3-15

 四月一日、ひとあし先にさおりが鈴木商事に入社した。入社式の壇上には社長クリスタルが現れ、流暢な日本語を駆使して挨拶をしたそうだ。まるで映画に出てきそうな碧眼の若き新社長が、身振りも伴って熱くビジョンを語る姿に、新社員特に女子社員は感動した───続いて副社長の鈴木征功すなわちモーリオンがその買春図体を揺らして現れたときには、ブーイングが飛んだほどだという。


 当面さおりは社内で研修だが、さっそく研修仲間との間で、新社長の玉の輿にいかにして乗るかという会話がかまびすしく花咲いたらしい―――やだやだ、OLってのは。


 夕食のちゃぶ台で、そういった細々を身振り手振り交えて語る彼女を前にしては、つけっぱなしにしているテレビの中で、とちりつっかえニュースを垂れ流している新顔の女子アナがいかにも所在ない。


 「いやあのねあたしゃアイツはうちゅーじんのあくとーだって言いたくって言いたくってしかたなかったんだってもぅこれがっさぁ! ヒミツのサイボーグってたいへんよぅホント!」鈴木商事の本社ビルは新宿にあった。ゆきのにとっての学校ほどのインパクトはないにせよ、さおりも都心ど真ん中に出ること自体が久しぶりで、相当刺激があったらしい。えびす顔で帰ってきた彼女の舌は、いつにもまして滑らかだった。


 「ロウシールドが働いて、言いたくても言えないと思いますよ」ゆきのが言った。


 「うっさいな」遮られてもさおりは話をやめなかった。「社長室ってのがまたスンゴイらしーのー、見たことないけどー。ビルのてっぺんでさぁ、ジジィ(モーリオンは社内でもそう呼ばれているらしい)のシュミでもーなんかマジでソレ系のインテリアとかあるんだって、シカの角とかトラの皮とかー」


 聞けば聞くほどデマっぽい。しかしなるほど、情報を無秩序に集めてくるという意味ではさおりは実に適任だ。ただ、この大騒ぎを食事中にやるのはあまり賢明でないと思う。口角泡といっしょに食いカスまで飛ばしてさおりは意に介さない。


 「さおりお姉ちゃん、汚い! 食べるか話すかどっちかにしてよ!」


 「あー、ごめんごめん」


 ここでさおりが少し声を潜めたのは、素直にゴメンと思ったのではなく、続く話が大声ではやりにくいものだったからだ。「でもさ、誰かが言ってた。ジジィって、クリスタルの秘書の女とデキてるって」


 「秘書?」


 「美人らしいけどよくわかんない。いっつもクリスタルといっしょで、そんでなんか、日本で買収の話進めたのはほとんどその秘書だったんだって。ジジィが買収OKしたのは、その秘書に丸め込まれたからだって」おぉ、さおりが初めて一センテンス漢字五個を超えるセリフをしゃべった、なんてそんなことに驚いている場合じゃない。クリスタルといつもいっしょの、女性って。


 「なんか鈴木社長って? 今までそういう買収とか提携とかのハナシずーっと蹴ってて? あの会社、別にツブれかかってるわけじゃないし? それが急にクリスタルにはおっけーってなったワケ。カネとかセイジ? カンケーないらしくって」さおりが声を潜めた理由はココにあった。


 「え、じゃ、カラダ?」あたしも小声で応じてみる。


 「よねぇ、やっぱし」


 「カラダ? ……何の話?」めぐみがきょとんとしている。ウブだなぁ、この子。


 「その秘書って、アメジストじゃないんですか」ゆきのが話の深入りをすばやく遮った。


 「アメジストって、なん……」だっけ、というのをさおりは飲み込んで、ちょっと不機嫌な顔になった。さすがの鳥頭も忘れようがなかったようだ。「……アイツかな、アイツかもしんない。まだ会ったことないけど、いちおー顔見るくらいはしとく」


