第16話 ワタシハココヨ
昨夜から降り続いていた雨は夕方に止んだものの、生ぬるい空気に湿気が混ざり込んでいて、とにもかくにも不快が募る六月後半の夜。
二時間ばかりの残業をこなし、四十分ちょっと人の詰まった電車に揺られ、最寄り駅に着いたのは十時前だった。
焼き鳥屋の喧騒に足が向きかけるが、この時間からデは飲んでしまっては明日の仕事に支障が出るし、給料日前なので財布の中身もかなり寂しい。
やるせなさを主成分にした溜息を短く吐いて諦めると、俺は遅い夕食をどうやっつけるかに意識を切り替えた。
疲れているせいか考えるのも面倒になり、自宅の最寄りとなるコンビニでカップ焼きそばと、明日の朝食用のカレーパンを購入。
そして、ボロアパートに続く心躍らない道程を消化していると、視界の隅に何か明るいものがチラついた。
反射的に、そちらへと視線を向ける。
「んぁ?」
つい、妙な声が出てしまった。
自分の見たものが何なのか
人工的な照明、ではない――と、思う。
何かが緩やかに燃えている、という状況が近いみたいだ。
しかし、薄い青とオレンジが入り混じった炎、なんてのは花火でしか見た記憶がない。
サイズにして二~三十センチの火の塊が、単独で宙に浮いている。
脳内のボキャブラリーを掻き回してみた結果、これを表現するのに一番近い単語はおそらく『火の玉』だろう。
目を凝らしても吊ってある糸は見えないし、誰かのイタズラってことはなさそうだ。
つまり俺は今、心霊体験の真っ只中ということになるのか。
「もっとそれっぽいリアクションとか、した方がいいのかな」
とんでもなく奇妙なものを目の当たりにしているのに、まるで動揺できないのが何故だか申し訳なく感じられ、俺はつい火の玉に小声で質問をぶつけてみる。
当然ながら火の玉は何も答えず、青とオレンジの割合を忙しく変化させながら、ゆらゆらと空中で揺れている。
その動きから何かしらのメッセージを読み取るべく見つめていると、火の玉はフッと横滑りするように移動を始めた。
その場に佇んで遠ざかる火を見つめていると、七メートルか八メートルほど離れたところで動きを止め、再び上下左右に細かく揺れ始める。
あの火の玉は、こんな無意味なパフォーマンスをしながら移動し続けているのだろうか――そう思いかけたところで、別の可能性に思い至る。
無意味じゃなかったら、どうだろうか。
何かしらの意図があって、俺の前に現れたんじゃないか。
そんな思い付きを確かめてみようと、火の玉の方へと近づいてみる。
炎を下から見られるくらいまで寄ったら、火の玉はまたフヨフヨと移動を開始した。
これはやっぱり、俺を呼んでるってことだろうか。
非日常と関わることへの警戒心と、人生初の怪現象との遭遇で高まった好奇心。
両者の争いは好奇心が圧勝を収め、俺は火の玉の後をついていくことにした。
火の玉は人通りの少ない裏道から外れ、誰かの家の勝手口に直通していそうな狭い路地や、古く貧乏臭い平屋の集まった住宅地の中などを抜けていく。
自宅からそう離れた場所じゃないはずが、まるで知らない場所を歩かされている。
まだ真夜中という時間帯でもないのに、誰とも行き会わないのはどういうことだ。
民家からは生活音が漏れてくるのが、また不自然さを底上げしていた。
「どこまで連れてくんだよ、まったく……」
首筋に浮いた汗をハンカチで拭いながら呟いてみるが、火の玉からの返事はない。
ゆったりしているようでいて、移動のペースは意外に速い。
とりあえず、辿り着いた先が墓場でしたとか、そんなベタなタイプのオチは勘弁してもらいたいな――
そんなことを思いつつ、空中で揺れている物体を数メートル後ろから距離から早足で追う。
火の玉は結構な勢いで燃えているようにも見えるのだが、その明かりが足元を照らしてくれている感じはない。
相変わらず、炎の色合いは目まぐるしく変化している。
何となくだが、青色が強まっている時間が増えた気がしなくもない。
それにどんな意味があるのか、というのはサッパリわからないのだが。
携帯を取り出して時間を確認する――もう三十分も、火の玉が主導する散歩に付き合わされているのか。
こうなったら墓場でも何でもいいから、とりあえずゴールしてくれないだろうか。
俺がウンザリし始めたのが伝わったのでもあるまいが、数分後には終着点と思しき場所へと到着した。
