第6話 +Millionaire[富豪]

6-1.ある富豪の死

 シトラム・ベルセは目の前に横たわる死体を見て途方に暮れていた。

 赤い絨毯の上に仰臥した体は、もう二度と動きそうにない。つい数分前まで自分に向かって罵詈雑言を浴びせていた口元は、だらしなく弛緩して涎を垂らしている。

 窓の外の曇り空のほうがまだ健康的と言えるほど、その顔色は暗く淀んでいた。


「……まずいことになった」


 そう改めて口にした途端、シトラムは大きな抑圧を感じて溜息をつく。

 殺すつもりなどなかった。若い頃から「お前はカッとなりやすい性格だから」と母親が言っていた通り、少々頭に血が上ってしまっただけだ。

 だが殺人犯として捕まるわけにはいかない。もしそんなことになれば、兄弟は大喜びするだろう。自分の「分け前」が増えることになるからだ。伯父が持つ途方もない財産の分配先は一つでも少ないほうがいい。


「第一、たった一人殺したところで、捕まるなんて馬鹿げている」


 シトラムは自分を正当化するために言葉を紡ぐ。だが足元は落ち着きなく、真っ赤な絨毯を擦り付けていた。


「どうしたって、伯父さんが死ぬことはわかりきっていたじゃないか。どこに行くにも車椅子。長年の不摂生で内臓はボロボロ。医者からは余命半年のお墨付きだ。ちょっと棺桶に入るのが早くなっても問題はないさ。伯父さんはいつも「早いに越したことはない」と言っていたし」


 強がって言いながらも脳裏をよぎるのは、逮捕される自分の姿だった。新聞の見出しは容易に想像がついていた。「ベルセ書房の後継者騒動、ついに終結か」「凶刃に倒れた哀れな被害者。列車内で起こった悲劇」。

 フィン国に十以上の店舗を展開する「ベルセ書房」は、国内では初めてカフェを併設した本屋だった。高級感あふれる内装とも相まって、富裕層や知識層に大変な人気を得た。


 元々は兄弟で始めた本屋であるが、シトラム達の父親は商売が軌道に乗った時に病に倒れてこの世を去った。弟を可愛がっていたベルセ氏は、遺児三人の面倒を見ながら商売を拡大していき、ついに先月は国外進出まで及んだが、老いた体にはそれが限界だった。


「……此処で捕まるわけにはいかない。伯父さんのために私は身を粉にして働いてきたんだ。その代償が冷たい牢獄なんて話があるか」


 シトラムは灰色の目を見開いて、室内を見回す。幸い、誰も今の犯行には気づいていないようだった。

 部屋の隅には車椅子が置かれている。シトラムが伯父へ贈るために作らせた、車輪からハンドルまで拘った特注品だった。足を置くステップが市販のものに比べて頑丈なのは、伯父が自分の脚力を忘れて、好奇心に負けて身を乗り出してしまう時のためである。


「……そうだ」


 シトラムの頭の中にあった罪悪感が変質し、一つの悪意となって芽吹く。

 自分の犯行だと気づかれないようにするには、遺体そのものを隠してしまえば良い。遺体が見つからなければ、そもそも殺人すら起きなかったことに出来る。

 

 シトラムは遺体を乗り越えて窓の方へ近寄った。窓の外には灰色の地肌を覗かせた渓谷が並び、それが左から右へと流れている。フィン国の西から東を走る特別列車は、まさか自分の車体に死体が乗っていることなど知る由もなく、順調な運行を進めていた。

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