第4話 無為の結末

 夢を、見ていた。

 台所で四日が夕飯を作っていて、俺はそれを眺めている。


ズキン


 夢のはずなのに、体の節々が痛かった。

 あんまり痛いものだから、四日に助けを求めて手を伸ばすと、腕ごとズルリと落ちてしまった。痛いはずだ、よく見ると体のあちこちが腐ってしまって虫食いのようになっている。

 ビックリして後ずさると、右脚も膝のあたりからズルリとズレて倒れてしまった。

 立てない。立てない。残った片手足でもがいていると、四日の体がこちらに向いた。けれどこちらを見ていない。四日はオタマ片手に食器棚へ向かう時、俺を踏みつけていった。

 ズブリ、四日の足は腐った俺の体に沈み込み、俺は痛みで気が触れそうになった。

 視界の端に叔父が見えた。やった、助けに来てくれた。

 もう動くこともできなかったけれど、助けて、と叔父を呼ぶと叔父はこちらにやってきた。

 ズブリ、叔父は俺の胸の辺りを踏みつけるとそのまま冷蔵庫からビールを取り出した。叫びたかったけど、胸が潰れてしまって声が出なかった。

 ズブリ、ズブリ、ズブリ、ズブリ。

 最後に頭を踏み潰されて、俺の世界は真っ暗に染まった。






●●●






「ガッ…!いてえ、なんだ!?」

 天地がひっくり返った。

 大げさな話じゃない、本当に天井が床に、床が天井に。

 その衝撃で俺は目を覚ました。異常はそれだけじゃなかった、全身がびしょ濡れだ。

 そこでようやく気づいた、テントの中に水が入り込んでいる。


バババババババババババ


 同時に周囲で鳴り響く凄まじい轟音の正体が、雨の音だと理解した。


(やばい)

 そう直感した俺は、歪な形にゆがんだテントからなんとか這い出て入り口のジッパーを開けた。


「うぁあああああ!?」

 外は一面暗い水、そしてその水がテントの中に流れ込んだ。

 幸い水位は立った俺の踝程度の高さであり、俺と荷物の重さでなんとかテントは流されずに済んでいたようだ。


(増水……!)


 ようやく俺は自身の置かれた状況を把握する。今が何時なのかはわからないが、あの時降り始めた雨が勢力を強め、川の増水を招いてしまったのだ。

 自身の思慮の足りなさを嘆く暇は無かった。俺は半ば無意識にリュックとキャリーケースを掴み取り、川に足を取られながらも岸への脱出を試みた。


(急がないと本気で死んじまう…!)

 そう焦って行動を起こしたものの、全ては遅すぎた。


ゴウッ


 そんな音がしたかと思った次の瞬間、俺のふとももほどにまで達する激流が俺を襲った。立つとかそういうことを考えられるレベルじゃない。俺の身長の半分程もない流れに俺は文字通り飲み込まれた。



《死ぬ》



 今の俺の中にはその言葉だけがあった。

 がむしゃらに岸へたどり着こうと手足を動かした。

 幼いころ水泳を習っていた。その経験を生かし流れに逆らわず、かつ前へ進もうと必死で動かす。邪魔なリュックを外し、自らの生存を最優先に方角もわからないまま岸へ向かう。永遠にも思えたが、実際には数十秒ほどのことだっただろう、俺の手が草を掴んだ。

 必死にそれにしがみつき、陸へ揚がる。


 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、言いようの無い歓喜と疲労感に包まれる。数回深呼吸をした俺は、周りを見渡した。月星が雲に覆われ視界はすこぶるよくはなかったが、目が慣れてきたのかうっすらと見える川の広さが伺える。

 元来た道も当然水に埋まっており、引き返すことなどできそうにない。

 川の規模は3~4倍に広がり、今もその勢いを増そうとしているようだ。

 ここから逃げなくては。俺はもう完全に恐慌状態に陥っていた。足場や視界の悪さを意に介すことなくとにかく前へ前へ、その場から離れることに必死で体を動かした。



●●●



 どれくらいそうしていただろうか、少し頭に冷静さが戻ってきた。痛い、脚が焼けるようだ。靴も履けなかったのだ、恐らく足は傷だらけだろう。

 だがそんな足が気にならないほど、とにかく寒かった。

 当然だ、未だ雨は降り続き容赦なく俺の体温を奪い去っていた。自分がどこにいるのか、この雨がいつ止むのか、何一つわからない。ただ一つわかることといえば、俺はこのままだと確実に



