月が満ちて、欠けるまで - ファンタジー(月、カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ 『月を眺める二人の男』)

 片田舎の外れにある一軒家、私は久方ぶりにその家を訪れた。

 きっかけは、その家の主——ドミニク・グロール——からの 1通の手紙だった。


『親愛なるクラウス・ローラン

 久しぶり。何年ぶりだろうか。確か、こっちに引っ越したとき、いや、確かそれからもう一度来てくれたっけ。えっと、5年といったところか。

 その話は置いておいて、今日はキミに頼みがあって、この手紙を書いている。もうすぐ、僕の最後の絵が描きあがるんだが、それをキミに見届けてもらいたい。あの時、あの月を一緒に見たキミに。

 どうか、古い友人の最後の願いだと思って、叶えてはもらえないだろうか。

 幸福を祈る。

 ドミニク・グロール』


 扉の前で、改めて手紙を読み直す。友人に久しぶりに出す手紙にしては短すぎる、用件のみのそれは、彼らしいといえば、彼らしい。

 そして、その手紙は私をここへ呼ぶという役目を、きちんと果たした。

 たたんで封筒に戻し、内ポケットに入れる。深呼吸をして、ノッカーを鳴らした。


「はーい。すみません、少し待ってもらえますか」

 中から、彼の声が返ってきて、ドタバタと走る音が聞こえる。ほどなくして、足音がこちらへ近づき、扉が開いた。

 ちょうど絵を描いていたところだったのだろう、姿を見せたドミニクは、絵の具で汚れていた。顔も、着ているものも。手だけは洗ってきたようだったが。


「クラウスっ。来てくれたんだ、ありがとう」

 両腕を大きく広げ、抱擁を待つ彼に、たじろぐ私。その様子に、彼も悟ったようだった。

「ああ、すまない。これではキミを汚してしまうね。まあ、入ってよ」

 招かれたその家は、お世辞にも美しいとは言えなかった。どうにか生活を維持できる余地を残して、散らかり放題だった。たしか、奥方にも愛想を尽かされたと聞いた。


 散らかり放題の室内で、圧倒的な存在感でその絵はあった。イーゼルに立てかけられたその絵は、私には完成しているようにも見えた。

 星が輝く夜、一人欄干に身を寄せ、川を見つめる老人の絵だった。

「これがその絵か?」

 尋ねながら、何か見落としているような、そんな感覚があった。

「ああ、間に合ってよかった。もうすぐ完成するから」

 違和感の原因が分かった。その絵には月がなかった。あの日から、魔法にでもかけられたかのように、月の絵ばかり描いていた彼だというのに。

「月は、これから描くのか?」

「いや。これは最後の絵だから、これでいいんだ」



 あの日、私とドミニクは仕事である村へ向かっていた。それほど遠い村ではない。明るい間に村に辿り着き、一泊し、翌日に用事を済ませる予定だった。

 ところが、森の中を移動中に、馬車の車輪が外れて、転倒した。悪いことは重なり、馬にも逃げられてしまった。


 仕方なく、徒歩で向かうことにした私達だったが、慣れない道に、木の根などの障害物、そもそも徒歩の準備ではない格好と、予想以上に時間が掛かり、疲れていた。

 せめて、太陽がでている間に森を抜けようと頑張ったが、じわりじわりと暗闇が迫ってくる。

 どうにか森を抜けたとき、太陽はすっかり沈み、空はわずかに赤味を残すばかりだった。


 そんな中、私達を救ったのは、淡い月の光だった。

 強烈な太陽の明かりが無くなり、ようやく輝きだした、細い細い三日月。今にも沈みそうなその月が、かすかな建物の影を私に見せてくれた。

「ドミニク、見ろ。建物だ! 村はすぐそこだぞ!」

 私は歓喜の声を上げ、隣にいた彼の背中を叩いていた。


 そして、予定よりもずいぶんと遅くはなったものの、私達は無事に目的の村へ着くことができた。

 私にとっては、苦労した話の一つではあるが、それだけのことだった。

