7:子猫ブックスに潜入せよ!
JR翠ヶ丘駅は、自宅から徒歩一七分という、やや微妙な場所に位置していた。
バスを利用するには近く、歩くにしては少し遠い。
ただし大抵は、逡巡の末に徒歩を選ぶ。
短距離移動に小銭を払うのが、何となく惜しいからだ。
草笛通りを真っ直ぐ進むと、しばらくして駅前に出る。
構内東口にある自動券売機の傍が、予定の待ち合わせ場所だ。
立ち止まると、額から汗が吹き出していた。夏場だけあって暑い。
スマートフォンを取り出して、現在の日時を確認する。
七月八日(日曜日)の午後〇時二五分――
約束した時刻の五分前。丁度いい頃合だ。
四日前の打ち合わせで、俺と織枝は結局、近日中に同人ショップ「子猫ブックス」まで赴く旨を決定した。
もちろん、同店で取り扱われている同人誌を調査/研究するためである。
それにしても、週明けから高校の期末考査が実施されるというのに、その前日に外出するのはいかがなものなのか?
――という意見もあるのは、当然承知している。
しかし、俺たちの活動には「原稿〆切」という、実際的で切実な問題があるのだ。
あまり先延ばしにはできなかったし、織枝は土曜日にバイトのシフトが入っていた。
これは、直近で午後に学校の授業がない日を、消去法的に選んだ結果である。
「織枝は……まだ来ていないのか」
ぐるりと辺りを見回して、小声で
構内を行き交う人の中には、それらしき姿が見当たらない。
もう一度、スマホの液晶へ視線を落とす。
午後〇時二八分。
そろそろ着いてもいい頃合だが。
「――――さえき、くん……」
……と、にわかに名前を呼ぶ声が聞こえた。
「――冴城くん、こんにちは」
背後から、シャツの半袖を引っ張られる。
はっとして振り向くと、すぐ傍に誰かが立っていた。
メガネを掛けたポニーテールの女の子だ。
淡いブルーのワンピースに身を包み、小脇にトートバッグを抱えている。涼しげなデザインの着衣はパフスリーブで、襟や裾に白いレースやラインがあしらわれていた。
俺は、たっぷり三秒ほど、その全身を上下に眺め回してしまった。
「……お、おまえ――もしかして、織枝か……?」
動揺を抑え切れぬまま、ようやく声を絞り出す。
きっと今、俺はさぞかし間抜けな顔をしているのだろう。
けれど、どうかご容赦願いたい。
私服姿の彼女は、長い黒髪を高く結い上げ、リボンでまとめている。
レンズ越しに覗く表情は、僅かにうつむいていた。
――無論、服装にしろ髪型にしろメガネにしろ、それらは平時と比して、ささやかな変化にしか過ぎない。
にもかかわらず、目の前に居る女の子は、いつもの俺が知っているクラスメイトと、かなり印象が違っていた。
「もしかしなくても、一年A組の織枝静葉だけど」
その女の子……
すなわち織枝静葉は、ちょっとだけ不機嫌そうに返事した。
メガネを外して、トートバッグから取り出したケースへ入れる。
露わになった瞳は、いつもの吸い付くような引力を帯びていた。
たしかにこうして見れば、紛うことなき我が「同好の士」だ。
「私だって、気付かなかったの?」
「いやまあ……けっこう学校と、雰囲気が変わってたからさ」
幾分言い訳じみた言い草だが、事実だし仕方ない。
付け加えると、いつの間に織枝が背後から接近していたのかもわからなかった。
「織枝って、視力が悪かったのか」
「裸眼でも日常生活に支障はないけど、ほんの少しだけ近眼なの。学校がある日は、コンタクトを着けてるし」
織枝は、すっと目線を逸らし、居心地悪そうに言った。
「……やっぱり、今日もコンタクトの方がよかったかな」
「どうしてだよ」
「冴城くん、私のこと見て驚いた顔したから。――メガネ、似合わないと思われたのかなって」
おいおい。
何だその誤解は。
