第三巻

プロローグ

 オムライスの恐怖が去って数週間。舌がケチャップと卵を解禁して、ようやく日常が帰ってきたような気分だった。不安だった初めての高校生の期末テストも可もなく不可もなくっていう評価しにくい数字で、アルバイトも特に問題もなく進んでいる。

 放課後、教室の窓からのぞくまだまだ沈まない夕焼け空もきれいだった。


 まさに世は泰平。平和万歳、なんて叫びたくなる気持ちだ。


 もう少しで夏休みもやってくる。今年はアルバイトを始めたおかげで懐も温かい。いつもなら家でごろごろしているばかりの長期休暇も何かをやってみようという気がしてくる。というよりも玲様がいる以上、何も起こらないわけがないんだけど。


 そんな僕らのオムライス女王様はというと、転校していきなり学年一位なんてとってしまったものだから一躍クラス、いや学年のヒロインと化していた。そりゃお嬢様高校からこんな田舎の普通校に編入したんだから当たり前なんだけどさ。とっくの昔に学習範囲なんて終わっていて、今回の試験前もろくに勉強していなかったらしいし。


 今日はアルバイトもお休みで久しぶりのゆっくりとした放課後。今日は何をしようかと考えているうちにすっかり僕は教室に取り残されてしまったのだ。家に帰って寝てしまうもよし、買い食いなんてしても今日くらいなら怒られないかもしれない。


 いや、待て。こういうときこそ練習をするべきなんじゃないだろうか。

 最近はだんだんと楽しくなってきて剣道の練習時間も日に日に増えていた。まだ他の道場生と一緒にっていうのは気が引けるけど、遥華姉とまた試合をする前に強くなっておきたいなんて思えるくらいにはなっていた。


 僕は玲様みたいに何か目標があるわけでもない。でもやっぱり心のどこかで生まれたときからずっと一緒だった道場はあのまま残っていてほしいと思っている。そのために確実な方法は僕がまた剣道をやるっていうのが一番なのだ。


「よし、そうしよう」


 僕は空っぽだった頭の中の予定表に練習を書き込む。まだ夏休みのスケジュールじゃないから、今からなら一時間くらいは練習できそうだ。

 そうと決まれば善は急げ。僕はもう準備の整っていた軽いカバンを片手に教室を飛び出した。


 ほとんど生徒の残っていない廊下を通り、昇降口でスニーカーに履き替えた。まだ半年だっていうのに結構痛んできている。玲様に連れまわされてるからかな。

 まだ大丈夫、と言うようにしっかりと舗装されたアスファルトをスニーカーで踏みしめる。そんな強さも教えてくれた人がちょうど二年の昇降口で立っていた。


「遥華姉も帰り?」


 大串遥華おおくしはるか。呼ぶときはいつも遥華姉。うちのお隣に住んでいる幼馴染兼お姉ちゃん。名前の通り僕よりも遥かに高い身長と一騎当千の剣道の腕前からついたあだ名は『夕陽ヶ丘の巨神兵』。


 畏怖と尊敬を込めたその呼び名はその由来に反して、本人には蛇蝎だかつのごとく嫌われている。確かに今考えてみれば女の子に巨神兵はかわいそうだ。でもあの頃の、ううん今の僕にとっても遥華姉は最強の名にふさわしい憧れの存在だ。


「うん。今日は部活も休みだからね」


「そっか。テスト明けだもんね」


 剣道部のマネージャーをしている遥華姉がこの時間に帰るのは結構珍しい。帰宅部の上に最近はアルバイトも始めたから、こうして放課後に顔を合わせるのもなかなか機会がなくなってしまった。


「せっかくだから一緒に帰ろうか」


「ごめんね。これから出かけるの」


「友達と? 部活も休みだもんね」


 時間があればまた一緒に練習できるかと思ったけど、なかなかそううまくことは運んでいかないものだ。遥華姉にだって都合っていうものがあって、なんならそれは友達も少なくて、部活もやっていない自由な僕よりつけにくいものだったりする。


「うん。ナオも家に帰ってごろごろしてないで、たまには遠回りして帰ってみたら?」


「うーん。そういうのもありなのかなぁ」


 家族も遥華姉も知っている通り、僕は出不精でぶしょうで通っている。それでも最近はやや強引に連れまわされるおかげで、これでも外に出歩くことに慣れてきた方だ。


「あ、来た来た。それじゃ、直。またね」


 遠くで誰かがこちらに手を振っている。僕の知っている顔じゃないから遥華姉の待ち人なんだろう。二つ隣の列から出てきたからたぶん三年生だ。


「おまたせしました」


「いえ、構いませんよ」


 遥華姉が丁寧な口調で答える。僕とは違う対応。なんだかムッとした。


 それよりも大きな問題がある。

 この男の人は誰ですか?


 こちらにさわやかな笑顔で近づいてきた三年生は、僕と同じスラックスを履いている。つまり男子生徒。玲様みたいな人に捕まって男装させられている女の子って可能性も一応あるけど、たぶん男だ。


 遥華姉よりは少し背は低いけど、日本人離れした腰の高さであまり違和感がない。そもそも遥華姉より背の高い男の人もそれほど多くないから見慣れているし。鋭い切れ長の目元に伸びるまつ毛が長い。短く切りそろえられた髪が男らしい。鼻もほっそりと高くてあごもシャープに決まっている。

 確認すればするほど美男子だった。非の打ちどころがない。


 それに比べて僕といえば、クラスでもぶっちぎりの最小身長にぽてりとした頬の丸顔。ぱっちりとした二重にまんまるの瞳。腕も足も細くて、さらさらの髪が風を受けてはためいている。勝っているのはまつ毛の長さくらいかな。


 たった一瞬で感じる格差。誰が見たって圧倒的に向こうがイケメンだ。その男が、遥華姉の待ち合わせの相手だなんて。

 僕が打ちひしがれている間にも二人は仲良く並んで校門へと歩き出していた。もう僕には追う理由も資格もない。そうなんだけど、このまま放ってはおけない。


 そうだ。僕には遥華姉の幼馴染としてあの男がまともかどうか確認する義務がある。もし取り繕っているだけのダメ男だったら、助け出してあげないといけない。遥華姉を怒らせてあの人が再起不能になる前に。

 なんだか途中でいろいろと混ざってしまったけど、とにかく遥華姉が僕以外の男と一緒なんて。


 そういえば、前にお母さんが言っていた言葉を思い出す。


「女の子が料理を練習し始めるときは、誰か食べさせたい相手が出来たときよ」


 まさか、あの男が遥華姉の。


 いやいや、まだ決めつけるのは早い。そう心の中でつぶやきながら、僕の足はまた昇降口に戻っていた。スニーカーから上履きに戻る。そのまま三年生の教室に向かって僕は校則違反ギリギリの速さで廊下を歩いていった。


 こういうときに一番頼れるのはあの人しかいない。対価としてまた大変なお願いをされるんだろうけど、今はそんなことに構っていられなかった。


「助けて、玲様!」


 三年生の教室の扉を開けると同時に叫ぶ。すると、女の子の輪の中心にいた黒髪の小柄な女子生徒が少し驚いた顔をしてこちらに振り返った。


「あら、直が助けてなんて珍しいわね」


 面白そう、と大きく顔に書いてある。でも僕には他に選択肢なんて残っていなかったのだ。

 きれいな黒髪をかきあげて玲様が立ち上がる。僕はこの後の要求に覚悟を決めて、教室の中に恐る恐る入っていった。

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