エピローグ
30:フラットリリーはきらめかない(前)
同人ショップ『子猫ブックス』に足を踏み入れると、今日も店内にはSkuldの歌声が響き渡っていた。
軽快なメロディに心地良さを覚えつつ、俺と静葉はフロアの奥まで移動する。
健全同人誌の売り場を目指し、美少女系二次創作ジャンルが陳列された区画へ進んだ。
並んでいる本は、今夏の「コミック・ロケーション」で頒布された新刊が中心である。
「この夏は、かなえみ本が増えたみたい」
ミントブルーのワンピースの裾を翻して、静葉は棚の前に向き直った。
『ラブトゥインクル・ハーモニー』の同人誌が置かれた場所を眺め、少し眉を顰める。
「かなえみも好きだけど、きょうきこ本が徐々に減っているのがちょっと」
たしかに棚に面陳されている同人誌の割合は、静葉の指摘通りに変動しているように見えた。
こればっかりは需要と供給の市場原理なので、致し方ない。
もっとも、あくまで同人誌は「好きなものを好きに作る」べき文化だ。
発行部数を調整したりする上で、世間の流行をある程度参考にすることは有用だが、そこに迎合する必要はないと思う。
「でも、そのぶんずっときょうきこで本を作り続けてるサークルは、推しカプに対する思い入れが強いってことだろ」
俺は、やんわりと静葉を諭した。
「ただ何となく人気が取れそうだからって理由で作られた本より、本気で好きなもののために作られた本の方が、こっちだって読んでて気持ちがいいじゃないか」
「……まあ、それはたしかにそうかもね」
得心したようにうなずいて、静葉は同意を示してみせる。
それから、おもむろに俺の手を取って、引っ張ろうとした。
所作に伴って、長い黒髪がさらりと揺れる。
「それじゃ、とりあえず新しく入荷した本をチェックしていきましょう」
静葉は、気を取り直した様子で、微笑んだ。
「私たちのサークルが、次に作る同人誌の参考にするためにも」
――そう。
俺と静葉のサークル「百合月亭」は、今後も同人活動を継続することになった。
これからも、二人で地道に同人誌を作り続けていこう、と思う。
静葉がネットで調べたところ、今度は秋に地元で『ラブトゥインクル』シリーズのジャンル
俺たちは、そのイベントを目指して、次の本を発行しようと計画を練りはじめていた。
さすがにオフセット印刷の新刊は、現状だと予算的に厳しいけれど、僅少部数の頒布ならコピー誌で発行するのも悪くない。
それなら、もっと気軽にイベント参加できる。
とにかく、そうやって本を作り続け、少しでも納得がいく作品に近付けていこう。
そうすれば、俺たちの好きなものに共感して、一言でも二言でも、頒布物に感想を寄せてくれる人が現れてくれるかもしれない。
それこそ、最初の同人誌を買って行ってくれた女の子みたいに。
……ちなみに静葉は、あの感想をくれた女の子と、今でも
現住所は笠霧市内ではなく、隣町に住む中学生だったらしい。
二歳年少で、いまや静葉を姉のように慕っているという。
けっこう互いの自宅は距離があるから、頻繁に会うことはできないけれど、ある意味では第三の「同好の士」ができたわけだ。
こういう親交が予想外に生まれるのも、同人活動の醍醐味だよな。
なんだか微笑ましい。
この夏の同人誌作りで、俺たちは多くのものを費やし、あるいは失ったと思う。
だがその引き換えとして、目に見えぬものによって満たされ、変化し成長した。
それは、新たな友人を得たこともそうだし――
俺と織枝静葉に関わる諸事についても、同じことが言える。
「ねぇ、侑也くん。この本の表紙、凄く綺麗な塗りじゃない? ――私と同じペイントソフトで彩色してるとは思うんだけど……どんなブラシの設定だったら、こういう色が出るのかな」
静葉は、棚の同人誌を一冊左手で取って、すぐ隣で意見を求めてきた。
……ちなみにもう片方の腕は、俺の腕に絡めている。
おかげで、二人の身体は完全な密着状態だ。
こうしていると、何やら妙な汗が噴き出してくる。
無論、ちゃんと店内には、空調が効いているはずなのだが。
「な、なあ静葉。今日は新刊チェックするのに、二手に分かれて調べないのか」
俺と静葉は、互いに身を寄せ合っている。
それゆえ当然、揃って同じ棚の前に立っていた。
「これだと以前に比べて、一通り見ていくのに倍の時間が掛かると思うんだが……」
「……だって、侑也くんと二人で並んで、一緒に同じ本を見たいから」
気になって訊いてみると、静葉は拗ねたように口先を尖らせた。
ちょっぴり機嫌を損ねてしまっただろうか。
俺は、慌てて弁明し、場を取り繕おうと試みる。
「い、いや。でもほら、さすがにちょっと恥ずかしいだろこれ」
年頃の男女が、過度に人前で親密そうにしていた場合、第三者はどういった所感を抱くか。
周囲の反応を想像すると、いくらか自重した方が望ましいと思う。
しかもぴったり触れ合った腕は、肘の付近が柔らかいものにぶつかって、気持ちいいけど色々と辛い。
気を緩めると、正常な判断力が崩壊しそうなんだけど!
