エプロンは身と心を引き締めてⅦ
「はい、今月のお給料。使い道は決まってるみたいだけど、よく考えて買うのよ」
帰り際、朱鷺子さんに呼び止められた僕と玲様に見慣れない茶色の封筒が渡された。お給料、と言われてもなんとなくピンと来なくて受け取ったまま封筒を見ていたけど、自分が働いた分のお金だと思うとずっしりとした重みを感じる。
「あれ、でもまだ一ヶ月経ってないんじゃ」
「うちは二十日締めだからちょっと早いかもね。今月は助かったわ。ありがとう」
「こちらこそありがとうございます」
働いてお金をもらうってなんだか不思議な気分だ。この間湊さんのところでモデルのアルバイトはしたけど、友達のところで一度きりだったから今回は本当に働いたって感じがする。大人はみんな毎日こうして自分や家族のために一生懸命になっているんだと思うともっとお父さんを尊敬しないとって考えてしまう。
僕がそんな風に感慨に浸っていると、横で袋を破る音がする。玲様がさっそく給料袋を手で開けたのだ。せっかくの感傷がだいなしだよ。
「ちょっと玲様」
「だってここにすぐ開けるように書いてあったのよ」
そう言われて僕ももらったばかりの給料袋に目を向けた。確かに袋の下の方に小さな字でそう書いてある。でもこれは買ってきた給料袋に元々印刷されている注意書きだし、中身が違っていないかちゃんと確認するためだから、そもそもいくらもらえるか計算していないとあんまり意味がないと思う。
「おまけはできないけど、欲しいものに足りるといいわね」
「はい。ありがとうございます」
本当は絶対に届かないってわかっているんだけど、そんなことを言ったら朱鷺子さんが困ってしまうだけだ。受け取ったお給料をかばんにしまい込んで、僕たちはお礼を言ってお店を出た。
「それで、どのくらいで買えそうなの?」
中身を見ている玲様にそっと聞いてみる。さすがに八ヶ月は長すぎるから妥協するとは言っていたけど、玲様の金銭感覚だ。まだ手の届かないところを目指しているかもしれないと不安だった。でも玲様の答えはあっさりとしていた。
「そうね。来月位にはなんとかなるでしょ。それに今の環境でも練習はできるんだし」
そもそも現状でかなり恵まれている方だよ。それこそ紙と鉛筆だけでも上手に描ける人はいっぱいいるのだ。道具の良し悪しだけで上手くなるわけじゃない。僕の分のお給料を貸してあげれば足りるのかもしれないけど、それじゃ玲様のためにならないと思って、ぐっと言葉を飲み込んだ。
それになんとなく僕は不安なのだ。周りが見えなくなるくらい集中できて、たったの二週間でまったくできなかった料理をあそこまでやってのける玲様にちゃんと環境が整ったらどうなってしまうのか。何か人のツテを借りて絵を教えてくれる人が見つかったらどうなってしまうのか。
僕のことがいらなくなってしまう。それはいつも考えてしまうことだ。家のことも落ち着いて玲様が最初に僕を求めた理由はなくなってしまった。漫画のことまで順風満帆にいってしまったら、本当に遠く離れた場所に行ってしまう気がする。
そんなにうまくいくはずがない、って僕の嫌な心は言っているけどそんなことはない。だって最初は竹刀を持つのも嫌がっていた遥華姉はほんの数ヶ月で僕はもちろん道場の誰よりも強くなった。その時となんだか同じ感覚がするのだ。だからきっと玲様もそうなるに違いない。
待っていた莫耶さんと一緒に大きな通りまで帰る。その道すがらでも玲様は給料袋の中を探ってどうやら金額を確かめているらしい。あとどのくらいで目標にまで届くんだろう。なんとなく聞きたくなくて、僕は黙ったままでその姿を見つめているばかりだ。
「直、どうかしたの?」
「ううん。なんでもないよ」
優しい声に胸を突かれたような気がした。きっと予定よりいい収入だったんだろうと思ってしまう。この声が僕にかけられなくなる日ばかりが頭に浮かんでしまって、なんだか玲様の顔をまっすぐに見られない。
「今日も乗っていく?」
「ううん今日は早いし、自転車で帰るよ」
このまま一緒に帰っても僕はきっとうまく話ができないだろう。きっと今、僕の顔は少し赤くなっていて悲しい顔を必死に隠している。玲様にはそれがわかってしまっているんだろうか。今日は強く引き止めることなく玲様は干将さんの迎えの車に乗って帰っていた。
僕はすぐに自転車に乗る気になれず、市街を目的もなくぶらついていた。まだそれほど遅い時間じゃない。うちの回りだともう街灯の頼りない明かりくらいしかないけど、この辺りならまだまだお店も開いているし、そもそも二十四時間営業のコンビニエンスストアだってある。一日中明かりが消えることなんてないのだ。
夏は近づいてきているけど、日が落ちた後の風の流れる通りはすこし涼しくて心地いい。このままどこかで買い物でもしていこうかな。そうすれば今のぐるぐると悪い方にばかり傾いていく考えも切り替わってくれるかもしれない。
「あ、そうだ」
一応これが僕にとって初めての収入だ。前の湊さんのところでやったモデルは一日限りだったし、友達のところだから別にするとして。やっぱり初任給っていったらお母さんとじいちゃんに何か買っていってあげるべきだよね。そういうものだとどこかで聞いたことがある。
通りを歩いていると、ちょうどケーキ屋さんが最後の売り尽くしセールをしているところに出くわした。そういえばここ最近はオムライスに追われてデザートどころじゃなかったもんなぁ。じいちゃんもたまにはこういう洋菓子が食べたくなっている頃かもしれない。
お財布に優しいカットされたケーキを三種類、一ピースずつ。お小遣いでも十分足りるくらいだけど、お小遣いで買うのとバイト代で買うのとではまったく違うのだ。
「ありがとうございました」
働いていると今まで何気なく聞いていた店員さんの言葉にも少し考えるところがある。僕はこの店に一度しか来ていないけど、この店員さんは何十人ものお客さんの相手をしているのだ。それを考えただけでいろいろ頼むのは申し訳なくなってくるのだ。
「これでよし。喜んでくれるかな?」
自転車のかごにあまり揺れないようにかばんで押さえながらケーキの箱を乗せて、僕は自転車にまたがった。考えてもまだ答えは出ない。玲様がパソコンを買うのもまだ来月の話だ。それまでに僕はどうするのかを考えればいい。
冷たい風を切って自転車を走らせていると元の普通の僕に戻っていく気がした。玲様のことを考えているとなんであんなに頭がぐるぐるしちゃうんだろう。僕は自転車のペダルを思い切り踏みつけながら自分じゃないものが体の中に広がっていくのを感じていた。
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