第14話 せいさん
糖分が足りてない。
脳から繰り返し発せられるそのメッセージは、ただでさえ行き詰っているレポート作成を見事に妨害してくれていた。
時計を見れば、あと数分で午前二時を回ろうとしている。
何にせよ、この調子で無理矢理に作業を進めても効率は落ちるばかり、か。
そう判断した俺は、三時間ぶりに机の前から立ち上がり、思い切り背筋を伸ばす。
メリメリッ、と人体から出てはいけないタイプの音が響く。
我ながら不健康だとは思うが、健康的な生活の送り方なんてとっくに忘れている。
何はともあれ、今は体からの欲求に答えてやることにして、財布とスマホだけを持って家を出た。
何か
しつこい残暑と
コンビニまではちょっと遠いな――冷えた夜気に負けた俺は、徒歩二分ほどの場所にある自販機を目指すことにした。
その自販機は、小さな森の手前というロケーションのせいで、夏の夜には昆虫大戦争の様相を呈してしまい、使うに使えない。
それもこの時期にはすっかり落ち着き、過剰なまでの生命反応は消え失せ、静かに柔らかい光を発していた。
さて、俺の脳が欲しているのはどれだ――腕組みをしながら、選択肢が多いようでそれほどでもないラインナップを眺める。
甘いもの、ということでミネラルウォーターと緑茶は問答無用で却下。
夜中だしカフェインはなるべく避けたいので、紅茶とコーヒーとコーラとエナドリっぽいのもナシだ。
必要としているのは甘味というか糖分だろうから、カロリーオフ系もNG。
となると、体に悪そうなジュースの中から選ぶしかなさそうだ。
小銭を投入し、三列に並んだ各種飲料をもう一度確認する。
味の想像できない新商品か、大ハズレはないだろう定番商品か。
少し悩んだ後、定番中の定番であるオレンジジュースを選んでボタンを押した。
ガコガコッ、と
そしてペットボトルを取り出そうとする――が、何かがおかしい。
掴んだボトルの感触が変だということもない。
なのに、この違和感はどういうことだ。
数秒悩んだ後で、俺はその原因に気が付いた。
このジュース、全く冷えてない。
「参ったな……」
ジュースを掴み、身を起こしながら呟く。
中身が補充された直後、ってのは時間的に考えづらい。
ということは、内部の冷却機能が故障してるのだろうか。
テンションが急降下するのを感じつつ、手の中の生温かいボトルに視線を落とす。
――生温かい?
「はぅわ」
変な声が出た。
思わず手を離したのか慌てて捨てたのか、自分でもよくわからない動きの結果、ボトルが地面に落下して転がる。
自販機から取り出したそれは、買ったはずのオレンジジュースではなく、この自販機には入っていないコーラのボトルだった。
そして、中途半端な量の液体は通常の黒色ではなく、ドブ川のような濁りのある濃緑色だ。
何だ、これは。
まさかこんなのを飲む奴はいないだろうし、イタズラにしては微妙だ。
昭和の頃、青酸だの農薬だのが入ったコーラで死人が出た、みたいなタチの悪い事件があったと本で読んだ記憶があるが、そういうつもりなら仕掛けが粗すぎる。
意味も意図もわからないので、ただただ気味が悪い。
念の為に取り出し口を確認してみると、俺の買ったジュースもあった。
こちらはちゃんと冷えているし、特に問題もなさそうだ。
「ったく、どこの馬鹿が」
こんな下らないマネを、と思いながらコーラのようなものを改めて眺める。
ボトルは少し離れた場所の街灯に照らされ、さっきと同じ場所に転がっていた。
だが、何かが変だ。
さっきとは、確実に別物になっている。
「……ん?」
照明が淡いので見間違いかと思い、近寄って確認してみた。
やはり、キャップが飛んで中身がカラになっている――濃緑の何かが消え失せ、透明のボトルだけがそこにある。
さっきまで液体が入っていたとは思えない乾き方で、砂埃みたいな汚れまでがボトルの内側にこびり付いている様子だ。
誰かがゴミを突っ込んでおいただけで、全ては俺の勘違いだったのか。
それにしては、あの生温かい感覚はリアルだったが――
右手が感じた気持ち悪さを思い出そうとしてみるも、冷えたボトルを掴んだことで上書きされてしまったらしく、既に記憶はボヤけている。
ちょっと考えた後、「何もかも気のせい」で片付けることに決めて、俺はサッサと自宅に戻ることにした。
いつになく何度か振り返りながら、普段は二分かかる距離を一分ちょっとで消化する。
恐怖とか不安ではなく、もっと曖昧なマイナス感情が心中に渦巻いているのだが、それを表現するべき単語が思いつかない。
とりあえず、部屋に入って鍵をかけてチェーンを下ろすと、もう大丈夫と思えた。
気分転換も兼ねて買い物に出たのは確かだが、こんな微妙極まりない気分になりかったんじゃない。
何だかドッと疲れたし、もう寝てしまおうか。
そんな誘惑に駆られるが、レポート提出のリミットを考えるとそうもいかない。
当初の予定通り、ジュースで糖分を補給して続きに取り掛かるとしよう。
フウッ、と大きく一息吐いて気合を入れ、ノートパソコンを開いたままの机に向かう。
そしてジュースを開けようとするが、キャップをひねった時の手応えが緩すぎる。
「おぉっと?」
無意識に呟きが漏れる。
小走りに帰って来る最中に、変に力が入って開いてしまったのか。
握力が弱い子供や老人が楽に開けられるようにした、一種の企業努力なのか。
ともあれ、これを飲んでいいものかどうか。
パッと見では、不審な点はない。
キャップを開けてにおってみるが、いつもと変わらず安っぽいオレンジの香りがする。
軽くボトルを振ってみても、異物が混入している様子もなかった。
だから大丈夫――なハズなのに、どうしても口をつける気になれない。
本能がブレーキをかけている、とでも表現すればいいのだろうか。
とにかく、深刻なまでの
「……やめとくか」
結論を口にしながら、ボトルを手にシンクに向かう。
ちょっと勿体ないけど、やはり飲む気になれそうもない。
こいつはもう、捨ててしまおう。
キャップを外してボトルを
もう一回、買いに行くか――でも、あの自販機は使いたくないな――
ぶりゅ、びるっ
ボンヤリしながら廃棄作業をしていると、手元で怪音が鳴った。
反射的に、視線を下向ける。
オレンジの飛沫が広がった中に、緑色の、ゼリー状の、小刻みに震えている、何か。
何か――って、何だこれ。
一瞬の思考停止の後、さっきの
このままにしておいてはダメだ。
確信に似た直感に従い、蛇口を全開にしてそれを流そうとする。
勢いのある水流が、シンクからオレンジ色を薙ぎ払う。
だが、アレが消えた。
アレはどこに行った。
目を離したつもりもないのに、濃緑色の何かを見失った。
ぶわっ、と毛穴が開く。
アレはきっと、下水に流れたんだ。
自分でもイマイチ信じられないが、どうにかそう言い聞かせてみる。
息が詰まる――ゆっくりと深呼吸をして落ち着こう。
「ぅぶっ?」
大きく口を開けた途端に、柔らかいもので唇を塞がれた気がした。
状況を把握する間もなく、温かくつるんとした塊が食道を滑り落ちていく。
――まさか。
絶対にヤバいと本能が訴えるので、慌てて右手の中指と人差し指を喉の奥に突っ込む。
しかし二本の指は、何かにやんわりと押し戻された。
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