第15話 青いのどこだ

 ドアをへだてた先で笑い声が弾け、俺はついつい振り返ってしまう。

 うろたえる自分を笑ったワケじゃない――そんなことはわかっている。

 なのに、焦って浮き足立つのを抑えられないでいた。

 見つけてしまったこれをどうすればいいか、アルコールの回った頭は正解を探して思考を巡らせる。


 今夜は、仕事関係の知り合いとチェーンの安居酒屋で飲んだ後、地元に戻って行き付けの店であるこの『コーラル』に寄って、注文する前にトイレに向かった。

 狭いこともあって、コーラルのトイレには男女兼用の個室しかない。

 そこにしつらえられた荷物置き場に、小型の黒いバッグが置き忘れてあった。

 小型のバッグというか、大型の財布という表現の方が近い気がする。


 ちょっと悪そうな連中が愛用していそうな、そんなイメージのあるアイテムだ。

 俺は何となくチャックを開けて、サイフの中身を確かめようとしていた。

 あれ――と我ながらその行為に戸惑ったが、酔っているせいか手の動きは止まらない。

 パンパンに膨らんだ財布の中には、想像以上のモノが詰め込まれていた。


 十枚ずつ束にされた万札が八つと、同じ様にまとめられた五千円と千円がいくつか。

 それとカード類が二十枚ほどに、純金であろう太いネックレスが三本と、黄色がかった四角く大きな宝石の入ったプラチナの指輪。

 俺の安月給に換算すれば半年分はありそうな、ちょっとした宝の山だった。

 その一方で気になるのは、興業・興産・創業・組などが最後に来る社名の入った大量の名刺だ。


「やべぇな……」


 指先で札束の端を弾きながら、意味のない呟きが漏れる。

 正直に言って、ネコババしてしまいたい。

 しかし、持ち主が危険人物である確率は高く、バレたらどうなることやら。

 俺が疑われないようゲットにする、上手い方法は何かないものか、何か――


「おぉい、っちゃん、随分と長ぇけど下痢してんの?」

「うっ? ああ、いや……大丈夫だ、悪い」


 馴染みの店員――謙介に声を掛けられ、ハッと我に返る。

 悩んでいる時間は、もうない。

 これを盗んで逃げるか、見なかったことにするか、店に預けてしまうか。

 覚悟を決めて財布の中身をポケットに突っ込みかけたものの、寸前で持ち主がまだ店内にいる可能性に思い至った。

 完全に冷静さを失っていた――騒ぎになったら、どう足掻いても無事では済まなかっただろう。

 俺は未練を振り切る長い溜息を吐くと、財布を手にして店内へと戻った。

 

「腹の調子、大丈夫? 飲んでる場合?」

「大丈夫大丈夫。とりあえず、ジンフィズ……それと、こんなんあったぜ」

「んん? 財布……ぅわお、すっげ」


 カウンター越しに俺から財布を受け取った謙介は、一瞬の躊躇もなく中身を確かめて、その充実ぶりに感嘆の声を上げた。

 マジかよ、と言いたげにキラキラした瞳を向けてくる謙介に、渋い顔の俺は小さく頭を振る動作で応じる。

 不審げに首を傾げた謙介だったが、現金以外のラインナップで持ち主の正体を察したようで、眉根を寄せてチャックを閉めた。


「持ち主の心当たりは」

「さっきまでいた二人組……のどっちか、じゃねえかな」

「やっぱり、そっち系か?」

「多分、そっち系。見たことない客だった」


 苦笑を浮かべて答える謙介に、俺も似たような表情を返す。

 諦めるには惜しい金額だが、裏を返せば本気で探される金額でもある。

 住所不定無職って立場なら無理もできるが、一応は定職もあって家族もいる身では、ちょっと分が悪いギャンブルだ。


「しかしまぁ、世の中が不景気だって言っても、金はあるトコにはあるんだな」

「だね。普通じゃないルートで集めたっぽいけど」


 手早く作ったジンフィズを俺の前に置いてから、謙介は財布をチラッと見る。

 その視線に含まれた温度の高さに、そこはかとない不安を覚えなくもなかったが、もしやらかしても俺には関係ない――そう考えて見て見ぬフリを決め込むことに。

 しかし、目にした大金のことばかりが頭の中でグルグル回り、どうにも気分が落ち着かなくなったので、さっさとグラスをして一杯だけで退散した。

 

