9-7.テオ・ゼンダーの後悔

 左腕がいつもより重い気がして、リコリーは何度か腕を揺らした。手首には二つのバングルが、それぞれの領域を広げようとするかのようにぶつかり合い、そして音を鳴らしていた。一つは法務部の物で、もう一つは先ほど貸与されたばかりの監査委員会の物だった。

 現在、リコリーがいるのは監査委員会の事務室だった。法務部の五分の一程度の狭さで、部屋の両側には一定期間毎にまとめられた監査報告書が並んでいる。窓際に置かれた大きなデスクには、一人の男が座っていて、優雅な手つきでリコリーが持ってきた書類に目を通していた。


「……リコリー・セルバドス君」

「あ、はい!」


 急に名前を呼ばれて、リコリーは背筋を正した。書類を片手にこちらを見た男は、茶色い瞳に優しい笑みを浮かべる。少し癖のあるオレンジ色の髪には白髪一つなく、上等なヘアオイルで整えているのが遠目でもわかる。髭は綺麗に剃られていて、口元にある黒子が目立っていた。


「そう堅くならなくてもいい。監査委員会は臨時の機関だ。短い間だからこそ、仲良くやっていきたいと思っている。君は優秀な新人だと聞いているし、何よりシノ君の息子だ。期待しているよ」

「母を御存じですか?」

「私はカンティネスの上司でね。奴がシノ君とよく一緒にいたのを揶揄ったりしていたものだ。最も本人たちは全くその気がなかったようだがね」


 テオ・ゼンダーは小さく笑った後に、リコリーの右手側にあるデスクを手で示した。


「君の仕事用の机はそれだ。好きに使うと良い。一応ネームプレートを作る決まりになっているんだが……」


 再度書類に視線を落としながら、テオは言葉を続ける。


「名前は正式名がいいかな?」

「いえ、識別名は不要です。滅多に使いませんし」


 かつてフィンが王政だったころ、貴族達には名字の前に「識別名」と呼ばれるものを付けることが許されていた。それが何のために始まったかは諸説あるが、中期になると精霊を持つ者のみがそれを名乗ることを許された。今もその風習は伝統として残っており、アカデミーにいる学者の中には識別名の研究をしている者も多い。


 セルバドス家は「フォン・セルバドス」を正式な家名としており、直系は殆どがその名で戸籍を登録している。リコリーはそれが一応自分の名前であることは理解しているが、今のところは制御機関に入った時の提出書類でしか使ったことはなかった。第一にアリトラにはないものを自分だけ使うというのは、リコリーにとって非常に納得がいかないことだった。


「では、そのようにしよう。因みに私にも識別名はあるが、どちらでも結構だ。まぁ現状を考えれば、フィン人である証明に名乗るという手もあるけどね」

「……僕はここで何をすればいいですか?」

「わかっているんだろう? 移民狩りの鎮静化、その手伝いというところだよ」


 テオが再度促したため、リコリーは自分のデスクに向かい、椅子に腰を下ろした。法務部で使うものよりは高級で、まだ新しい。新参者に対して余所余所しくするのが礼儀とばかりに、椅子のクッションは硬かった。


「聖エルシャトン教会で私は現場に居合わせたにも関わらず、犯人をみすみす取り逃がしてしまった。本来なら刑務部が事件を解明すべきだろうが、彼らは「異邦の門」の対応で手が回らない。元刑務部の私が僭越ながら名乗りを上げたというわけだ。君にはその助手を務めてもらう」

「何で僕なんですか? 僕、法務部ですけど」

「適切な人材がいないか、前の部下に尋ねたら君の名前が出て来ただけだ。ヴァン・エスト。知っているだろう?」


 リコリーが頷くと、テオは「それだけだ」と話を締めた。しかし、中途半端に訪れた静寂が部屋を満たすと、決まり悪そうに眉を寄せ、数分後に再び口を開いた。


「君は移民の血が混じっているね」

「父が、移民なので」

「それで差別的な言葉や態度を浴びたことは?」

「特にありません」


 正確には何度かそういうことはあった。子供はその言葉の残酷さなど考えもせずに、ただ新しい玩具を手に入れた感覚で悪口を唱える。

 引っ込み思案なリコリーはそれに何も言い返すことが出来なかったが、片割れのアリトラは違った。「そういう下品なことを言うのは良くない」という一点だけで相手を謝らせるのが得意だった。


「小さい頃はそれなりにあったと思いますが、ある程度になると無くなりました。僕の場合は目つきの悪さで絡まれることが多かったですし」

「なるほど。最近はそんなに気にする人もいなくなっているからね。私が子供の頃は、まだ差別的な目で見る者が多かった」


 高級な木材を使ったデスクを指で叩き、テオは何処か遠い目をする。


「昔ね、私の家の向かいに女の子が住んでいたんだ。多分君と一緒で、ご両親のどちらかが移民だったのだと思う。浅黒い肌に琥珀色の髪が似合う子だったよ」

「お友達ですか?」

「どういえばいいのかな……。同い年で同じクラスだったのは確かだよ。彼女はとても頭が良かった。魔法も得意だった。私は彼女にはいつも負けっぱなしでね。試験の度に悔しい想いをしたものだ」


 懐かしむような口調とは裏腹に、その表情は苦い。リコリーは相手が何故こんな話を始めたのかわからずに、しかし静かに聞き手に徹した。


「ある日、私は得意な物魔学で酷い点数を取った。あの時はショックだったね。世界が霞んで見えたほどだ。情けない気持ちで帰り道を歩いていたら、彼女が声を掛けて来た。「試験どうだった?」と聞かれて、思わず頭に血が昇って……心無い言葉を浴びせてしまった」


 テオはその詳細は言わなかったが、今までの話からして内容を想像することは容易かった。


「彼女は泣きながら去っていったよ。そしてそれきりだ。子供だったとは言え、酷いことを言ったと思っている。今回の事は……罪滅ぼしに似ているかもしれないね。彼女は許してくれないだろうが」


 眉尻を下げてテオは笑う。リコリーはその表情を何秒か見つめた後に、首を左右に振った。


「少なくとも無意味ではないと思います」

「ありがとう。そう言ってくれると心強いよ。では早速だが、調査に入ろうと思うが……」


 是非を問うような視線を向けられたリコリーはすぐに頷いた。それを待ち構えていたかのように、テオは分厚いファイルを取り出す。制御機関で共通で使われている厚紙で出来たファイルは、中に収められた紙ではち切れそうになっていた。


「聖エルシャトン事件の概要、並びに異邦の門の基礎情報、そしてここ数週間の移民狩りに関する調書だ。二時間で叩き込みたまえ」

「に、二時間?」

「十分だろう。刑務部なら一時間でも長すぎる」


 リコリーは此処に来たことを今更後悔しつつ、それでも素直にファイルを受け取った。

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