「あのな、そんなんじゃねーっての。今も言ったけど、学校で会うときと雰囲気が違ってたから、軽くビビっただけだって」
俺は、つい溜め息を漏らして、自分の頭髪を軽く掻き回す。
「それより、早く行こうぜ。ずっとここでウロウロしてても、はじまらないだろ」
うながすと、織枝は素直に同意してくれた(まだ何か言いたげではあったが)。
改札を潜って、プラットホームから電車へ乗り込む。
車内で三〇分余り揺られると、JR笠霧駅に到着した。
構内から出て、目の前の車道を渡れば、目指す目的地はすぐそこにある。
俺と織枝は、迷わず七階建ての雑居ビルへ入った。
エントランス前のファーストフード店を横目にすり抜け、エレベーターに乗り込む。
このビルの三階こそ、同人ショップ「子猫ブックス」笠霧駅前店なのだった。
エレベーターホールを離れ、自動ドアを通過すると、店内の賑やかな光景が目の前に広がる。
フロア全域は、スピーカーから流れる耳慣れたメロディに満たされていた。
♪――
星が降ったら走れ シャニムニ行こう乙女
視えない何かが 強く背中押すんだ
投げ捨てても後悔するなら一緒だって
ねぇ君は笑うのかな こんな私を ――♪
目覚ましアプリで、俺がアラーム音にも設定しているアニメソングだ。
『ラブトゥインクル・ハーモニー』の主題歌で、「夢の夜空の
それとなく聞いているだけで、微妙に気分が高揚してきた。我ながら感性が安い。
「それで、どうするの?」
出入り口に一番近い平台の傍まで来ると、織枝が問い掛けてきた。
「そうだな……」
ひとまず辺りを見渡して、思案する。
今居る位置は、店内でも主に商業作品が陳列された区画だった。
同人誌が置いてあるのは、このフロアを少し奥へ入った区画と、ひとつ上の階の売り場だ。
もっとも四階は主に成人向け――つまり、一八歳以上を対象とした内容の作品を扱った本が中心なので、俺と織枝には用がない。高校一年生だからな。
「差し当たり、この先にある健全同人誌コーナーで、『ラブクル』本をチェックしよう」
二人で一緒に、同人誌の売り場まで移動する。
『ラブクル』シリーズの本が並ぶ棚は、アニメ放映終了後も、新刊の陳列に幅が広く割かれていた。通路片側に並ぶ一列を、全体に渡って占めている。
さすが、美少女系作品の人気ジャンルだ。
ちなみに裏手の通路には、女性向け同人誌の棚がある。
「先月の一番人気・サークル【田園地域南駅】の『聖剣舞踏』本です!」
などと書かれたPOPが出ていた。
漫研やアニ同の女子なら、こういうのが好きなんだろうな。
「たしか『ラブクル』本の棚の列は、お店の出入り口に近い側が初代シリーズのみこまり本で、奥にあるのが『ハーモニー』のきょうきこ本のはずだけど」
勝手知ったる様子で、織枝が同人誌の置かれている場所を確認する。
「じゃあ、二人で列の両端から、ざっと手分けして漁ってみるか。俺は手前から順に見ていくから、織枝は向こう側から頼む。――それで、ある程度チェックしたら、その都度互いに本の内容や傾向を報告し合おう」
提案すると、織枝は「うん、わかった」と答えて、傍を離れていった。
それを見送ってから、俺も持ち場に選んだ棚と向き合う。
「さて……。それじゃあはじめますか」
同人ショップでは、たぶん九割以上の本が「
俺は、手を伸ばして、まず棚の右上の端にあった本を取ってみた。
初代『ラブクル』のみこまり本、初出は先月下旬に関東の即売会で頒布された新刊らしい。作者は、商業活動もしているプロの漫画家。
みこまりは『ラブトゥインクル』でも、初代シリーズで一番人気と評判の百合カプだ。
続編シリーズ放映後も、いまだに根強い支持層を抱えている。
とりあえず、じっくり表紙を眺めてみた。