 それから三日後の仕事帰り、あの財布がどうなったかも気になっていたので、ちょっと『コーラル』に顔を出してみようか、と店の方に足を向けている途中で見知った顔に声をかけられた。

 スーパーの袋を提げた、『コーラル』のマスターだ。


「おぅ松ちゃん、いいとこで会った。こないだ、ウチで財布を拾ってくれただろ」

「ああ……便所で見つけて、謙介に渡しといた」

「財布の持ち主の上の人がさ、ヨシヒロさんっていうんだけど、ヨシヒロさんが見つけてくれた人にキチンとお礼をしたい、って言ってるんでよ」


 お礼、という単語を耳にした直後、財布の中の大金が脳裏をぎる。

 こちらには後ろ暗いことはないから、謝礼をくれるならば普通にもらっておけばいいんじゃないか、という気はする。

 ただ、その一方で関わりになること自体を避けるべきではないか、との警報も心のどこかから響いてきてしまう。

 そんな迷いが態度に丸出しになってしまったからか、マスターが苦笑いしながら折り畳んだメモ用紙を渡してくる。


「ヨシヒロさんはちゃんとしてる人だから、そんなビビる必要ないって。コッチの顔を立てると思ってさ。連絡だけでもしといてよ。ね?」

「はぁ……」


 そう言うマスターの声には、口調や表情に似合わない真剣さが透けている。

 メモを開いてみると、赤丸で囲んだ『ヨシヒロさん』という名前の下に、携帯の番号と思しき数字が並んでいた。

 突っ返すワケにもいかず、俺はメモを再び畳んでポケットに仕舞う。


「なるべく早くね、電話の一本でも入れといて。で、どうする? 店寄ってくの?」

「や、今日はヤメとく」


 確実に楽しい酒にならない気がしたので、俺は予定を変更する。

 そして自宅までの道を歩くが、どうにもポケットのメモが重たい。

 放置してもどうにもならないだろうから、厄介事はサッサと片付けてしまおう。

 俺はそう考えてスマホを取り出す――が、こちらの連絡先を知られるのはよくない気もしたので、数年ぶりに公衆電話を利用することにした。


『……はい』

「あ、そちらヨシヒロさんの携帯ですか? こちらはあの、『コーラル』で――」

『あぁあ、ウチのモンが落とした財布を拾って下さった方ですか! いやぁどうも、本当にありがとうございました!』

「いえそんな、単に拾ったのをそのまま、店員に預けただけで」

『いやいや、中身が中身なんでね、まさか現金まで手付かずで戻ってくるとは』

「はは……」


 どう反応したものかわからず、とりあえず愛想笑いで返しておく。

 電話の向こうのヨシヒロは、口調は丁寧なのだが声にドスが効きすぎていて、話しているとどうにも落ち着かない。


『ちゃんとお礼もしたいんで……これから時間、ありますか』

「これから、ですか」

『忙しいようでしたら、日を改めてそちらの都合に合わせますけど。場所を指定してくれれば、職場や家の近くに伺いますよ』

「えっ、いえいえいえいえ、そんな、悪いですから」


 善意で言っているのかも知れないが、グイグイと踏み込んでくるヨシヒロに対し、どうしても警戒感が募ってしまう。

 そんな俺の態度を察してか、短く溜息を吐いた後でヨシヒロが言う。


『義理とか恩とかね、そういったことがいい加減だと、兄貴から叱られるんですわ。なんでね、松沢さんには重ね重ね迷惑をかけますけど、少し時間を作ってくれませんか』


 兄貴という単語と、いつの間にやら自分の名前が把握されている事実に、バックレると余計に面倒になりそうな気配が濃厚に伝わって来る。

 俺は抵抗を諦めて、ヨシヒロの希望に従うことにした。


「はぁ……じゃあ明日の夜、九時くらいなら……」

『明日の二十一時、ですね。場所はどこがいいですか』

「えぇと……新宿辺りで」

