第65話 どこでも、どこまでも

 絶好の洗濯日和、という予報を無視して降り出した雨は、あっという間に土砂降りへと転じた。

 雨粒の大きさから危険性を察知し、咄嗟とっさに喫茶店へと避難した己の判断力を褒めたい。

 そんな自画自賛をしつつ、広い窓に面したカウンター席から慌しい街の様子を眺める。

 傘の準備のない人々が揃って顔をしかめ、左へ右へ小走りで消えていく。

 店の自動ドアも、雨宿り目的の客によって結構なペースで開閉していた。


 普段はあまり使わないチェーン店だが、その理由はただ一つ。

 肝心のコーヒーが、フザケてんのかってくらい不味いから。

 最大のセールスポイントは安さだろうから、誰も味など気にしていないのだろうが。

 そんなことより気になるのは、隣の椅子に置かれた革製の鞄だ。

 色褪いろあせたようなボンヤリした赤色と、細かく波打ってヒビ割れも目立つ状態の悪さが、絶妙な貧乏臭さを醸し出している。


 レトロ趣味にしても、持ち歩くのはちょっとどうかと思うコンディションだ。

 その右隣では鞄の持ち主らしい女性客が、ノートパソコンのキーを叩いている。

 三十は超えていない様子だが、明るすぎる髪色やラフすぎる服装のせいで年齢不詳。

 あまりジロジロ観察するのもトラブルの元だな、と考えて視線をズラしている最中、何かが動いているのが見えた。


 何かって、何だよ。

 首の動きを止めて、確認する。

 椅子の背に立てかけて斜めに置かれた赤い鞄、その表面のアチコチがせわしなくむにむにと上下していた。

 狭い場所に潜り込んだ猫が焦ってもがいている、そんな雰囲気に近い生物的な動きだ。


 数秒か十数秒それを見つめていると、鞄の動きはピタリと止まった。

 再び視線を二つ隣の女に戻すが、気付いていないのか気にしていないのか、さっきと変わらない姿勢でモニターを睨んでいる。

 こいつ、鞄に一体どんなモノを入れてるんだ――窓の外では雨がますます激しくなっているが、そんなことはどうでもいい感じになってきた。


 スマホを眺めるフリをしつつ、横目で鞄を観察する。

 緊張しつつ何かが起きるのを待つが、数分経っても変化は現れない。

 錯覚だった、で片付けるには余りにハッキリ見てしまったのだが。

 納得いかなさを吐き出したくて「フウッ」と強めに息を吐く。

 すると、それに合わせたかのように「シーッ」と歯の間から強く息を吐いたような音が聞こえた。


 その音と一緒に、ダメになった糠漬ぬかづけみたいな強いニオイが広がり、一瞬で消える。

 出所でどころはやはり、あの赤い鞄だ。

 猫や犬じゃない、珍獣の類でも連れてきているのだろうか。

 もしそうなら鞄なんかじゃなく、ケージに入れて運びそうなものなのだが。

 

 持ち主に直接訊いてみる手もあるが、相手はイヤホンをしているしヴィジュアル的にも変わり者っぽいので、思わぬトラブルに発展する危険がある。

 そんなことを考えていると、どうにも落ち着かなくなってきた。

 いっそ席を替えたいが、雨宿り目的の客で混み合っていて難しそうだ。

 トイレに行きがてら店内を半周してみたが、移れそうな場所は見つからない。


「がのっ――」


 仕方なく席に戻って座ろうとした直前、思わず変な声が出てしまった。

 例の鞄が開けられていて、中から人形――の成れの果てが顔を出していた。

 元は着せ替え人形だったと思しきそれは、髪の大部分が引き抜かれ顔面全体が修正液か何かで白く塗りつぶされる、異様なカスタマイズをされていた。


 近くの席にいる痩せた爺さんが、新聞を畳みながら怪訝けげんそうにコチラを見てくる。

 軽く会釈して席に座り、改めて鞄から出ている物体の様子を伺う。

 見ていると猛スピードで不安になってきて、あからさまにヤバい。

 この人形自体も不気味なのだが、それよりもこんなのを鞄に入れて持ち歩こうとする、その行為に絶大なヤバみを感じる。


 鞄から目を逸らし、意識を窓に流れる水滴へと集中させる。

 この雨が止んだら、いやもう少し雨脚が弱まったなら、すぐに出て行こう。

 それにしても、マジで何なんだあの人形。

 もしかして、さっき鞄が動いてたのは中でアレが――いやいや、そんな馬鹿な。

 想像も嫌な方向に傾いて、落ち着かなさはより一層悪化していく。

 