森の間を通る、大型車が通ろうとしたら車体を枝で
結構急なカーブになっていて、壊れたガードレールがそのままになっていたり、路面に濃厚なブレーキ痕が残されていたりと、中々の危険地帯のようだ。
火の玉は、三メートルほどの高さをクルクルと旋回している。
その輪の中心となるガードレール付近には、
暗くてよく見えないが、あまりよく見たいとも思えないシロモノのようだ。
おそらくは、車に轢かれてしまった猫の死体。
車道から外れた位置までハネ跳ばされたせいで、ミンチ状態にならずに済んだらしい。
どんな有様であろうと、当事者にとってはもう関係ないだろうが。
「なるほど、お前が呼んでたのか」
火の玉という不自然と遭遇した理由としては、それが最も自然に思えた。
どうするべきかを少し悩んだ後、俺は小さく溜息を吐いて車道を横断する。
そして、提げていたコンビニ袋から焼きそばとパンを取り出して通勤カバンに押し込むと、白いビニールを裏返して猫の死体を掴んだ。
「うっふぇ」
ついつい、変な声が出てしまう。
固まった血で逆立った毛と、常温で放置された肉の感触が、ミクロン単位の薄さを通り越して生々しく掌に伝わって来た。
ビニールを元通りに返して取っ手を持つと、かなりの重量が指にかかる。
大人の猫ってのは、確か四キロか五キロくらいだっけか。
そんなことを考えつつ、俺は背後にある森の中へと足を踏み入れた。
道から入って数メートルのところに生えた木の根元に、お
そこに袋のまま猫の死体を置き、その辺に転がっていた大きめの石を載せる。
雑な埋葬ではあるが、道端に
この処理で正解なのかイマイチ自信はないが、手間をかけてこんな場所まで呼び寄せる理由は他に思いつかなかったし、多分これでいいのだろう。
森から出て車道の方を見ると、火の玉は旋回を止めて左右に揺れている。
その動作を『バイバイ』的な別れの挨拶と解釈した俺は、軽く手を振って応じてからその場を立ち去った。
仕事の後で往復一時間ほども歩いたせいか、翌朝は疲れが残っている感があった。
足腰ではなく肩と背中に妙な張りがある、そんな調子の悪さだ。
あの猫、墓まで作ってやったのに、俺を祟るなんて恩知らずな真似はしないだろうが――
まさかな、と頭を振って不快な予想を振り払い、TVをつけて朝食の支度をする。
朝食、といっても昨日買ったカレーパンと、買い置きの野菜ジュースなのだが。
ニュース番組は主要なネタが終わり、地味な事件やイベントの紹介へと移っていた。
パンの袋を縦に破り、キャスターの声を適当に聞き流しつつ、ジュースの缶を開ける。
『今朝四時四十分頃、◎◎市×××――新聞配達員からの通報で――高さ四メートルの――発見されました。その後、タケナカさんは病院で死亡が――警察では、轢き逃げの可能性も視野に――』
結構近所だな、と思ってTV画面に目を向けると、見覚えのある夜景が映し出されていた。
昨夜、火の玉に誘導されて死んだ猫を見つけた、あの場所だ。
イヤな予感がして、詳細を報じ始めたニュースの内容に集中する。
どうやら竹中さんというのは、轢き逃げの被害者――らしい。
自転車で車道脇を走っていた最中に事故に遭い、あの壊れたガードレールの向こうにある畑に数メートルの高さから落下。
重傷を負ったまま放置され、そのまま亡くなったと思われる。
そして死亡推定時刻は、昨夜十一時から翌日の二時にかけての間。
「……え」
不吉な想像は、瞬時にお呼びじゃないリアリティを獲得する。
次から次へと、良からぬ可能性が浮かんでしまう。
もしかして、あの火の玉が猫じゃなくて――
俺があの場所に着いた時、まだ息があって――
別れ際の動作は『バイバイ』じゃなくて『違う』だったとしたら――
いやいや、実際のところ何がどうだったとしても、俺のせいじゃない。
俺は関係ないし、関係あったとしても知ったこっちゃない。
そう自分に言い聞かせ、急に味のしなくなったカレーパンを雑に
ニュースの内容は既に、行楽地のイベント情報に変わっている。
リモコンを手にして、必要以上の力を込めて電源を切った。
黒い液晶画面には、苦々しげな顔をした俺が映っている。
あとは、いつもながらに乱雑な室内の様子。
それと、青とオレンジに光っている何か。
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