『新宿だったら、いい店をいくつも知ってますから』

「そんなに時間とらせるのも悪いですし、喫茶店とかファミレスで」

『……わかりました。では、明日はこちらから店の場所を連絡しますんで、いっぺん携帯からかけ直して下さい』


 有無を言わせぬ感じでそう告げ、ヨシヒロは電話を切った。

 俺はやっぱりヤメときゃよかったという後悔と、それに似た各種感情を抱え込みながら、電話ボックスを出てスマホを取り出した。


「やぁ、わざわざ来てもらうことになって、何だかすみませんね、松沢さん」

「いやあの、帰り道なんで別に、そんな」


 テーブルを挟んで腰掛けてた、坊主頭の男が小さく頭を下げてくる。

 歳は四十前後だろうか――冬だというのに日焼けした肌と、高そうなスーツ越しにも厚みと凄みの感じられる筋肉質の体型の持ち主に、その動作は似合わないにも程があった。

 ヨシヒロの笑顔には、強面こわもてだからこそ滲み出る愛嬌みたいなものが宿っていたが、どうしても『擬態』という言葉がチラついてしまう。

 ヨシヒロは長々と礼を述べた後、懐から茶封筒を取り出してテーブルの上に置き、スッと俺の方へ滑らせる。


些少さしょうですが、無作法な私らではこういう形でしかお礼できませんので」

「はぁ……でも、こっちはただ拾っただけ、ですから」

「違いますよ、松沢さん。あなたは拾って、届けてくれたんだ。警察に届けるとか、そういう間抜けなこともせずにね。だから、これは受け取るべきなんですよ」


 相変わらず笑顔こそ崩していないが、ヨシヒロの穏やかな物言いの中には、拒否することを拒否してくる威圧感が含まれていた。

 その勢いに負けて、俺は差し出された封筒を手にする。

 感触からして、中身は三万や五万ではない。

 喜びよりも戸惑いが先に来てしまう、そんな厚さだ。


「では、そういうことで」

「はっ、あの」

「失礼な金額、でしたか」

「ええっと……ちょっと、困惑してるっていうか」

「なるほど」


 そう言って頷くと、ヨシヒロはあの財布とは別の長財布を出し、そこから十数枚の紙幣を引き抜いて封筒の上に乗せた。

 何でそうなる、と思いながら金とその出所を交互に見ていると、笑顔から真顔に戻ったヨシヒロが軽く咳払いをする。


「この辺りで、お願いできますか」

「お願いっても、その……あの、どういう」

「どうか、受け取って下さい」

「あぁ、はい、わかりました! わかりましたから」


 改めて深々と頭を下げられ、俺は慌てて頭を上げてもらう。

 こちらに向けられたヨシヒロの表情は、再び柔和なものへと切り替わっていた。

 そこから、コーヒーを飲みながらたりさわりのない世間話をしていると、ヨシヒロに電話がかかってきた。

 相手が一方的に話しているような通話を短い終えると、ヨシヒロは伝票を手にして立ち上がった。


「松沢さん、本日はありがとうございました」

「いや、こちらこそ? はい」

「では、よろしくお願いしますよ」


 何をよろしくされたのかよくわからなかったが、足早に立ち去るヨシヒロに曖昧な会釈を返しておく。

 その大きな背中が黒いガラスドアの向こうに消えた後、俺は封筒と現金を雑にカバンに突っ込んでトイレに向かう。

 それから個室の鍵をかけて、自分がいくら渡されたのかを確認してみた。


「マジか……マジか」


 数えながら、そんな声が自然と漏れる。

 封筒の中に三十万、追加で足された分が十三万、合計で四十三万円。

 あの財布の中にあった現金の、半額分くらいはあるだろう。

 謝礼がここまで過剰なのはもしや、百万近い現金よりも貴重なモノが財布の中に入っていたから、なのだろうか。