「んーっ」


 急に右から唸り声がして、弾かれるようにそちらに目を向ける。

 だが今回はあの鞄からではなく、二つ隣の女性客が発したものだった。

 薄く笑いながら、指を組んだ手を返して前方へグイッと伸ばしている。

 普通に考えれば、パソコンでの作業を一段落させて肩や背中の凝りをほぐそうとしている動きだが、人形のことがあるのでどうしても不安が募る。


 女性客はイヤホンを外し、首を左右にゆっくりと傾ける。

 それから足元の荷物カゴに入っていたリュックを持ち上げると、中から文庫サイズの手帳を取り出した。

 

「……ぅん?」


 予想外の動作を見せられ、再び変な声を漏らすハメになった。

 こちらの珍妙な反応に気付いた女性客は、「何ですか」と言いたげだが何も言わず、露骨に警戒した表情を向けてくる。

 不審者ムーブにならないよう、落ち着いた雰囲気を演出しつつ赤い鞄を指差す。

 

「それ、アンタのじゃないの?」


 そう訊いてみるが、女性客は鞄をチラ見した後で、本気でイヤそうに顔をしかめて首を振る。

 となると、これは誰かの忘れ物ってことなのだろうか。

 モノがモノだけに、忘れたフリで捨てていったという線もありそうだが。

 それはそうと、また人形が姿を消している――誰も触っていないというのに。


 さて、どうしたらいいんだろうか、これ。

 忘れ物として店員に届けるにしても、そこはかとない触りたくなさがある。

 女性客はこちらに半分背を向ける姿勢で、手帳に何かを書き込んでいる。

 やはり隣の鞄から、何か普通ではない気配を感じ取っているのだろうか。


 あれこれと思いを巡らせつつ鞄を見つめていると、顔の下半分に鋭い痛みが走る。

 冷たいものを飲んだ瞬間、何本もの虫歯が同時に反応してしまったみたい激痛で喚き散らしかけ、口を強く押さえる。

 何だこれ、何だこれ――混乱した頭の中に、直接書き込まれたように言葉が浮かぶ。


『むかえにくるから』


 むかえにくる。

 迎えに来る、って?

 誰が、何を――


『ここにいてね』


 お願いしている文面だが、命令のニュアンスが濃く滲んでいる。

 フワッ、と背中と腰から力が抜けていく感覚があった。

 どういうことが起ころうとしているのか、よくわからないが一つだけ確信がある。

 ここにいたらダメだ、絶対に。


 スマホをポケットに突っ込むと、そのまま席を立つ。

 本当ならばトレイを返却するべきだが、そんな余裕などありはしない。

 何度も人やテーブルにぶつかりながら、可能な限りの速度で店外へと飛び出す。

 まだ土砂降りは続いているが、とにかくこの場から離れなければ。


 説明のつかない焦燥感に衝き動かされ、すぐさま全身がびしょ濡れになるのも構わず、喫茶店に背を向けて駆け出す寸前の早足で歩く。

 五十メートルほど進むと、背後からデタラメな騒音が響き渡った。

 金属音と衝突音と落下音と破砕音に悲鳴がミックスされた、けたたましい何事か。


 反射的に振り返れば、二トントラックの荷台部分が見える。

 歩道に乗り上げた車体の前方は、ガラスを叩き割って店内へと飛び込んでいた。

 直撃されているのは、数分前まで自分のいた窓際のカウンター席だ。

 女性客のことを思い出し、戻ろうとか動きかける。

 しかし、戻ったところで何もできない、と思い直してきびすを返した。


 荒い呼吸が収まらず、口の中が乾いてパサつく。

 心臓が冗談みたいにバクバクいっている。

 直感に従って、あの場を離れておいて良かった――助かった。

 もう一度雨宿りしたいが、このウェット感で飲食店に入るのははばかられる。

 なので、雑居ビルの入り口付近に潜り込んで、降り方が落ち着くのを待つことにした。


「ふっ、はぁああぁ……」


 溜め込んでいた変な緊張感を追い出すように、長くて重たい溜息を吐く。

 ビルの前を行き過ぎる通行人の「何か事故だって」「マジかよ、どこで」という会話の断片が聞こえた。

 この三十分ほどで発生した物事に対して、現実感がとことんまでに薄い。

 喫茶店に突っ込んだ車と、あの人形との因果関係はどうなっているんだろう。

 そして、頭の中に浮かんだ言葉の意味は――


『ここでもいいよ』


 えっ?


 三度目に浮かんだ言葉の意味を理解する前に、至近距離で圧力を伴う気配が膨らんだ。

 そちらに顔を向けると、白っぽい照明に照らされた、見覚えのある鞄が転がっている。

 ひび割れた赤い革の表面は、そこかしこがむにむにとうごめいていた。

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