プロが発行している同人誌だけあって、絵はやたらと上手い。当たり前か。
フルカラーで、彩りも華やかだ。元の原稿は、CG着色のデータなのだろう。構図も躍動感がある。みこまり推しのファンなら、この表紙だけでも購買意欲を刺激されるのかもしれない。
次に、本をひっくり返してみる。モノクロの見本コピーが数枚、裏側に付属していた。
「ねこブ」で委託販売されている同人誌は、基本的に透明な包装で覆われており、立ち読みで中身がたしかめられないからだ。
サンプルをパラパラ捲り、収録内容に一、二ページほど目を通す。
「……さすがにレベル高ぇなあ……」
思わず口から感嘆が漏れた。
見本で読むことができたのは、
サンプル末尾に記載された商品表示欄で、本の仕様も検めておく。
B5版で、総項数四〇ページか。
値札にある店頭価格は、六〇〇円(税抜)――
たしか、この値段は同人ショップのマージンが入っているぶん、即売会価格よりも少し高いんだよな。おそらく、イベントでは五〇〇円ぐらいで頒布されているんだろう。
一通りチェックし終えると、同人誌を棚に戻した。
それから、また隣に置かれている別の本を手に取る。
これもみこまり本だ。
サークル名と執筆者名は……どちらも初めて見る名前だな。
けれど、これも表紙は素晴らしくいい絵だ。
水彩調のフルカラーCGで、抜群に透明感がある。
収録されている漫画は、どうやら若干シリアス系のようだが、繊細な絵柄とマッチしていて、独特な雰囲気が感じられた。
B5、三二ページ、五〇〇円。
うーむ。みこまりは推しカプじゃないが、これは俺でも少し欲しくなるぞ――……
…………。
……そういった具合で、ひたすら『ラブクル』本を調べ続けていたわけだが。
俺は、一区切り付いたところで、ふと織枝のことが気になった。
今居る通路の反対側を、ちらりと眼差してみる。
果たして、我が「同好の士」たる織枝静葉は、尚も『ラブクル』本を熱心にチェックしている様子だった。いつの間にやらメガネを掛け直している。
数メートル離れた位置からも、横顔にただならぬ真剣さが窺えた。
何やら織枝のやつ、片手に同人誌五、六冊持ったままで、売り場を物色し続けているな。
どうやら後学のためも兼ねて、いくつか購入していくつもりらしい。
それにしても(しつこいようだが)私服と制服じゃ、織枝は本当に印象が変わるなあ。
以前に何度も「ねこブ」ですれ違ってたのに、まるで俺が気付かなかったのも道理だ。
見た目だけなら、今日の織枝はどこかの文学少女かお嬢様って感じだぞ。
もっとも手にしている本は、文学作品なんかじゃなく、『ラブクル』の同人誌なんだが。
――と、また一冊キープしたみたいだ。買いすぎじゃねーの。
ていうか、注意して見りゃマジで可愛いんだよな、織枝って。
普段は教室じゃ、うつむいて地味にしてるから目立たないけどさ。
制服も可愛いんだけど、私服も若干キャラチェンジして可愛いって反則だろうが。
しかもポニーテールにお好みでメガネ属性追加かよ……
とか何とか、つい益体もないことを考えているうち、ちょっと
すると直後、予期せぬ出来事が生じた。
織枝がこちらを振り向いて、にわかに俺と目が合ったのだ。
一瞬、びっくりして身体が硬化しかけた。
なぜか胸の奥で、奇妙な気まずさが湧き上がってくる。
それは織枝も同じだったのか、どちらからともなく目を逸らした。
俺は、密かに深呼吸して気を落ち着かせると、再び棚に向き直る。
我ながら何やってんだ。それも同人ショップの売り場で。
今日この店に来た目的を、忘れるわけにはいかない。
もう少し身を入れて、同人誌をチェックしなければ。
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