 考えてみたが答えは出なかったので、俺はとりあえずこの臨時収入の使い道を検討することにした。

 しかし、それから一週間後。


「結構、待たせてもらったんですけどね」

「はぁ……あの、何の話、でしょうか」

「へぇ、そう来ますか。なるほど、ねぇ」


 昼食をいつもの定食屋で済ませようと昼休みに職場を出たところで、思いがけずヨシヒロから声をかけられた。

 一緒に食事でもどうですか、と誘われて断る理由を見つけられなかった俺は、会社の近くにあったが存在を知らなかった小洒落た洋食屋に案内される。

 そして注文を済ませた後、ヨシヒロが切り出してきたのが『待たせてもらった』という謎の言葉だ。


 前回と同じく物腰は柔らかく、表情もあくまでも穏やかな雰囲気ではある。

 しかしながら、何かが根本的に違っていた。

 眠たそうな猫だと思って近付いたら、口の周りが真っ赤に濡れていたような、そんな剣呑けんのんさが感じ取れてしまう。

 そもそも、どうして俺の勤務先が知られているのか。


「こちらとしては、あの金額で納得してもらえたと、そういう理解だったんですけど」

「すいません、ちょっと話が見えないっていうか、本当に何を言ってるのかが――」


 こちらが困惑しつつ問うと、ヨシヒロは銀色のシガレットケースから黒い巻紙の煙草を取り出し、金ピカのライターで火を点ける。

 そして、妙に甘ったるい煙をゆっくり吐き出してから、口元は笑ったままに据わった目を向けて言う。


「では、単刀直入に言いますがね、返してほしいんですよ、アレを」

「えっ? それはその……先週いただいたお金、ですか?」

「ほう。金と引き換えにアレを返してくれ、って取引自体を否定してくる、と」

「いやあの、そういうんじゃなくて……というか、ぶっちゃけヨシヒロさんが何を言ってるのかがよく……そもそも、アレって何なんです?」

 

 ワケのわからないことばかり言われ、本音では怒鳴り散らしたい精神状態なのだが、相手が相手なのでそうもいかない。

 なので、やむを得ずひたすら低姿勢な感じで訊くと、ヨシヒロは今までになく視線を冷ややかにしながら口を開く。


「青いの、だよ……青いのどこだ? どこにある」

「は? 青い、の、ですか? そんなの――」

「あの財布に入ってただろ。知らんとは言わせん」


 先回りして返答を潰され、俺は口篭もるしかなくなった。

 ヨシヒロの口調も徐々に荒くなっていて、迂闊うかつなことは言えない空気になりつつある。

 それにしても、『青いの』とは何だろうか。

 財布の中に、そう言われてピンとくるような何かがあっただろうか。

 俺は必死になって記憶を掻き回すが、正解らしいものは出てきてくれない。


「今ならまだ、内々で収められる。ただ、月が変わる前までに戻らないと、ちょっとどころじゃなく面倒なことになる。落とした若い衆からも、ケジメを取らなきゃならん」

「だから――」

「そういう、妙な駆け引きはナシにしましょうや、松沢さん。どうしても納得行かないなら、もう二十や三十は出してもいい。ただな……アレは、あんたら素人がどうこうできるシロモノじゃない。どこかとのコネがあるにしても、向こうはウチほど親切じゃない。交渉なんかする前に、キョウコさんかミチルちゃんがさらわれる」

「なっ」


 唐突に母親と恋人の名前を出され、うろたえて水の入ったコップを倒してしまう。

 こぼれた氷水はテーブルの上を伝い、ヨシヒロの右腿辺りにしたたり落ちるが、それを気にした様子もなく話を続ける。

 

「正直なところね、松沢さん。あなたをどこか静かな場所に招待して、青いのをどうしたのか、どこで知ったのか、誰の入れ知恵なのか、じっくりと訊いてもいいんだ。なのに、それをしてないって意味をな、真剣に考えてみてくれ」

