エプロンは身と心を引き締めてⅥ
翌週からバイトのシフトはまた二人とも同じ日に入るものに戻っていた。玲様がホールから厨房に移ったからだ。でも最初はホールをやる人が足りないって話だったのにいいのかな、と思ってしまう。二人入るとそれだけお金も必要になるだろうし。
「ごめんね。学校は大丈夫?」
「大丈夫です。部活もやってないし、何かやりたいことが見つかっているわけでもなくて」
人が多くて困るはずなのに、朱鷺子さんは僕の心配をしてくれる。本当に心の広い人だ。せめて仕事中くらいはこの期待に応えたいなぁ。
「そうなの。じゃあ直くんもお料理勉強してみたら?」
「そうしたらまたフロアがいなくなりますよ」
「それは、ちょっと困るわね」
少しも困った様子を見せないで朱鷺子さんは笑った。こうして朱鷺子さんとの話が増えたのも玲様が厨房に入ってしまったからだ。眞希菜さんはフロアに出るのは今でも禁止なので、自然と今まで厨房にいた朱鷺子さんがフロアに出ることが多くなった。
玲様の方はまだまだサイドメニューを作れないからそういうときは朱鷺子さんが行かなくちゃいけないんだけど、それもそのうち出来るようになるだろう。そうしたらオーナーが接客ばかりということになってしまうんだけど、それでいいのかな?
「最初は朱鷺子さんがお料理を作ってたんですよね?」
「そうよ。でも今は眞希菜ちゃんがいるから」
「それって、いいんですか?」
確かに眞希菜さんの料理はおいしいし今はもうそれを目的にしてお店に来ているお客さんもいるんだろうけど、自分のお店を他の誰かに任せてもいいのかな。せっかく自分のお店を持つことができたのに。
「せっかくやる気のある子がいるんだから場を譲ってあげないとね」
「眞希菜さんにいつかお店も譲っちゃうんですか?」
「それはまだわからないわ。若い子にはみんないろんな未来の可能性があるんだから」
もちろん直くんもね、と朱鷺子さんはウインクする。自分の可能性なんて僕にはまだ少しも見えてこない。ここで料理の修業をしたら僕にもなにか感じるものがあったりするのかな。僕に料理の才能があるとは思えないけど、やってみないとわからないともいえる。お母さんは上手なわけだしなぁ。
「だから違うって言ってんだろ!」
ちょっとしんみりした僕の耳に眞希菜さんの怒声が入ってくる。ここじゃ落ち着いて悩むこともできないなぁ。だから僕はいろいろなものを抱えたまま楽しくいられるのかもしれないけどさ。
「あーあ、またやってる」
ちょっと様子を見てきます、と朱鷺子さんに目で伝えると、朱鷺子さんも無言のまま頷いた。仕事は玲様一人でもこなせるけど、やっぱりこういうところは僕がいないとまだ安心できない。
厨房に顔を覗かせると、いつものように玲様と眞希菜さんが大声をあげながら睨みあっていた。もういつものことを通り越して日常の風景だから驚きはしないけど、おたまと包丁を持ったままなのは危ないからやめてほしい。
「今度はなんなの?」
「また眞希菜が文句言うのよ!」
なんだいつものことか。それ以外ならちょっと困るけど、玲様が眞希菜さんに文句を言われるのなんていちいち聞いていたら身が持たなくなってしまう。
「じゃあ何も問題ないね」
「どうしてそうなるのよ!」
玲様が包丁を持ったまま叫ぶ。そのままこっちに歩いてきたら逃げ出すところだ。じいちゃんなら逃げずに戦え、って言いそうだけど。それにしたって毎日叫んでいてよく嫌にならないと思う。一応毎回様子を見に来る僕の身にもなってほしいよ。
まだ何かぶつぶつと言っている玲様の頭を眞希菜さんがおたまの柄でつつく。的確につむじを突いた一撃は意外に痛かったらしく、玲様が恨めしそうに眞希菜さんを見上げている。
年上だと知ってからも眞希菜さんの玲様に対する態度が変わったようには思えない。元々朱鷺子さんに対してもあんな感じだから気にするような人じゃないのかもしれないけど、玲様との関係が変わってしまわないか心配だった。
玲様から見ても眞希菜さんは今までいなかったタイプの友達になってくれると思う。僕や湊さんはあまり玲様に強くものを言わないし、遥華姉には玲様がほとんど口答えできない。お互いに好き放題言い合える関係っていうのは大切だと思う。
「おら、次はハンバーグの仕込みだっていってるだろ。早く切れ」
「切ってたら文句言ってきたんじゃない!」
「今度はもっと細かく切れ。ハンバーグは肉を食うためにあるんだよ。いつまでも同じ大きさで切ってんじゃねぇ」
本当にこういう関係でいいのかなぁ? 自分で言っておきながらちょっと不安になってくる。本人たちは気にしていなくても僕の方が気になって仕方なくなりそうだ。
「なら早く言いなさいよ!」
「考えればわかるだろ。ハンバーグ食っててたまねぎの食感がしたら台無しだろうが」
僕は結構好きだけどな、大きく切ったたまねぎが入ったハンバーグ。なんとなく口の中がさっぱりして食べやすくなるし、ただただお肉が固まっているだけならステーキでいいと思ってしまう。実際はめったにステーキなんて食べられないんだけどね。
とはいえこの厨房での眞希菜さんは絶対だ。僕の意見なんて玲様のなんの助けにもならない。ここは黙っているしかないのだ。
「わかったわ、次からね。ここまではオムライス」
「こんなにあるんじゃ明日の仕込みはいらねぇな」
眉間にしわが寄ってはいるけど、眞希菜さんは玲様が切ったたまねぎの山をボウルに移して丁寧にラップをかけて冷蔵庫に入れた。きつい口調は変わらないけど少し態度が柔らかくなったような気がする。朱鷺子さんほどじゃないけど、ちょっと眞希菜さんの気分の読み方がわかってきたかもしれない。
険悪そうな言葉とは裏腹に狭い厨房でうまく身を寄せ合いながら作業を進めている姿に、なぜだか僕の心はざわざわと騒がしくなっている。ほとんど一人きりでいた玲様に友達が増えていく。とてもいいことだってわかっているはずなのに、どうして。
なんだかここにいることがとても悪いことのように思えて僕は二人に気付かれないようにそっと厨房から離れた。
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