第32話 効いてる効いてる

 久々に遊びに行ったサークルの先輩のアパートは、何ともいえない余所余所よそよそしさを漂わせていた。

 1Kの部屋に広がっているのは、相変わらずワザとやってんのかって程に雑然とした、男の一人暮らしに特有の見慣れた光景だ。

 けれど、確実に数ヶ月前とは雰囲気が変わっている、というか変わり果てている。


「適当に座っててくれ。飲み物でも用意すっから」


 先輩を待ちながら落ち着かない気分で六畳間を見回していると、らしくなく片付けられた部屋の隅に、直径が二十センチくらいの丼が置かれている。

 どうしてこんなトコに――と覗き込んでみると、カキ氷が溶けかけたような状態の半透明な何かが、容器の七分目くらいまでを満たしていた。

 何だこれ、と首を傾げていると先輩がキッチンから戻ってくる。


「おう、プーアル茶でいいか」

「いやまぁ、何茶でもいいんですけど……先輩、これって?」

「ああ、それか」

 

 丼を指差しながら訊いてみると、先輩は忌々しげに眉間に皺を寄せる。

 二つのグラスとお茶の入ったボトルをテーブルに置いた先輩は、それを拾い上げると再びキッチンへと向かう。

 水を流す音や戸棚を開閉する音の後、器に白い粉を山盛りにした先輩が戻ってきて、元あった場所に丼を置いた。


「で、何なんです、それ?」

「塩だよ、塩」

「塩? じゃあ、さっきのは塩水ですか」

「つうか、塩が水になったモンだ」


 塩が固まるってのはわかるが、溶けるってのはどういうことだ。

 そんな困惑を察したのか、先輩はグラスに茶を注ぎながら言う。


「ホラあの、盛り塩ってあるだろ」

「はぁ、飲み屋の入口脇にあったりする」

「じゃなくてさ。御清めとか御祓いとか、そういうタイプの」

「ああ、ありますね……って、そんなのが必要な事態になってんですか。何してくれてんですか、先輩」


 笑って聞き返すと、先輩は苦笑いに失敗したような、いびつな表情を浮かべる。

 あ、これはもしかしてマジなやつかな、と気付いて笑顔を引っ込めておく。

 先輩はグラスの中身を一気にすと、デカい溜息を吐いてから口を開いた。


「学校のそばにある、風車堂ふうしゃどうってわかるか」

「あの、服を何枚も着せられた地蔵が並んでて、風車かざぐるまがやたら大量に供えてあるとこ、ですか?」

「それ。一ヶ月くらい前、お前がバイトがあるとかで来なかった飲み会で……いや、俺は何か知らんけどスゲー酔っ払ってたから、全然憶えてないんだけど」


 そこで話を切った先輩は、また溜息を吐いた。

 それから雑な動作でお茶を注ぎ、それを半分ほど飲んでから言う。


「そん時に一緒だった奴らが言うには、飲んだ帰りに風車堂の前を通った時に、俺がありえないレベルで滅茶苦茶なことをやらかした……らしい」

「お地蔵さんの首、片っ端から掌底で叩き折りましたか」

「そこまで破天荒じゃねえ! ……けどまぁ、後になって聞かされた俺がドン引きするような諸々だ。供え物の菓子を潰して地蔵の顔に塗りたくったり、風車をまとめて引っこ抜いて近くのドブ川にブン投げたり、まぁ色々だ」


 酒が入ってたとはいえ馬鹿ですかアンタは、と吐き棄てたくなるのを我慢して曖昧に頷くと、そんな感情が伝わったのか先輩は言い訳がましく応じる。


「いや、俺も他人事だったら全力でツッコミ入れるけどさ。第一、反省しようにも記憶がねぇし……とにかく、それから何かと妙なんだよ、家の中が」

「不自然に体調を崩したり、変なものを見たりするような、そういうアレですか」

「いやそんな、わかりやすい現象じゃなくてさ……何つうかこう、漠然と妙なんだ」


 その表現自体が漠然としていて、どうにもシックリこない。

 自分でもどう説明したものだか悩んでいる様子で、先輩は身の回りで起きていることをポツポツと語った。


「最初にこりゃ変だろ、と思ったのはニオイだ。ふとした瞬間にな、そんなタイミングでするハズのないニオイがする。酢飯をコンソメで煮込んだ感じだったり、キャラメルポップコーンに消毒液をかけたみたいだったり、腋臭わきがと焦げ臭さを混ぜたっぽかったりの、毎回違ってるニオイが」

「はぁ……最初、ってことは他にも?」


 訊いてみると、先輩は硬い表情で頷く。


「他に気になったのは音だな。変な物音が色々あったけど、特におかしかったのがギュッ、ギュッって感じに、床が軋むことだ。このアパートまだ築五年だし、体重が八十を超えてる俺が歩いても、そんな音したことねぇから。大体、二階建ての二階にいて、しかもベッドに横になってるのに床が鳴る音がする、ってどういうことなんだよ」

「それは……」


 自分なりの解釈をしてみようとするが、説得力のありそうな仮説は思いつかなかった。

 こちらが黙り込んでいると、小さくかぶりを振って先輩は話を続ける。


「あとは服とか食器とかに、よくわからん汚れが付いてる。黒っぽかったり緑っぽかったりする、油でも泥でもないのにベタついたヤツ。洗う前はなかったのに、洗濯機から出したらへばりついてたりして、もうワケがわからん」

「物理的な被害もあったんですか」

「そうなんだよ。気のせいで済んでねぇんだって! 皿はともかく、服に付いたのは全然落ちなくて、もう十枚くらい棄てるハメになったし」


 だいぶ声を荒げて、先輩はパサついた髪を掻き回した。

 前に会った時には無かった白髪が、随分と増えているような。


「それで、盛り塩を」

「ああ……昔、何かの本で読んでな。気休めのつもり、だったんだが……」


 盛り塩は、覿面てきめんに効果を発揮したらしい。

 塩の量を増やす毎にニオイも音も汚れも減り、今の量にした先週末からは一度も発生していないと言うが、説明する先輩の目付きはどこまでも暗い。

 もしかすると、自分がこの部屋から受けた印象と同じものを感じているのではないか。

 そんな想像が膨らんできたので、確認のために訊いてみる。


「あの、先輩。この部屋、何というか……もう一人、いる気がしませんか」

「……お前も、そう思うか?」


 質問に肩をビクッと跳ねさせた先輩は、少し間を置いて答えた。

 どうやら、予想はおおむね正解だったようだ。

 先輩はキョロキョロと周囲を見回した後、力のない笑みを浮かべながら言う。


「まぁ、何だ……塩さえ盛っておけば大丈夫ってのがわかってるし、そんなに心配することもないだろ。あの丼で三日はイケるし」

「そう、ですね」


 心にもない返事をしながら、先輩の思考をどう正していこうか検討する。

 大量の塩を三日で水にするような奴は、何者であるにせよ尋常じゃないだろう。

 というか、盛り塩が効いてしまう存在が家にいる時点で――大丈夫と言える要素は何一つとしてない。

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