「ちょっと待って下さい、俺の話を――」


 どういうことなのか、本気でわからないのだと伝えようとするが、ヨシヒロは聞く耳を持たずに店を出て行ってしまう。

 その直後、空気を読んで近寄らなかったらしい店員が、俺の頼んだキノコソースのハンバーグランチセットと、ヨシヒロの頼んだアイスコーヒーを運んできた。

 和風ベースのソースと肉汁たっぷりのハンバーグの組み合わせは、間違いなく美味いに決まってるのだが、今の俺にとっては何の味もしない温かい物体でしかなかった。

 

 月が変わるまでは、あと五日しかない。

 帰宅後に『青いの』とは何なのか自分なりに調べてみたものの、身の回りに知っている人間はおらず、ネットでもそれらしい情報には辿り着けない。

 もしかして謙介がやらかしたのか、という疑惑も浮かんだので、当人に直接訊いてしまおうとコーラルに寄ってみたのだが。


「謙介なぁ、一昨日おとといから連絡つかねぇんだよ」

「マジですか……電話の一本もなく無断欠勤、みたいな?」

「そうなんだよ。連絡つかないまま二日連続でバックレられて、さすがに参ったんで今日の昼にあいつのアパートの様子を見てきたんだけど、家にもいないみたいでさぁ」


 マスターの話を聞きながら、俺は脳の奥が痛むような気分を味わっていた。

 謙介のヤツが、問題の『青いの』を持ち逃げしたのか。

 或いはヨシヒロに身柄を押さえられ、静かな場所とやらで事情を訊かれているのか。

 自分も逃げてしまうか、もしくは警察に駆け込むか、どちらかを選ぶべきなのか。

 しかし、逃げれば家族やミチルに被害が及びそうだし、警察に行くにしても何をどう説明したらいいのかサッパリだ。


 迷ったり悩んだりでグズグズしている内に、一日また一日と時間は無駄に過ぎていく。

 仕事にも身が入らずにミスが増え、その結果の残業が更に持ち時間を削り取った。

 とにかくヨシヒロともう一度会って、自分は何も知らないのだということを納得してもらうしかない――そう決意したところで、向こうからの電話で呼び出された。

 指定されたのは、自宅近くにあるスーパーの駐車場。

 厭な予感しかしなかったが、選択の余地がない俺は仕方なく急ぎ足で現地に向かう。


「おう、来たか」

「はぁ……あの、もうホントに、勘弁して下さいよ……何なんですか、青いのって」


 ヨシヒロからの指示に従い、駐車場の隅に停めてあるレクサスの後部座席に乗り込む。

 運転席には俺と同年代であろうジャージ姿の金髪の男が、助手席には三十前くらいのやけにガタイのいい作業着姿の男が座っているが、どちらも俺に一瞥いつべつも向けてこない。

 そして、いつものように対面ではなく、隣り合わせになって座っていると、ヨシヒロがあからさまに不機嫌なのも相俟あいまって、名状し難い圧迫感が伝わって来る。

 質問に対する返事を待っている俺の膝に、ポンと茶色い紙袋が置かれた。


「これは……?」

「中を見ろ」


 低い声で促され、三回折り畳まれた紙袋の口を恐る恐る開く。

 袋の中を覗き込むと、ジッパーのついたビニール袋が見える。

 袋の端を摘んでゆっくりと持ち上げていくと、見慣れてはいるがこういう形になっているのは初めて見るものが出てきた。

 入っていたのは、左右が揃った人の耳だった。


「はぅうえぇ、え? 何この、なっ?」

「財布を落とした馬鹿野郎の耳だ。理由はわかるだろ」

「だけど……そんな」

「それだけ大事おおごとになってると、まだわかってねぇのか……松沢さんよ」


 肩を叩きながらのヨシヒロの言葉に、全身の汗腺が開くような感覚に囚われた。

 自分は財布を拾っただけの、全く何も知らない善意の第三者だと、どうにかして納得してもらわねば。

 切り離された耳から目を逸らすこともできないまま、俺は必死に頭を働かせる。

 とにかく自分には心当たりがない、となると疑わしいのはやはり――


「本当に、何度も言ってますけど、俺は財布を拾っただけなんですよ! 便所に置きっぱのを見つけて、コーラルの店員の謙介ってのに渡して、それだけで後は何も知らないんですってば! 何なんですか、青いのって!」

