえが言った」となっていた。


美佐子は我慢強いほうではあるが、もちろん我慢には限界というものがある。


小暮は母親に対して“殺意”の感情しか持たなくなったが、殺人は日本においては犯罪である。


それに、あんなものを殺して警察に捕まったのでは、いくらなんでもわりに合わない。


美佐子と相談して取った手段は「夜逃げ」であった。


殺さないかわりに縁を切ることに決めたのだ。


母の目を盗んで隣の市に引っ越した。


通勤時間は増えたが仕方がない。美佐子との安らかな生活のほうが、断然大事である。

 



再び平穏を取り戻した小暮であったが、一ヶ月も経たないうちに同じアパートに引っ越してきたものがあった。


それは紛れもなく、小暮の母親であった。


いったいどこでどう調べたのか。


母親はもはや“殺意”の対象から“恐怖”の対象へと変わっていった。


当然のごとく美佐子は一人で部屋を出て行き、やがて離婚が成立した。


呆然と力が抜けてしまった小暮に、母が言った。


「おまえがしっかりしないからこうなるんだ。なさけない。やっぱりおまえには、私がついていないといけないんだね。ほんと、よけいな世話をやかす息子だよ」


そして、何事もなかったかのような涼しい顔で、自分の家へと帰っていった。

 



母は帰ってから、再び毎日小暮に電話をしてくるようになった。


小暮はその番号を直進拒否にした。


すると新しい番号で、またかけてくる。


それも着信拒否にすると、再び新しい番号を手に入れ、電話口でわめきたおす。


内容は、意味不明、事実無根の罵詈雑言。


そして最後に「おまえは私がいないと、何一つ満足にできないバカ息子だ!」で締めくくるのだ。


五つ目の電話番号を着信拒否にすると、ついに電話はかかってこなくなった。


が、それからは毎日毎日、母から手紙が届くようになった。


小暮は最初の二、三通はとりあえず読んだが、その後の手紙は開封されることなくゴミ箱へ直行した。

 



そんなことが三年ほど続いた頃、小暮に新しい彼女ができた。


小暮は、この彼女だけは母親の魔の手から守らなければならないと、心に決めていた。


二人の仲は親密になり、やがて二人で住むようになった。


彼女には母親のことを正直に話し、とにかく会わないこと、電話も含めて一切話をしないこと、手紙も読まないこと、の三つを約束させた。


しかしその頃から、何故か母親からの手紙が途絶えた。


十分気にはなるが、こちらから連絡するのは自殺行為だ。


小暮はそのまま放置した。


手紙が来なくなって二十日ほど過ぎたある日、小暮の部屋を訊ねてきた者がいた。


驚いたことにそれは小暮の父親だった。


母のいいなりで、味方になるどころか足を引っ張る存在でしかない父親が、けっして近くないこの地に、いまさら何故のこのこ顔を出してきたのか。


小暮の疑問に父親が答えた。


「母さんがぼけてしまった。最初はそうでもなかったが、見る見るひどくなって、今では俺の顔すらわからないんだ」


だから、どうにかしてくれ、と言うことだ。


それなら小暮に思い当たる節がある。


医薬品会社の営業をしている小暮は、その方面に詳しくて顔もきく。


あの母親を放り込むにうってつけの場所を知っていた。


ハッピー老荘。


この軽い名前の老人ホームは、その名に反して重度の痴呆症老人ばかりを集めて、それなりに流行っていた。


何よりも入居者の管理体制が、他の老人ホームよりも数段強化されている。


つまり一度入ってしまえば、入居者の意思で外に出ることは、絶対にできないのだ。


あの母を入居させるには、小暮の知っている限りこれ以上最適な所はない。


小暮にとってハッピー老荘に母を入居させると言うことは、母親を捨てると言うことに他ならなかった。


もちろん小暮に迷いは微塵もない。


ハッピー老荘は人員強化のため、その分少しばかり他のホームよりも費用がかさむ。


が、小暮の父親は、家では皆目頼りにならないが、外ではなかなかのやり手で、収入も一般サラリーマンよりもかなり高い。


父親を半ば脅すようにして話を進めると、母と言う後ろ盾をなくした父は、あっさりと承諾した。


母をハッピー老荘へ連れて行くのは、顔の聞く小暮の役目となった。


母に会うのは死ぬほど嫌だったが、それも一度きりなら我慢もできよう。


今度再開するのは、母の葬式になるはずだ。


いや、その葬式でさえ、小暮は顔を出したくないと考えていた。

 