けれど静葉には、まるで俺の心中など伝わっていないらしかった。
「たしかに少し恥ずかしいけど……。今日は何となく、こうして居たい気分なの」
柔らかい身体を殊更押し付けつつ、駄々っ子みたいな口振りでつぶやく。
「もう私たちって、お互い恋人同士なんだし」
……ああ、そうとも。
織枝静葉は、我が「同好の士」にして、同じ高校に通うクラスメイト。
そんな彼女と、たしかに俺は先週から正式な恋人同士になった。
付け加えると、三日前からはバイト先の同僚でもある。
この子の紹介で、複合型書店「翠梢館」に雇われることになった。
なんだか短期間で、随分と親密になったもんだなあと思う。
あと数日で夏休みも終わるけど、学校がはじまって二人の仲が知れたら、周囲はどんな反応を示すんだろう。
楽しみなような、少し怖いような。
まあ、とにかく何にしろ。
世の中には、何事も節度というやつがある。
交際中の男女であれば、どこで何をしてもいいなんて法律はない。
これはやはり、あとで少し言って聞かせるべきじゃなかろうか。
やや沈思して、俺はそんな決意を抱き掛けていたのだが――
「……あのね、侑也くん」
そのとき、静葉は何を思ったのか、俺の肩に自分の頭を擦り寄せてきた。
「私、やっぱり君のことが大好き」
…………。
……いったい何なんだ。
この脈絡のない会話の流れは……。
まるっきり、初めて恋人ができた者同士のバカップルじゃねーか。
いや、お互い初めての恋人なのは、たしかにその通りなんだけど。
「い、いきなり何なんだよ」
「何でもいいでしょう。急に言っておきたくなったの」
少しだけ瞳を細めながら、静葉は俺だけに聞こえる声で囁く。
「――『心から好きなもののことは、誰に向かっても正直に好きだと言えるようになりたい』。……ねぇ。君だってそうでしょう、侑也くん?」
〇 〇 〇
さて、唐突だが、以前の俺には創作経験というものがなかった。
漫画も小説も、自ら何かを作ってみようとしたことはなかった。
せいぜいの例外は、小学校で提出した作文ぐらいだ。
……だが、その作文が今頃になって発掘されるなどと、まさか誰が予測し得ただろうか。
――――――――――――――――――――――――――――
「 『しょうらいのゆめ』
三年一組 さえき ゆうや
ぼくはしょうらい、心から好きなもののことは、
だれにむかっても正直に好きだと言えるような大人
になりたいと思っています。
………………………………………………。 」
――――――――――――――――――――――――――――
「本当に私が、同人ショップで君を見掛けたからってだけで、同人誌作りに誘ったと思う?」
数日前、静葉は「翠梢館」のカフェスペースで、取り澄ました顔で言った。
「同人活動に勧誘する前――侑也くんの素行を一ヶ月半ぐらい、私が観察していたって話は覚えてるよね」
そりゃ、もちろん忘れられるはずがない。
「つまり、今年の五月下旬頃だったんだけど。丁度中間考査が終わった時期だったの。……侑也くんが現代文で満点を取って、教科別で成績トップだった試験だよね。こないだ私から話題を振っても、君は曖昧に誤魔化してたけど」
……何だよ、こいつ。
そこまで知ってたのかよ。
「平均点より上の成績だって言ったのは、間違ってないだろ」
「まあ、ストレートに自慢するのは気が引けたんでしょうけど、事実と異なる嘘は吐けない――そういうところは、侑也くんらしいと思っておいてあげる」
なぜか静葉は、上から目線で理解を示してみせた。
「それで話を戻すけどね。あの頃、侑也くんはクラスで他の男子と、ちょっとだけ休憩時間の教室で口論になったことがあったよね」
「……それって、たしか――」
俺は、かつての出来事を思い出す。
そうだ、あれはアニメ『ラブトゥインクル・ハーモニー』放映当時。
――最近、あちこちで「