 「もしそうだとすると」ゆきのが言った。「クリスタルの降下前に、アメジストが事前にしていた準備って、つまりこの企業買収のことだったんですね」


 「てことは、アメジストとモーリオンが交渉して話をまとめたわけ? あのふたり、もンのすごく仲悪そうに見えたけどな?」


 めぐみの葬式の一戦で得た印象は、モーリオンが自己の理屈でしか動かない旧態依然とした頑固者、いわゆる創業者気質というヤツで、対するアメジストは感情を排して合理性を追求する、日本の風土におよそ合わないビジネス優先型だ。


 企業の売買が、若輩のあたしが理解できる力学で成立するとも思わないが、成立するしない以前にこのふたりが顔つき合わせて交渉するって光景が想像できない。じゃあ、股をつき合わせるのか? いや、想像できないって以上に、そんなこと考えてる自分が情けなくなるからやめよう。


 金や政治を超えた何か、と言われて、男女関係、とくる発想の方が浅薄に過ぎるんだろうが、あたしもさおりも想像力ってなそんなもんだ。


 「ジジーって、結婚してないんだって。シゴト一筋とかいって、ずーっと独身だって。愛人は囲ってるってハナシ、のめりこむほどじゃないみたいだけど。でも、その秘書にはホネヌキにされたとかナントカ」


 その境遇ミタイナモノを聞いていると、なんだかイヤな気分になった。企業の売買というレベルの話の過程で、アメジストに「癒された」とか、そういう表現がほいっと出てきそうな気がした。冗談だろ、いずれ奴とはまたどつき合い罵り合いをするんだぜ?


 そのとき、「ひっ!」と悲鳴が挙がった。めぐみの手から箸がぽろりと落ちていた。


 彼女は話に加われなくてテレビの方を向いていた。何事かと見ると、つけっぱなしでニュースを流していたスクリーン、アップになっていた女子アナの顔が、サンフラワーのヒマワリ顔にいきなり切り替わっていた。「それは気になる情報ですねぇ。……おや、めぐみさん、どうしました?」


 ゆきのがめぐみの顔の前で手をさっさっと振ったが、「ふえぇん」めぐみはわなわなと震えっぱなしで泣きそうな顔のまま、反応できないでいた。


 まったくこの男は! どうしました?、じゃねぇだろ。「ヒマワリ、おまえはまずその唐突な登場のしかたをやめろ」あたしは箸を突きつけて言った。「そのヒマワリ顔は害悪だ。労働環境を著しく悪化する。断固抗議する」


 「そのちゃぶ台の何が労働環境ですか。だいたい、あなた方に労働者の権利なんて認めませんよ、却下です」


 「ていうかさぁ、今のハナシ、聞いてたの?」さおりが不思議そうに言った。


 「聞いてましたよ?」サンフラワーはいけしゃあしゃあと言った。


 「どーやって?」


 「リビングは二四時間モニタリングしてますよ、当然? そうでなきゃみなさんの呼び出しに答えられないでしょう」


 「えーっ」さおりが驚いた。「ノゾキじゃん、そんなん! プライバシーの侵害だァ、ウッタエテヤル」こういう言葉だけは知っている。


 「だから、そんな権利はあなた方にはないんですったら」


 この男の覗き趣味は今に始まったことではない。覗きではなくて業務の一環だってんだからタチが悪い。くそ、あたしたちはやっぱモノなのか!


 「プライベートルームは監視してませんよ。安心してください」


 「信用できんっ」さおりが指を突きつけた。


 と、めぐみの意識回復をあきらめたゆきのが、ひとつため息をつくと、やおら味噌汁の椀を持ち上げてひとくちすすり上げた。それからいつも以上にバカ丁寧に言った。


 「ヒマさん。オオタカは、人間が観察しようとして巣の一五〇メートル以内に近づくと、営巣を放棄して逃げ出すと申します。もう少し繊細に扱っていただきませんと、壊れても知りませんよ」


