4-5.光魔法の権威
半球状のドームは淡い光を帯びて、床を柔らかく照らしていた。明るすぎもせず、暗すぎもしない、まるで夜明け直前のような不思議な感覚を入場者に与えていた。
入口を入って正面には大きな水槽があり、その中で一匹のイルカが悠々と泳いでいた。二メートルはあろうかという大きな体と尾びれで水を掻き分けながら、巨大な水槽の中を自由に動き回っている。
水槽は円形の室内に合わせてカーブを描き、中は扇状に広がっている。北通路の熱帯魚の水槽に比べれば小さいが、一匹で使用するには十分とも言えた。
ドームの中央では、先ほど遺跡の話をしていた二人の女性とは別に、車椅子の老婆と、その車椅子を押している若い男がいた。
老婆は上品な身なりをしているが、少々険しい表情で水槽を見ていた。若い男は色々と話しかけているが、一方的な会話のようで、老婆は偶に頷いたり、短く返すだけだった。
「ねぇ、リコリー」
アリトラは泳いでいるイルカを見て、片割れに話しかける。
「透明イルカって、どういう時に透明になるの?」
「まだ解明されていないことも多いんだけど、そもそも透明化の能力は外敵から身を護るためだと言われているんだ。だから、身の危険を感じた時に、透明化魔法を使うんだよ」
「じゃあ此処だと透明にならないんじゃない? 身の危険とか無さそうだし」
素直な疑問に、リコリーも首を傾げる。
「そういえばそうだね。でも確か、狩りをする時も使うって本に書いてあったよ」
「水族館で狩りするの?」
悩む双子の後ろで、押し殺すような笑い声が聞こえた。
「透明化魔法について、理解が浅いようだね」
足音をドームに響かせて、双子の隣に初老の男が並んだ。草臥れた白いスーツを身に着け、少し派手な色のネクタイを締めている。衣類保管剤の匂いが強く、それが何年もどこかに仕舞いこまれていたことを示していた。
右目にモノクルをつけ、その奥で茶色い目が瞬きをする。
「俗に透明化と言うのは物質を無にすることではない。光の屈折率を利用しているんだ。オズベルトの法則は知っているかね?」
「魔法の可視化における、基礎理論の一つですよね。精霊瓶に精霊が入ると、個人の魔力に色がつく。それは精霊と使役者の間に魔力の反発が起きているから……という」
「その通り。まぁ基礎の基礎だから知らない方がおかしいね」
老人の言葉に、アリトラは慌てて「わからない」という単語を飲み込んだ。
「可視と反射は切っても切れない関係にある。光を故意に屈折させ、乱反射させることにより、ある物体を見えなくすることは簡単なことだ」
「透明イルカは、魔力を宙に放出して、光を屈折させている……ということですか?」
「その通り。広義的に言えば、透明化とは光魔法というわけだ。しかし今のところ自由自在に使えるのは、この透明イルカだけ。人間の魔法で出来ることと言えば、それを模倣することぐらいだ」
見てごらん、と老人は水槽を指し示した。広い水槽の中、奥の壁から小さな気泡が出て上昇していく。だがそれが何処から発生しているのか双子にはわからなかった。
「あそこには直径数センチの小さな穴があり、他の通路の水槽に設置した酸素発生魔法陣から酸素を供給している。それを簡単な光魔法により、君たちの目には見えないようにしているんだ」
「どうして?」
「中に魔法陣を描くと、ショーの邪魔になるからね」
リコリーは少し考え込んでいたが、ふと気づいたように顔を上げて、老人を見た。
「……間違っていたらすみません。貴方、ジェスト・パース博士ですか?」
「いかにも。よくわかったね」
光魔法の権威である研究者は、くすんだ歯を見せて笑う。
「招待客は僕たちを含めて五組。貴方は招待客ではなさそうですし、それに光魔法に詳しい。単なる消去法です」
「長らく自分の研究室に籠っていたんだけどね。面白そうな話だから乗ってみたのさ。久しぶりにスーツなんて着たから、ほら。ズボンがずりおちないようにするのに一苦労だよ」
ジャケットをめくって、サイズの合わないズボンと、それを締め付けるベルトを見せた老人に、双子は少し呆気に取られる。ベルトは金色の糸で模様の縫い込まれた豪奢なもので、結婚式などで使われる装飾品の一つだった。
