灰とダイヤモンド(1)
子供たちは白球を追いかける。彼らはまだ自分の能力を知らない。限界も下限も分からない。だから、自分の未来を信じてひたすら駆ける。
その光景を眩しく感じたのは、過ぎ去った日々への憧憬ゆえだろうか。それとも、愚かしい人生を歩んでしまった自覚があってのことだろうか。
空を見上げた。相変わらず、雲一つない。自分の心も、このようであったなら。
稔がいて、早苗がいて、草太というおまけがついていた、あの頃。
楽しかった。ただひたすら、楽しかった。中学時代は、さゆりの宝物だった。
さゆりの大切な人たちが、誰一人欠けることなくいた。
さゆりはいつも、笑っていた。
その微笑みは、さゆりの「自信」のあらわれでもあった。
草太の言う通りであった。
なぜ
地上のあらゆるものは、さゆりを傷つけることはできない。自分で首に押し当てたナイフですら、彼女を傷つけることはできなかったのに。
「さっき、あいつが死んだ時みたいな顔してたぞ。やめてくれよな、その表情」
さゆりは死ななかった。命の代わりに、微笑みを失った。そして悔恨の念を抱いたまま、彼谷の山野に隠棲した。
子供たちは駆ける。自らの力を培うため。それはあの頃のさゆりに欠けたものだ。
その結果が
なにが最強だ。その力も使いこなせないくせに。
不遇を誰かのせいにしているから、さゆりはいつになっても前に進めなかった。みのりと出会った今なら、そう思い定めることができる。
だからと言って、胸を占める憂いが、キレイに消えるわけではない。もっと具体的な実感がなければ、いつもでもさゆりは、今のままだろう。
もう一度空を見上げて、立ち上がった。雲がない、春の空。自分の心は正反対の、澄み渡る蒼穹。
青空が、川風に乗った
直後、切り裂くような子供達の悲鳴が聞こえた。
目を移すと、野球場の上に、白い煙を吹く虹色の渦が広がっていた。
「まさか…」
靄はやがて黒煙となり、
急いで運転席のドアを開ける。体を伸ばして、助手席に置いたハンドバッグを引き寄せた。中には、
商売道具を取り出し、ハンドバッグは車の中に放り込む。
「草太! 逃げろ! 竜がくる!」
グラウンドの方に駆けながら、さゆりはありったけの声を張り上げる。
「どこに逃がせばいいんだ!」
「全員、私の後ろに連れてこい!」
子供達の避難を確認し、
紅色の、大きな竜であった。
いや、竜と呼んでいいものか。生まれ出たものは、鱗も、翼も、そして足もない。蛇のような体は黒い文様が刻まれた
竜と言うには、あまりにも異様な姿だ。
「
またの名を
彼らは厳密には竜ではない。真竜ではない竜殺しと同じで、「成り損ない」なのだ。
しかし沙椒蛇の成体は、
地上に落ちるやいなや、沙椒蛇は
「火が回る前に土手の向こうへ! そしてできるだけ遠くに逃げて!」
「さゆり、お前は…」
「あんな雑魚にやられるわけないだろう! 私を誰だと思ってるんだ!」
それは、自信に欠けた自分への叱咤でもあった。
「119番はしておく!」
草太と少年達が去るのを見届け、沙椒蛇の方に向き直った。
鎌首をもたげ、傲然と炎を吐く沙椒蛇。すでにバックネットもベンチも焼け落ちていた。この場で炎から免れているのは、さゆりの足下だけだった。沙椒蛇の息に限界はない。ヤツは死ぬまで、炎を吐き続けるのだ。
HMDをかけて起動する。しかし沙椒蛇の姿も炎の壁に遮られて見ることができない。ARインターフェースもほとんどが
(みのりには109km先が見えたのに)
頼りにならないHMDをたたんでポケットに入れた。
ここでみのりに勝てなければ、負け癖がつく。
「私が
杖の先に力をこめる。
光の爆発とともに炎が吹き飛んだ。一瞬、沙椒蛇の姿が見えた。すかさず二発目、鞭のような左前足を吹き飛ばす。三発目。沙椒蛇の顔の半分を破壊した。
(だめだ、全然威力が出ない)
本来なら、沙椒蛇ごとき一撃で殺せる術なのだ。だが魔力が衰えたさゆりには、これが精一杯だった。命中しているだけマシかもしれない。
「どうして! どうして私じゃダメなの!」
さゆりの目が涙で潤む。
「私は最強の
負けたくない。みのりに負けたくない。
六発目。外した。七発目と八発目も沙椒蛇には当たらなかった。涙が溢れる。沙椒蛇の姿が歪んで見えた。
みのりが備える力と若さ。自分が失ったもの全てを持つみのり。
可愛い。みのりは可愛い。だが、心の奥底に燃え上がるこの感情は、目前の焔よりも熱く沸き立つ、みのりへのこの気持ちは…。
「女として、
九発目。またしても外した。しかし、今までの光波爆発とは威力が違っていた。強烈な衝撃波で炎の壁が吹き飛んだ。さゆりと沙椒蛇の間に、もう焔はない。
左前足を失い、頭を潰され、右の胴体の半分が消し飛んでいる。姿勢が維持できず、地面に這いつくばっていた。口がなくなって炎が吹けなくなった代わりに、鰓から噴き出した炎で体を包んでいる。そして、失われた部位も、新たな組織が
竜脈から、竜気を喰らっているのだ。
障壁を外した。今なら、接近して魔法を撃ち込める。
焼かれて使い物にならないデッキシューズを脱ぎ捨てた。パンツも膝より下は焼け落ちていた。だが、気にすることはない。
どうせババァだ、生足晒そうが、恥ずかしいなどと思わない。それよりも今は、みのりに勝たねば!
至近距離から
光の球は、沙椒蛇の身体を貫いた。もう一発叩き込む。沙椒蛇の体は泡立ち、吹き飛んだ。体組織は完全に崩壊し、そして消滅するに至った。
勝った。勝ったんだ。
直後、背後から轟音があがった。
20年ずっと乗っていた車が、鉄くずになっていく。
呆然となった。膝が崩れそうになった。
草太の言う通り、駐車場に入れておけばよかった。ちょっとした横着が、取り返しのつかない事になってしまった。
勝利に酔いしれる
サイレンの音で、我に返った。
河川敷にいた人たちだろうか、土手の上から遠巻きに、さゆりを見ていた。
涙の跡が、炭で黒くなっているに違いない。パンツも膝から下は焼け落ちている。ひどい
必死に戦った結果がこれか。情けない気持ちになった。もうなにも、考えることができない。
竜が消えた今、さゆりができることは何もない。あとは消防に任せればいい。
彼女の健闘をたたえる声は、一つもなかった。河川敷公園が灰燼と化したのだ。さゆりを英雄だなんて、誰も思うわけがない。
自嘲した。これが最強の
だがこの時のさゆりは、なぜ誰も彼女を賞賛をしなかったか、その理由を知らなかった。
「おねえさん! うしろ! うしろ!」などと言われたから、自分の事だと思わなかったのだろう。
それだけ彼女は、自分に失望していた。
(つづく)
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