 「そういうもんですかねぇ」


 「そうです」


 「僕は僕なりに気を遣っているんですが」


 画面の中のサンフラワーはぽりぽりと頭を掻いた。


 そりゃまぁ、対象のプライバシーを考えない場合、最も確実に管理したけりゃ四六時中監視するに越したことはない。さっさと飛んで逃げちゃえるオオタカがうらやましくもなる(いや、オオタカにとっちゃそういう問題じゃないだろうが)。


 みんなそれを理解したとみえて、各々はぁっと大きくため息をついた。


 それから、ゆきのが顔を上げて言った。


 「それより、何が気になりますか? クリスタルが鈴木商事を乗っ取った事実は、もうわかっていたことじゃないですか。だったら、アメジストがいても別におかしくは……」


 「いいえ、気になるのはそこじゃないんです、モーリオンのことです。……まぁ現段階では推測でしかないんで、わかった段階でいずれお話ししますよ。


 ともかくさおりさん、情報ありがとうございます。やはりさおりさんを鈴木商事に送り込んだのは正解だったようですね。今後もその調子で夕飯時にしゃべっていていただければ、僕が勝手にこっちでモニタしてますんで」


 「めっちゃしゃべりにくくなってんだけど?」さおりが言うのは当然のことで、誰かにこっそり聞かれてると知ってて陰口を叩けるほど器用な性格をしている人間は、あまりいないと思う。まったく、サンフラワーは機微もプライバシーも知ったこっちゃないな!


 「ヒマワリ」あたしはふっと思いついて尋ねた。


 「なんです?」


 「おまえがやってる地球人相応の知的労働ってさ、あたしらの部屋に監視カメラつけてエロサイトに流してんじゃないだろうな?」


 サンフラワーはぽんと手を叩いた。


 「思いつきませんでした。そりゃ、楽だ」


 ゆきのとさおりにじろりとにらまれた。ようやく意識を取り戻しためぐみは蚊帳の外で、不穏な空気に目をぱちぱちさせた。


 ……あたし、要らぬ知恵をつけちまったか?




 あたしたちが籠の中の鳥であるという事実は変わらない。でも、とても広い籠なのかもしれなかった。


 生きている頃、たとえば親に、校則に、世間に閉じ込められて、息苦しくなって、逃げ出したくなるような感覚をよく味わった。でもそれは、籠などではないのだと、自分自身を自分自身の勝手なプライドで閉じこめているのだと、誰かに言われたことがある。


 そういう窮屈な感覚は、ここにはない。ならあたしはプライドを失ったのか? そんなことはない。あの頃あたしを取り囲んでいた籠は、紛れもなく世間様という曖昧で煙たい束縛だった。そして今あたしたちを囲むのはロウシールドという新しい籠で、今までの籠はロウシールド越しに見るいくつもの景色に過ぎなくなった。


 親や校則に盲従する奴らと、今のあたしは、同格なのか? ローズフォースであることを受け入れたら、そうなってしまうのだろうか?


 そもそも───世間様というのは、狭いから・・・・窮屈だったのか?


 あたしたちが籠の中の鳥であるという事実は変わらない。ロウシールドという、永遠に出られない籠にいるのだから。サンフラワーは、逃れられないことを意識しなくてすむように、いろいろ取りはからってくれた。それには感謝しなくてはいけない。逃亡など考えなくてすむ、窮屈に感じない籠ならば、小鳥はそこが自由な森だと思っていつまでもさえずり続けるだろう。


 今まであたしが窮屈だと思っていた籠には、「逃れられないことを意識させるシステム」が、誰にもわからない場所にあったに違いない。


 クリスタルはあたしたちを生きた人間に戻せると言った───それは、ただ籠を新たに移動するだけなのかもしれない、と漠然と思った。そして、クリスタルの用意している籠が、どんな大きさで、どんな感覚を味わうものなのか、あたしにはまだよくわかっていなかった。




 そして四月五日、桜が満開のよく晴れた朝に、めぐみは始業式、ゆきのは入学式を迎えた。

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