三章

割烹着は台所で躍動してⅠ

 今日は玲様がシフトの日で、僕はゆっくりと家に帰ってきた。なんだか最近は時間に追われることが多くてなんだかせわしなかったから意味もなくのんびりと歩いて帰ってきたところだった。


「おかえりなさいませ、直様」


 体にまとわりついた汗を拭いてお茶でも飲もうと台所に向かう途中で、何故か居間に干将さんが座って冷たい麦茶を飲んでいる。隣に玲様の姿はない。バイトに行っているはずだから送ってきたところなんだろう。


「一人で家に来るなんて珍しいですね」


「すみません。奥様に言伝ことづてを頼もうと思ったのですが、直様が帰ってくるまで待てばよい、と半ば強引に」


「ってことはなにかあったんですか?」


 玲様がさっそく眞希菜さんと衝突でもしたのかな? それとも手の内を明かさないためにバイトに行かないと言い出したとか。でも責任感はある方だし、また別のトラブルが?


「我々だっていつも問題を抱えているわけじゃありませんよ」


 干将さんは慌てる僕を見て少し寂しそうに言った。ちょっと失礼だったかな。でも僕の経験上干将さんと莫耶さんはいつも玲様のことで大変な思いをしているようにしか見えない。


「そういえば莫耶さんは?」


「お隣に遥華様の家に行ってもらっています」


「遥華姉の?」


 何か遥華姉に玲様、もしくは中条家から人が行くようなことってあるかな。まさか今さらあの大立ち回りに怒ることもないだろうし。警備員として雇いたい、とかならちょっとあり得そうだけど。


「冷蔵庫を見ていただければわかりますよ」


 不思議に思っているのが顔に出てたかな。お付きなんて仕事をしているからただ察しがいいのかもしれないけど。干将さんはうちの冷蔵庫の方を掌で差したまま動かない。話すより見ればすぐにわかるってことなんだろうけど、ちょっと怖いような。


 そもそも僕は冷蔵庫にお茶を取りに来たのだ。気付いてしまうと、余計に喉が渇いてくるように思える。冷蔵庫の扉を開けると冷やされた空気が顔に当たる。それと同時に目に飛び込んできたのは庫内いっぱいの黄色だった。


「ちょっと、これどういうことですか?」


「オムライスです」


「いや、それはわかりますけど」


 衝撃的な光景に急速冷凍されて止まっていた頭が動き出すと、すぐにどこから出てきたかわかってくる。


「これ、全部玲様が?」


「はい。玲様が作り続けているオムライスの消費を手伝っていただきたいのです。もう奥様は黄色いものを見るだけで怯えるほどで」


 それで莫耶さんは遥華姉の家に行ったんだ。オムライスを持って。ざっと数えただけで二十個はあったかな。うちはお父さんが単身赴任で三人暮らし。簡単になくなる量じゃない。道場生にも配った方がいいかもしれない。


「そんなに作ってるんですか?」


「ええ。とても張り切っていらっしゃるようで、奥様も応援されていました」


 そろそろ止めた方がいいんじゃないかな。


「最初は我々で食べていたのですが、さすがにみんな参ってきましてね」


 干将さんは困ったように笑っているけど、話を聞く限りそんなに余裕のある状態には思えないんだけど。ちゃんと寝てるのかな、玲様。いったいどれだけのオムライスが一日に出来上がっているんだろう。


「気になるようでしたら、会いに来てあげてください。一人だと思い悩むことも多いでしょうから」


「そうですね。今度の休みにでも行きますよ」


 優しい声色でそういった干将さんは少しだけ頬を緩ませた。きっと干将さんや莫耶さんには思っていても立場上できないことはあるんだろう。でも僕なら玲様の友達としてやってあげられるってことなのだ。この二人にそう思ってもらえているなら自信も沸いてくる。


「あ、直。おかえり。お茶のおかわりはいかが?」


「いえ、もうおいとましますので。ご丁寧にありがとうございます」


 あら残念、とお母さんは持ってきた麦茶のやかんから残りを僕のコップに移した。新しいのを沸かそうと思ったけどちょっと残っていただけみたいだ。


 それにしてもこんな立派なスーツを着た大人の干将さんをお母さんはどうして僕の友達だと思っているんだろう。聞いてみたいような知らないままの方がいいような。じいちゃんはお父さんのお父さんのはずなのに、なんか妙のお母さんの方が似ている気がしてならない。やかんが空になってまた台所に戻っていったお母さんを見てから干将さんはゆっくりと立ち上がった。


「それでは、直様。今度のお休みにお待ちしております」


 ちょっとだけ声に真剣みが帯びている。なんだか重要なことを安請け合いしちゃったみたいだけど、今さら断ることもできるはずがない。なによりどうにかして止めないことにはこのまま僕もオムライス恐怖症になってしまいそうだし。


「ぜ、善処します」


 帰っていく干将さんを送ってから居間に戻ってくると、お母さんが夕食の準備をしている。もちろんメニューはオムライスだ。


「玲ちゃんが頑張って作ったんだって。お母さんは嬉しいでしょうね」


 その玲様のお母さんはオムライスに怯えてるって話なんだけどね。お母さんは和食が多いから家でオムライスを食べるなんてちょっと不思議な感じがする。


 玲様のオムライスはまだまだ練習中みたいで玉子はちょっと破れているし、デミグラスソースの代わりにケチャップを使っている。チキンライスも濃い味付けで具材の大きさもバラバラだ。眞希菜さんの作ったものには遠く及ばないだろう。それなのに、僕にはまかないで食べたオムライスよりもおいしく思えた。


 玲様の頑張りは全然無駄になんてなっていない。この玉子にしっかりと包まれて入っているのだ。ただ僕はそのオムライスがまだ冷蔵庫いっぱいに残っていることを思い出していろんな意味で胸が詰まるような気がした。

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