9-9.ジンジャーシュガー
「お兄さんが来てますよ」
「その呼び方は止めて欲しいんだけど……」
そう言いながら、ファルラの横からリコリーが顔を出す。コートを羽織って荷物を抱えている姿を見て、カルナシオンが目を瞬かせた。
「どうした? まだ終業時間じゃないだろ」
「昼休みを返上したので、少し早く帰っていいと言われたんです。明日から忙しくなるからって」
「あぁ、この状況じゃ法務部も忙しいだろうな」
「いえ、監査委員会です」
思わぬ単語を聞いたカルナシオンとアリトラは、揃って驚いた顔をする。
「お前、監査部に配属されたのか? まだ新人だろ?」
「エスト刑務官の推薦だそうです」
「あぁ、だからアイツあんなこと言ってたのか。にしても凄いことだぞ。あと五年ぐらいは自慢できる」
「配属初日から、移民狩りの資料を全部読まされるとは思いませんでしたけどね。お陰でお腹空いちゃって。何か作ってもらえますか?」
「もう帰るなら、家でアタシが作るよ」
アリトラがそう言ったが、リコリーは眉を寄せて首を横に振った。
「多分このままだと、家に着く前に行き倒れになる自信がある」
「大袈裟なんだから。あ、じゃあ試作品食べる? 丁度焼くところだったの」
「マスターの珈琲以外なら何でもいいよ」
「おいこら、ホットサンドに掛けるぞ」
オーブンに入れたホットサンドが暫くして焼き上がると、生姜のスパイシーながらも爽やかな香りが店に漂った。アリトラは試作品を取り出す時にいつもやるように、天への祈りを捧げてからオーブンの扉を開く。中から取り出された試作品は、少なくとも見た目は完璧だった。
マッシュポテトとレタスを盛りつけたプレートの上に、半分に切られたホットサンドが鎮座する。中に入った鶏ハムとチーズは絶妙に絡み合って、少し外に覗いていた。
「はい、ジンジャーホットサンドとミルクティー」
「ありがとう。……ってミルクティーは組み合わせ的にどうなの?」
「いいから食べてみてよ」
片割れに促されたリコリーは、素直にホットサンドを手に取り、角から噛り付いた。
最初に訪れたのは熱された生姜の香りだった。いつもの弾力のあるパンをそのまま噛み進めると、チーズの絡んだ鶏ハムへと到達する。淡白ながらも上品な味わいのハムと、少し胡椒の効いたチーズの間に、独特の甘みが滲みだす。
「これ、お砂糖?」
「生姜のエキスで練ってみた。合わない?」
「チーズの塩加減と絶妙にマッチしてるね。甘さが引き立つけど、生姜が甘すぎないように調整してる。あ、そうなると……」
リコリーは暫く食べ進めてからミルクティーを一口飲むと、自分の予想が当たったことに満足して笑みを浮かべた。
「スパイシーなものにミルクティーって合うんだね。いつもならミルクティーの味でホットサンドが上書きされるから頼まないんだけど、これならアリだと思う」
「でしょ? カネロ・ルバ帝国では紅茶にヤギのミルクと胡椒を入れて飲むんだって。それを参考にしてみた」
「なるほどね。好きな人は嵌りそうだよ」
でも、とリコリーはマッシュポテトに目を向けた。
「これはちょっと僕の好みじゃないかも」
「あれ、そう?」
「生姜が効いてるせいかな。ホットサンド食べた後だと、ポテトの素材の味が舌に障るというか……。素朴な味わいのものを沿えると、生姜に負けちゃうのかもしれない」
「だろうなぁ。俺も止めようかと思ったんだけど」
カルナシオンが笑いながら言った。
「いつもは豚ハムだから脂っぽさが緩和されて良いんだけどな。今回のは生姜を楽しむものだから、マッシュポテトじゃ物足りないんだよ」
「じゃあそう言ってよ」
アリトラは悔しそうに口を尖らせる。それに対してカルナシオンは宥めるように手を上下に動かした。
「そういうこともあるさ。試作品の段階でわかってよかったと思え」
「何なら合うかな」
「食べて考えてみればいいじゃないか」
リコリーは残っていたホットサンドを半分にして、片割れに差し出した。素直に受け取ったアリトラは、一口頬張ってから首を傾げる。
「うーん……甘い物は合わない。ピクルスは漬け汁が染みるリスクがあるし……。マッシュポテトも悪くないんだけど、何かが足らないというか……」
悶々と悩むアリトラを横目に、リコリーは自分の分を食べ続ける。空腹によって抜け落ちた幸福を、一つ一つ埋めていくような感覚だった。
「そういえばリコリー」
カルナシオンが口を開いた。
「今日は帰れって言われたんだよな、ゼンダーさんに」
「はい。マスターの元上司なんですよね?」
「あぁ。……いや、あの人も丸くなったなぁと思ってな。昔は部下には厳しくて、俺なんかロンギークが産まれた日も残業漬けだったからな」
「……そういえば二時間で全部の情報を頭に叩き込めって言われました」
「基本的に良い人ではあるんだけどな。理想が高いから容赦ないところがあったんだよ。まぁ多少丸くなっても根本は変わらないだろうから、せいぜい頑張れよ」
気軽に言うカルナシオンに、リコリーは困ったように眉尻を下げた。
「僕にはマスターや母ちゃんみたいな素質は無いのに」
「そりゃそうだろ、別人だしな」
「そういう意味じゃなくて……」
何か言いかけたのを遮るように、店の扉についたベルが鳴る。入ってきたのは双子の友人であるライツィで、その後ろには老若男女が十名ほど続いていた。カルナシオンがそれを見て、少し間の抜けた声を出す。
「もうそんな時間か」
「商店街の会合ですか?」
リコリーの問いかけに、カルナシオンは「そうそう」と相槌のような返事を返しながらホールへと出ていく。ファルラも急いで水の準備を始めていた。
最後の一口を胃の中へ納めたリコリーは、傍らにいるアリトラを見る。
「手伝わなくていいの?」
「二人いれば大丈夫。紅茶とか頼むだけだもの、あの人たち」
「じゃあ帰ろうか」
皿とカップを片づけた二人は、カルナシオン達に声を掛けてから外へと出る。去り際にテーブルの方を振り返ると、ライツィが笑顔で手を振っていた。しかし、いつもの底抜けな明るさは無く、どこか不安を抱えているようだった。
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