「困ったな……比留間ひるま謙介、彼にも色々と訊いたんだがね。松沢さんと同じで知らない、わからない、関係ないのナイナイ尽くしで話にならない。仕方なく、体にも訊いてみたんだけど、いつまで経っても答えが変わらない」


 キレ気味の俺の問いには答えず、ヨシヒロがまた別の紙袋を膝の上に置いてくる。

 見たくないにも程があったが、中を見ろと命じられる前に、さっきと同じように口が三回折り畳まれた紙袋を開き、やはり入っていたジッパーつきのビニール袋を取り出した。

 社内が薄暗いこともあり、パッと見では何だかわからない。

 しかし、目を凝らして数秒で正体は判明した。

 剥がされた十枚の爪と、引き抜かれた数本の歯だ。


「……ぅぷ」

「普通に訊くのはこれが最後だ……慎重に答えてくれよ、松沢さん」


 そしてヨシヒロは、たっぷりと間を置いてから訊いてくる。


「青いの、どこだ」

「だからぁ……わからない、わからないんですよ! 知らないし、見たことない! そもそも青いの……青いのって、どういうのなんですか!」

「そういうのはいい。青いのはどこにあるのか、それだけを答えろ」

「どこにあるも何も、どんなのか見たこともないんですって! どうしてわかってくれないんですか! もうマジ意味わかんないんで!」


 本当に何も知らないのだと理解してもらえないと、色々と終わる。

 俺は涙目になりながら、しつこいくらいに質問に質問で返す行為を繰り返した。

 絶望に満ちたやりとりが五分ほど続いた後、ヨシヒロが天井を仰いで深々と重たい息を吐いた。


「もういい、やれ」

「はい」


 ヨシヒロの不穏な一言に応じ、助手席の男が動く。

 早く逃げないと――逃げなければ、殺される。

 そう本能が叫んでいたので、俺は後部座席左側のドアから飛び出し、店の明かりが見える方に向かって駆けようとした。

 だが、数瞬後に背中に衝撃を受けると同時に平衡感覚を失い、鋭い痛みが走った直後に意識を失った。


 体感時間では数分だが、実際にはどれだけ経っていたのか。

 目覚める寸前に、とんでもない騒々しさに巻き込まれたような気もするが、まだ頭がまともに働いていない。

 目の前は真っ暗で、手足は動かない。

 呼吸は詰まるし、世界が揺れている。


 そんな、何がどうなっているのか全くわからない、奇妙な混乱は唐突に終了する。

 ベリッという音と共に顔面に痛みが走り、その後で不意に視界が戻ってきた。

 もう一度ベリッという音がして、口をふさいでいたテープが剥がされた。

 それでもまだ、口の中には違和感が残っている。

 ゴツゴツした太い指が、俺のよだれで湿った白っぽい塊を取り出し、放り捨てる。

 猿轡さるぐつわとして突っ込まれていたのは、使い古しの丸めた軍手だった。


 横になった俺を凝視ぎょうししているのは、浅黒い肌で濃い顔をした、何人なにじんか判別できない髭面の中年男だ。

 ヨシヒロや、手下二人の姿は見えない。

 どうやら俺たちは、走行中のワンボックスカーの車内にいるようだ。

 状況が何一つとして理解できないが、とりあえず助けてもらったらしいことに対して、お礼を述べておくべきなのだろうか。

 日本語は通じるかな――などと考えていると、男は意外な流暢りゅうちょうさで質問を投げてきた。


「アオイノ、ドコダ」

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