教室内でオタク趣味に縁のない連中が、そんなことを口さがなく談笑していたんだった。
ちなみに「狂オタ」っていうのは、ネット上で『ラブクル』ファンに対して用いられている、一種の蔑称だ。
それで大まかな話題の内容は、たしか「ああいう奴等は、深夜のアイドルアニメなんかに熱を上げて恥ずかしくないのか?」というような、侮蔑的なものだった。
まあ、単にそれだけであれば、俺も黙って聞き流すに止めただろう。
他人を見下すことでしか優越感を得られない人間と、あえて自分から関わる趣味はない。
けれど、その連中はあのとき、わざわざ俺に意見を求めてきたんだ。
「冴城はアニメが好きなんだろ? おまえ的にどうなの、あーいうやつってさ」
そう訊かれたから、俺は正直に答えた。
『ラブトゥインクル』は面白い、たしかに一部に行き過ぎたマナーが悪いファンも居るかもしれないけれど、誰が視ても馬鹿にできるようなアニメじゃないぞ、と。
その先のやり取りは、もう詳細に覚えていない。
でもたしかに、ちょっとした口論になったのは事実だ。
心から好きなもののことは、誰に向かっても正直に好きだと言いたい。
俺は、ずっとそう思い続けてきた。
それゆえ、自分の信念を貫いただけだ。
「教室の隅から、そんな君の姿をこっそり見ていて……実はもう私、あの頃には侑也くんに惹かれはじめていたんだと思う」
静葉は、パイナップルジュースを一口ストローで飲んで言った。
楽しげな笑みを浮かべた顔は、頬が赤く染まっている。
「この人と一緒に同人誌が作りたいって、ますます強く思ったの」
「な、なんでそうなるんだよ」
「だって、誰の前でも、好きなものは好きって言える人なんだと思ったから。そういう人なら、きっと信用できるし、裏切られないだろうし……」
そりゃまた凄い思い込みだ、と言わざるを得ない。
ただ、それが事実とすれば、またひとつ俺は勘違いをしていたことになる。
というのは、織枝静葉が「同好の士」として、冴城侑也を同人活動に勧誘した真の理由について――
この子は、決して「他に適当な相手が居ないから」なんてネガティヴな意思で、消去法的に俺を選んだわけじゃなかった、ってことだ。
しかしまあ、とにかくそんな経緯もあって。
以後、静葉の俺に対する素行調査は、いっそう捗ったらしい。
……そうして、やがて互いの自宅住所から、静葉は二人が同じ小中学校に通っていた事実に気付いたという。
こうなると、身元を洗う情報源が一気に膨れ上がる。
卒業アルバムを開くだけでも、相手の過去をたどることはできるし――
物持ちがいい人間なら、古い文集の類を保管していたりするだろう。
「たぶん、侑也くんの作品構成力の高さって、今にはじまったことじゃないんだと思う」
静葉は、一人で勝手に納得したように言った。
「何しろ、国語の授業で書いた作文……笠霧市内の児童文集にも掲載されて、金賞まで受賞していたじゃない。『しょうらいのゆめ』っていうテーマはありきたりだけど、私も読んで感動しちゃうぐらいに良かったもの」
うあああああ……。
頼むから、それ以上は勘弁してください静葉さんッ!
昔の自分が書いた文章を、他人に読まれるこの悶絶感。
どうか、ひとつ心中を酌んで頂きたい。
あれは小三の頃の担任教師が、知らないうちに勝手に教育委員会に提出して、気が付いたら賞状を押し付けられていたやつなんだ。
それが、まさか市内全域の小学校で、全児童に無料配布される文集に掲載されるだなんて。
書いたときには、まるっきり思ってもみなかったんだよ!
俺は、自室の本棚を思い出さずにいられなかった。
漫画単行本や同人誌の隣に並べてある、卒アルや文集……。
ああいうのって、処分するにも捨てるに捨て難いんだよなあ。
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