終章

第50話 決断

 決断の日、最後にあのモーニングセットを食べようと、僕はアカネの店を訪れた。彼もそれくらいの時間はくれるだろうと思っていた。


 軽やかな鐘の音を聞くのもこれが最後だろうかと考えながら、木製の扉を開けた。


 カランコロン


 鐘は、期待通りの軽やかな音を聞かせてくれた。

「おはようございます。いらっしゃい」

 明るい声でアカネが迎えてくれた。店にはマキノさんも来ていてカウンターに座っていた。彼の計らいかもしれない。

「やあ、おはよう。おはようございます」

 僕はアカネとマキノさんに、立て続けに挨拶した。

「テーブルに移ろうか」

「いえ、ここで」

コーヒーを手にして立ち上がろうとするマキノさんを制して、僕もカウンターに座った。

「最後にお会いできてよかったです」

「最後?」

「はい。この街を出ます」

「引っ越すのか」

「ええ」

「いつ?」

「今日、これから」

「これから? ずいぶん急な話だな」

「ええ、やっと決心がついたので」

「決心、それは何の……あ、いや。そうか、淋しくなるな」

「はい」

 マキノさんは僕から何も訊き出そうとはしなかった。人にはそれぞれ事情があると、マキノさん自身が嫌になるほどわかっているからなのだと思う。僕のほうも訊かれて困るから、ドライなマキノさんがありがたかった。アカネも、マキノさんに倣って黙っていてくれた。もちろん、カウンターの中の男性も詮索しない。そういえば、この人の名前を僕は知らない。今更尋ねても意味がないから、そのままにした。


 台形型のトーストと、山盛りのサラダ。

 溶けたチーズのせスクランブルエッグ。

 フルーツとヨーグルトに、オレンジジュース。

 そして角砂糖を二つ入れたカフェオレ。


最後に僕は、この素晴らしい朝食を堪能した。さらに、みんなに驚かれる中ケーキも注文した。僕にとってはこれくらいの量何でもないこと。ペロリと平らげた。

 断るのを強引に、最後だからとマキノさんの分も僕が支払った。神様が都合してくれたお金は、それで全部なくなった。

「いろいろありがとう。元気でね」

「君も。赤ちゃんも元気で」

  膨らみが目立ってきたアカネのお腹に別れを言った。

「まだ若いんだ。したいと思うことを存分にすればいい。元気でな」

「マキノさんも」


   マキノさん、僕はそんなに若くないんですけどね……。


「もしまたこの街に来ることがあったら、必ず寄ってね。子供が生まれてもここで働いてるから。あ、お店があればの話だけど」

 アカネの言葉に、カウンターの中の男性が苦笑いした。

「必ず」

 僕は守れない約束をした。



 満たしきれていないお腹で、僕は部屋へ戻った。縮尺模型に向かって座り、前の街の部屋のカーテンで作った袋を解いた。丁寧にしわを伸ばし、ライトグリーンの四角い布に戻した。最後は四つに折りたたんだ。それを模型の中のこのマンションの上に置き、僕はそのときを待った。

 窓に掛かるグリーンのカーテンは微動だにせず、東からの陽の光を斜めに取り込んでいる。とても不思議な感覚に襲われた。テーブルは卓袱台になり、椅子は座布団になった。フローリングは畳に変わり、最初の街の、あの最初の部屋にいるような錯覚を起こした。

 ほどなく、でんぐり返しを二回した。



「よう、にいちゃん。久しぶり」

 生意気な黒羽の声が、ここがただただ広いところだと教えてくれた。

しばらくの沈黙のあと、神様が僕に言った。

「一応決まりだからするだけだが、決断の儀式だ」

「はい」


「決断の時来たり。汝が望みに偽りなしか」

 神様の言葉に空気が変わった。神様の体から、目には見えないオーラが放たれたのを感じた。黒羽までもが、この厳粛な儀式に相応しく見えた。

 これから僕が下す決断は訂正がきかない。決断した瞬間に、後戻りできなくなる。でも僕はためらわずに、はっきりと答えた。

「はい」

 神様のオーラは消え、黒羽も生意気小僧に戻った。


「後悔はないか?」

「はい」

「まあ、今さら後悔のしようがないがな」

「ええ」

「五十年、よく働いてくれた」

「はい」

「そう決断した理由を、聞かせてくれるか?」

 僕は答えた。


 万能ではないにしろ、神様から何もかも都合してもらって与えられるだけの毎日だった。果たしてそれで良いのだろうかと考えた。たとえ悲しみや恨み、挫折や後悔を味わうとしても、自分の生き方を自分自身で考え決めて、責任を取りながら生きてみたいと思った。

 たくさんの経験をして、たくさんの人と繋がって、欠けたものを補い合いながら、最期のときに笑えるように。


「なるほど」

 神様は頷いた。

「あとのことは俺に任せときな」

「ああ、任せた」

 はじめて、黒羽が頼もしく見えた。

「それではな」

「はい」

 僕はゆっくりと目を閉じる。神様の手が額に当たるのを感じた。以前のようなチクリとする痛みはなく、温もりを感じながら、僕は暗闇に吸い込まれていった。

 徐々に記憶が消えていき、やがて完全に無になった。

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