《死ぬ》



ドクン

 そう考えた瞬間寒さからではない、心の底から湧き出る恐怖が俺を震るわせた。


「やだよぉ……やだぁ……」

 成人男性とは到底思えない情けのない声を上げ、涙や鼻水色々な者を垂れ流し俺は再び歩き始めた。行き先などあるわけが無い、ただ自分から命を取り上げようとする死神から逃げるために、歩みを止めるわけにはいかなかった。


 歩き、歩いて、歩き続け、転んだ。


 何かに蹴躓いたのかもしれない、足場がどうなっているのか、もう感覚が薄れてよくわからない。口一杯に泥の味が広がる。


(最後に感じる味が泥って…はは、やだなぁ。)

 本当の本当にどうしようもなくなったことを察する。

 俺はこのまま死ぬ、それは確実だろう。

 だがまだ頭は動く、体は動かなくても、最後の瞬間まで何かを考えていたいと思った。

 俺がこの世に生まれ、育ち、何をしたのか。

 薄れゆく意識の中で必死に考える。

 俺は何だったのか、何をしたのか、何がしたかったのか、俺は、俺は、俺は………




(何もねえな。)




 何も、ない。

 日々をただ生きるという意志すら持たずに生きて。

 自分が生き続けることになんの疑問も持たず、ただ生きて。

 何もかもに頼りきり、その命を繋いでいたのが俺だ。

 そんな俺を生かした人に、世界に、全てに俺はなにをしていただろうか。



(何もしてない。)



 頼っていたという自覚すらなかったのだ、今この段に至っても後悔こそすれ感謝という気持ちはピンとこない。何かをしようとして生きていたわけではなく、ただ死ぬのは嫌だから生きただけ。

 本来生き物が生きる目的においての逆転現象が、俺をこうも腐らせたのだろう。これはその結果なのだと、俺は理解する。

 そして同時に、俺は自分がどんな存在であったのかを知った。


(俺は、誰でもなかった。)


 他人の、友人の、家族の。

 皆誰かの何かとして生きているのだ。

 その積み重ねの先に社会が、国が、世界が成立している。

 俺はなんだったのだろう。

 俺を唯一必要としていたはずの家族からは棄てられた、友人なんて一人もいない、他人のことなんて考えたくも無い。

 頼り続け、逃げ続け、誰からも傷つけられない場所に閉じこもった。誰かを傷つけ、傷つけられ人は誰かの何かになっていく。

 そんな当たり前の営みから逃げ出した俺は…



『誰からも必要とされてはいなかった。』



 喉を震わせる力も残っていない、掠れた無声音で俺は呻いた。

 寒い、寒い、体だけではなく心が凍てついていく。

 生きるということへの熱、それが喪われていくのがわかる。

 嫌だと心が叫んでも、急速に俺の意識を闇へと誘う。

(いいじゃないか、全てがここで終わるなら、それもありだ。)

 もう全てが手遅れなのだ。

 俺を受け入れてくれる人はもう誰もいなくなってしまった。

 今更新しくどこかで生きるには、俺はこの世界のことを知りすぎているし、この世界は俺のことを知りすぎている。

 もし生まれ変わりなんてものがあるのなら、その時こそ本気を出すさ。

 色々な理由をつけて恐怖を和らげようとした。

 少しは気持ちが楽になったが、やはり消せない気持ちがあった。

《誰かに必要とされる喜び。》

 たとえ奇跡が起こって生まれ変われたとしても、今の俺がそれを知ることは無 い。

 それだけが、少し寂しかった。

 急に眠気が襲ってくる。ついにお迎えがきたみたいだ。

 人気の無い木立の中、俺は静かに意識を手放した。



●●●



 東雲甲が昏倒して数分後。

 突然、彼を容赦なく打ち据えていた雨が止んだ。

「あっちゃー、遅かったか!待って、死なないで!」

 雨と同じくらい突然に、彼の隣に一人の少女が現れていた。

 彼女は甲の姿を見て、慌てたようにそんな言葉をかけたが、彼がその言葉を認識することはなかった。

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