「それ、結婚式のじゃ……」
「スーツもベルトも、妻と共になった時に仕立てたものだ。他にスーツを着る機会もないからな」
老人は当然のように言い切る。研究者には変わり者が多いが、ジェストも間違いなくその部類のようだった。
「博士はアカデミーのご出身ですよね。ご自身の研究所をお持ちと聞きました」
「あぁ、そうだよ。アカデミーには変わった奴が多くてね、色々と揉め事が多かったんだ。出世争いにも敗れて、いい加減飽き飽きしていたから、十年ほど前に辞めたよ」
「専門は光魔法なんですよね? 得意な魔法も?」
「魔法は……」
ジェストは悪戯っぽく微笑んだ。
「魔法は苦手なんだよ、坊や。光魔法が苦手でね。それで研究者になったんだ」
ほら、と皺だらけの手が精霊瓶を二人に見えるように掲げる。中の魔力はリコリーの半分ほどしかなかった。
「まぁお陰で光魔法だけは出来るようになったよ。あと魔法の理論だけは得意だからね」
老人はそこでふと、我に返ったように懐中時計を上着の内ポケットから取り出した。
「もうこんな時間か。ショーの準備をするので失礼するよ」
「どんなショーなの?」
興味津々で尋ねるアリトラに、ジェストは不器用なウインクを返した。
見た目よりも機敏な動作で、老人は双子の後ろにあるドアを開けて、中の小部屋へと姿を消した。それとほぼ同時に長身の男が入ってくる。その男は双子が入口付近ですれ違った人物で、ドームに入るなり水槽へと直行した。
よほど急いでいたのか、途中で足をもつれさせてバランスを崩す。脇に抱えていたスケッチブックが床に落ちて、中に挟んでいた物が辺りに散らばった。
「おっと」
車椅子を押していた若い男が、咄嗟にしゃがみ込んでそれらを集める。落ちたのはスケッチブックに挟んであったデッサン画で、まだ色はついていない。
「も、申し訳ない」
背の高い男は小さなくぐもった声で言いながら、若い男の方に近づく。
だが若い男はそれをすぐに返そうとはせず、描かれているものを見て「へぇ」と感心したような声を出した。
「これはすごいですよ、伯母様。さっきのペンギンの水槽の絵です。タコが展示してあった場所もある」
「絵描きかい」
老婆は一瞥もくれず、かといって不機嫌な様子もなく呟いた。
「道理で木炭くさいと思ったよ」
「伯母様は相変わらずですねぇ。うーん、でも中の生き物は描いていないんですね。後で描くんですか?」
画家らしい男は口ごもりながら、デッサン画を受け取ろうとする。若い男はそれを察せずにあれこれと質問を重ねていたが、老婆が面倒そうに口を挟んだ。
「ジョルジュ。いい加減におし。人様のものをいつまでも握りしめてるなんて卑しいよ」
「あ、すみません。気付かなくて」
漸く質問攻めから解放された画家は、水槽の前まで移動した。床に座り込んでしまうと、スケッチブックに鉛筆を走らせ始める。その手つきは非常に早く、瞬く間に水槽の中の珊瑚や岩が描かれていった。
「ここの水槽は案外普通なんだねぇ」
「そうね。さっきの熱帯魚のエリアみたいに凝っていると思ったんだけど」
遺跡の水槽の前で会った女性二人が、声を上げて話し始める。
「透明イルカの生態に気を使ったのかしら? これじゃあまりに普通だわ」
「そうかもねぇ。だっていまだに謎が多い動物らしいし。ドームは綺麗な半球状だけど、布の貼り方も単調だしぃ」
ゆったりとした口調の女が天井を見上げて首を傾けた。
「丸いのよりは四角いほうがいいかなぁ」
「でも丸いほうが音の反響はいいわよ。角があると、どうしても音が尖るもの
「そうかなぁ?」
最後に、熱帯魚の水槽の前で出会った恰幅の良い男が、いかにも気が進まない様子で入ってきた。イルカ自体に興味がないのか、手にしたパンフレットを丸めたり広げたりすることを繰り返す。水槽を一瞥しただけで、あとは入口に近い壁に寄り掛かって、殆ど身動きすら取らなかった。
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