 しかし、ドミニクにとっては、そうではなかったようだった。


 あの日から彼は、絵を描き始めた。月の魔法にでもかけられたのか、必ず月のある風景だった。

 最初は仕事をしながら、余裕を見つけては描いていた。それが仕事を辞め、町では生活に金がかかるからと、家を売り払い田舎に引っ越した。


 展覧会に出すわけでもなく、彼の絵を知る者は、私のようなわずかな人間だけだ。

 絵を買うという者もいなければ——いたとしても彼が絵を売ったとは思えないが——、パトロンもいない。

 仕事をしていたときに貯めた金と、家を売った金で彼は生活をしていた。


 奥方も大変だっただろう。勝手に仕事を辞め、金にならない絵に没頭する夫というものは。

 彼女が、お針子の仕事をして、生活費を得ていたとも聞いた。そして、ついに愛想を尽かして、出て行ってしまった。

 その話を聞いて、どんなものかと様子を見に来たのが、5年前だ。



「これで完成だ」

 最後の一筆を入れる。彼の希望通り、絵が完成するのを私が見届けたわけだが、私には、完成していないと言った先ほどと、完成した今と、どのように違うのかよくわからなかった。


「そういえば、他の絵はどうしたんだ?」

 今日はここで寝てくれと案内された部屋にも、ダイニングにも、彼の絵は見当たらなかった。

「それなら、屋根裏部屋さ。本当は、この絵も並べて見せたいところだけど、乾くまで動かせないからな、仕方ない」


 こっちだと、灯りを持ったドミニクに続いて、屋根裏部屋へと登る。そこは、下の生活空間とは全く違い、綺麗にされていた。

 ずらりと並べられた絵は、何枚あるだろうか。

 見渡して、ようやく気付いた。


 私達があの時見たくらいの細い月の絵には、赤ん坊。徐々に月が太り、それに合わせて一緒に描かれている人も成長している。

 満月の絵には、手を取り合う恋人。それから月は徐々に細り、人は歳を重ねていく。

 一枚一枚が独立した絵のようで、繋がっていたわけだ。全てで一つの作品だから、その一部を切り離すことはできなかった。

 そして、今日完成したあの絵が、最後。


「下の絵は、新月なんだな」

「ああ、最初なのか最後なのか。僕は、最後に消えるのだと思う。けれどきっと、本当は最初で最後なんだろう。全部、繋がって、繰り返しているんだ」

 彼の描いた絵は、人の一生と月の満ち欠けを重ね合わせているようで、一緒に描かれている人物は異なっていた。

 だから、全部繋がっているのだろう。誰の人生も繋がる。


「クラウス、この絵をキミに託したい。あの時、一緒にあの月を見たキミに」

 ドミニクの表情は、いつになく真剣に見えた。絵を描いているときはもちろん真剣なのだが、それ以上に。

 その目で見つめられて、断れるはずもなかった。

「わかった。ただ、どうしてなんだ? あの時の月は、確かに神の導きのように思えた。けれど、私にとってはそれだけなんだ」

「僕にもよくわからない。でも、あの時描かなくちゃいけないと思ってしまったんだ。何を置いても完成させなければ、と。それにキミはこうして来てくれたし、ちゃんと気付いてくれたから」


 それから私達は、完成を祝って、軽く祝杯をあげた。

 何も準備をしていなかったことも理由だが、あの散らかったダイニングではこれ以上は無理だった。

 大げさなことはいらないと彼は言ったが、それでも私が何か祝いたかったのだ。

 ほろ酔いで床につき、そして、彼が再び起きることはなかった。


 翌日、昼になっても起きてこない彼を起こしにいって——絵の完成にずいぶんと根を詰めていたのだろうと、早く起こすのは忍びなかった——、再び目覚めることはない事実に呆然とした。

 一連の絵を完成させ、ドミニク・グロールはその生涯をとじた。

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