小暮は四方を高い金網のフェンスで囲まれているホームの中に、母と一緒に入った。


母は何も言わずにおとなしくついて来る。


玄関に向かうと、顔なじみの院長が玄関の外まで出迎えてきた。


「小暮さんのお母さんですね。しっかりあずからせてもらいますよ」


建物の中に入ると、近くにいた九十歳くらいの男性が小暮の前に立ち「まさこ! まさこ!」と言いながら抱きついてきたが、職員によって引き離され、引きずるように奥へと連れて行かれた。


「大丈夫ですか? あの人には小暮さんが娘さんに見えたのでしょうね」


――俺は百人が見れば百人とも「あの人は男だ」とわかる外観だというのに。


そんな理屈は痴呆老人には通用しない。


母親の部屋は奥だというので母と院長と三人で進んだ。


母は小暮に会っても何の反応もなく、一言も声を発しなかった。


いくつになっても息子は“全部自分のもの”と信じて疑わない母が、その息子に久しぶりに会ったというのに無言無表情であるのは、やはりぼけているからなのだろう。


途中、知らない老婆にいきなり「金かえせ!」と首を絞められたが、その老婆も職員によって何処かへ引きずられていった。


「あの部屋です」


院長が言うので、手前の部屋を横切ろうとしたとき、その部屋の中にベッドに幾重にも紐で縛り付けられている老紳士がいるのが見えた。


院長がそれに気づく。


「ああ、あの人は攻撃性が強くて、他の入居者や職員を襲うのです。それだけなら、あんなにぐるぐる巻きにする必要もないのですが、厄介なことに自分で壁を殴ったり蹴ったりして、自分の手足を傷つけてしまうので、仕方なくああしているのです。怪我をさせたら、家族が黙っていませんからね」


ホームの事務所には何度も来たことはあるが、入居スペースは初めての小暮には、痴呆老人の世話というものは、ある種の戦争みたいなものだと感じた。


「この部屋です」


母の部屋。


とは言っても、これまで通り過ぎてきたいくつかの部屋と、なんら変わりはない。


六畳ほどだろうか。


ベッド、洗面台、たんす。


それがこの部屋にある全てである。


小暮は視線を院長に移した。


「これなら母も快適にすごせそうですね。どうかよろしくお願いします」


頭を下げた。


これでもう全部終わりだ。

 



それから一年は何事もなく過ぎた。


小暮が彼女と結婚したことを除けば。


ところがある日突然、ハッピー老荘の院長から連絡があった。


母がここ数日、一日中「息子に会わせろ!」と叫び続けていると言う。


暴れることもしばしばで、非常に困っているのだそうだ。


そんなやつはベッドにでも縛り付けておけ、と思ったが、さすがに口には出さなかった。


あのホームは小暮の会社のお得意様だ。


ほおっておくわけには、いかないのだ。


「明日、そちらに向かいます」


電話を切った小暮の全身に、鳥肌が立った。

 



ホームに着くと母はおとなしく待っていた。


そして小暮の顔を見るとにっこり笑い、抱きついてきた。


小暮はジンマシンがでそうになった。


二人でお茶を飲みたいと母が言うので、何かあったら大声を出す、と院長と取り決めをかわし、二人で庭に出た。


広い庭の先には高い金網のフェンスがあり、その向こうは大きな池がある。


二人で庭にある椅子に腰掛けて、お茶を飲んだ。


飲み終わると母が立ち上がり「こっちに来て」と言う。


気は進まないが、逆らって面倒な事になるとまずいので、ゆっくり歩く母の後をついて行った。


母は庭の西の端まで歩くと、そこで立ち止まった。


そして何かを指差した。


そこにはフェンスの裂け目があった。


大人一人くらいなら難なく通れそうな大きな裂け目。


危険だ。小暮は考えた。


何か事故があってホームの評判が堕ちれば、小暮の会社も困ったことになる。


――あとで院長に言っておこう。


そう思った小暮に、突然強烈な睡魔が襲ってきた。


抵抗しがたい、山のような眠気だ。


その睡魔に、小暮は覚えがあった。


入社したてのころ「一度経験しておいた方が、仕事上都合がいいよ」と先輩に飲まされた睡眠薬。


その感じに似ているのだ。


――たしかここにも、あったはずだが。


ホームに同じ睡眠薬があった。


眠れない入居者や、夜中に騒ぐ老人のために使うもの。


小暮自身が納めているものだ。


力なく地面に倒れた小暮に、母が話しかけてきた。


「おまえは私のものなのに。なのにおまえは、いつもいつも逆らうからね。この親不孝者! それならいっそのこと……」


後の言葉は、小暮にはもう聞こえなかった。




        了

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ハッピー老荘 ツヨシ @kunkunkonkon

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