さよならの向こう側
背中に触れる硬質な感触。ひんやりとしている。
真っ平らな石の上にでも寝かされているようだ。
まぶたを開けた。真っ暗な視界が徐々に明るくなり、像が結ばれていく。
掃除が足りてない誇りっぽい棚。そこにならぶいくつものガラス瓶。薄汚れたテーブルの脚と円筒型のストーブ。古びた天井にはうっすらと蜘蛛の巣が貼っていた。この部屋の主は、よほど掃除が不得手とみえる。
その掃除下手が自分と気づくのに、さして時間はかからなかった。
そうだ、ここは…。
さゆりはようやく、自分がたつみやの床に寝転がっていたことを理解した。
ゆっくりと上体を起こす。
急に姿勢を変えたせいか、めまいに襲われた。目頭を押さえる。軽い嘔吐感が胃を押し上げようとする。まるで車酔いだ。
「ホントだ、目覚めた」
女の声がした。その声には、信じられないものを見てしまった驚きと動揺が入り交じっていた。
「イッタとおりダロウ?」
キンキンと甲高い声がした。聞き覚えのある無機物の声には、どこか勝ち誇ったような響きがあった。
声のした方に首を回す。
ブルーのジャケットとスカイブルーのスキニーパンツ、そして青い樹脂製フレームグラスと青まみれの女が、鏡の側に立っていた。
「あれ? あおいじゃん。なにやってるの、うちの店で」
その名のとおり、青いものが大好きな女、大和田あおいは、さゆりが自分の名を呼んだ事に驚き、ビクッと肩を震わせた。
「どうしたのよ、あおいったら?」
あはは、と笑うが、あおいの顔は微妙にひきついっていた。そして何度も首を横に振る。いつもの自信に溢れ、態度不遜な彼女にしては、珍しく動揺しているではないか。
そういえば。
なんだか自分の声が、高いように聞こえる。自分の声なのに、いつもの自分の声ではないような。
気のせいだろうか?
「よっと」
かけ声と一緒に立ち上がる。しばらく床で寝転がっていたのだろう。ググッと身体を伸ばすと、凝り固まった筋気持ちよかった。
気持ちがリセットされたところで、なぜ自分がここにいるのだろう、というごく基本的な疑問にぶち当たった。
意識と記憶が混濁していた。
目覚める前の自分が何をやっていたのか、今ひとつ実感がなかった。
確か、
だが、それが現実なのか、夢なのか、判別がつかなかった。
それが夢オチなどではなく、仮に事実であったとすれば…。こののどかな現状はなんなのか。
最後の記憶は…。
魔力と竜気が尽きて、輝銀竜の口腔に青い光が満ちて…。
死を覚悟した。魔力が尽きて障壁を作れない。竜気がなければ身体を再生できない。
そんな状況に追い込まれ、輝銀竜の原子熱線を浴びたような気がする。
だが、さゆりは生きていた。
どんな奇跡が起きたかは分からないが、さゆりは死んでいなかったのだ。
それどころか、戦いの気配などどこにもない、平和すぎる自分の店に舞い戻っていた。
これは、どういうことだろうか。
「サユリ」
沈黙を破ったのは、鏡の甲高い声であった。
「ユメなどではない。サユリはプラチナ・ドラゴンにマケたんだ」
鏡は、そう宣告した。
「はぁ?」
気のない声を返すさゆり。
「マケたから、ココにいるンダ」
まったく理解ができない話であった。
負けたから、ここにいる。だって?
ならばなぜ、死なずにたつみやにいるのだろう?
「どうしてこういう事になったのか、説明してくれるんでしょうね?」
鏡に詰め寄る。
「セツメイするサ。とりあえず、オチツケ、サユリ」
「あんたが一切合切説明してくれたら落ち着くよ」
そう言いながら、鏡をのぞき込んだ。
刹那。
「え…」
さゆりは絶句した。
「うそ…」
そしてパシパシと音をたてて、自分の顔をさわりはじめた。
大きくて黒目がちな瞳、筋が取ってほどよい高さの鼻、すこし赤みがかった頬、そして、白い肌とは相対的な、深紅の薔薇のような唇。
その顔は、まさに美貌という言葉にふさわしい。
だがその顔は、さゆりが知るさゆりの顔とは、大きな違いがあった。
肌に、むき玉子のような艶と張りがある。
目尻にしわがない。深いほうれい線も消えている。
そして、金色のシュシュにまとめられた黒髪は烏の尾羽のように漆黒で、どこにも白髪が混じってなどいなかった。
そしてこの顔は…。
この顔はまるで…。
「ヨカッタじゃないか、ネンガンの18歳じゃなイカ? サユリ」
鏡がケタケタと、よく響く声で笑った。
(つづく)
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