灰とダイヤモンド(1)

 子供たちは白球を追いかける。彼らはまだ自分の能力を知らない。限界も下限も分からない。だから、自分の未来を信じてひたすら駆ける。

 その光景を眩しく感じたのは、過ぎ去った日々への憧憬ゆえだろうか。それとも、愚かしい人生を歩んでしまった自覚があってのことだろうか。


 空を見上げた。相変わらず、雲一つない。自分の心も、このようであったなら。

 稔がいて、早苗がいて、草太というおまけがついていた、あの頃。

 楽しかった。ただひたすら、楽しかった。中学時代は、さゆりの宝物だった。

 さゆりの大切な人たちが、誰一人欠けることなくいた。

 さゆりはいつも、笑っていた。

 その微笑みは、さゆりの「自信」のあらわれでも


 草太の言う通りであった。

 竜殺しドラゴンスレイヤーは人を象った竜だ。通常の物理エネルギーでは、彼女を傷つけることはできない。だからビルから飛び降りても平気だし、ボールが当たっても傷まない。ただ、擬似的な痛覚を感じるだけだ。

 なぜ自分たちドラゴンスレイヤーを、人間の常識に当てはめようとしたのか。真竜トゥルー・ドラゴンは竜と同じく、あらゆる物理法則からも切り離された存在ではないか。

 地上のあらゆるものは、さゆりを傷つけることはできない。自分で首に押し当てたナイフですら、彼女を傷つけることはできなかったのに。


「さっき、あいつが死んだ時みたいな顔してたぞ。やめてくれよな、その表情」

 さゆりは死ななかった。命の代わりに、微笑みを失った。そして悔恨の念を抱いたまま、彼谷の山野に隠棲した。


 子供たちは駆ける。自らの力を培うため。それはあの頃のさゆりに欠けたものだ。

 最強ダイヤモンド・ドラゴンは見せかけにすぎなかった。零落した竜殺し達が彼女に求めた幻想に過ぎなかった。バカなさゆりは、それに乗せられて慢心した。

 その結果がこれだ。


 あでやかな日々を守りきれなかったのは、自分の力の至らなかったせいだ。

 なにが最強だ。その力も使いこなせないくせに。みのりにすら、遅れをとっているというのに。

 不遇を誰かのせいにしているから、さゆりはいつになっても前に進めなかった。みのりと出会った今なら、そう思い定めることができる。

 だからと言って、胸を占める憂いが、キレイに消えるわけではない。もっと具体的な実感がなければ、いつもでもさゆりは、今のままだろう。


 もう一度空を見上げて、立ち上がった。雲がない、春の空。自分の心は正反対の、澄み渡る蒼穹。

 青空が、川風に乗ったもやに覆われていく。春霞か、と呟きながら自嘲した。いつもどこか暗い自分の気持ちが、そこに具現化したように思えたからだ。

 直後、切り裂くような子供達の悲鳴が聞こえた。

 目を移すと、野球場の上に、白い煙を吹く虹色の渦が広がっていた。

「まさか…」

 靄はやがて黒煙となり、名賀川ながかわの河川敷を覆っていく。

 急いで運転席のドアを開ける。体を伸ばして、助手席に置いたハンドバッグを引き寄せた。中には、胡桃の杖ウォルナット・スティックとHMDが入っている。

 商売道具を取り出し、ハンドバッグは車の中に放り込む。

「草太! 逃げろ! 竜がくる!」

 グラウンドの方に駆けながら、さゆりはありったけの声を張り上げる。

「どこに逃がせばいいんだ!」

「全員、私の後ろに連れてこい!」

 子供達の避難を確認し、プリズムの障壁カレイドウォールを張った。それとほぼ同時に、虹色の渦は竜を産み落とした。

 紅色の、大きな竜であった。

 いや、竜と呼んでいいものか。生まれ出たものは、鱗も、翼も、そして足もない。蛇のような体は黒い文様が刻まれたぬめる肌に覆われ、顎の後ろには時折炎を噴き上げる鰓蓋えらぶたがある。足の代わりに、鞭状の器官が生えている。

 竜と言うには、あまりにも異様な姿だ。

沙椒蛇サラマンダ か」

 またの名を深紅竜クリムゾンドラゴン という。下級の竜、しかも上級の竜に仕える眷属は、真名の他に亜種としての名前を持つ。緑毒竜グリーンドラゴンをガスドラゴンと呼ぶように。

 彼らは厳密には竜ではない。真竜ではない竜殺しと同じで、「成り損ない」なのだ。

 しかし沙椒蛇の成体は、下級竜成り損ないの中では大きな体躯を持つ。緑毒竜ガスドラゴンよりもはるかに大きい。それは沙椒蛇を使役する赤竜マスターの力を物語る。

 地上に落ちるやいなや、沙椒蛇は炎の息ファイアーブレスを吐き出す。一瞬にして広大な範囲が文字通り焼け野原となった。草のないグラウンドが燃えているのは、その息に可燃性の、粘度が高い唾が含まれているからだ。

「火が回る前に土手の向こうへ! そしてできるだけ遠くに逃げて!」

「さゆり、お前は…」

「あんな雑魚にやられるわけないだろう! 私を誰だと思ってるんだ!」

 それは、自信に欠けた自分への叱咤でもあった。

「119番はしておく!」

 草太と少年達が去るのを見届け、沙椒蛇の方に向き直った。

 鎌首をもたげ、傲然と炎を吐く沙椒蛇。すでにバックネットもベンチも焼け落ちていた。この場で炎から免れているのは、さゆりの足下だけだった。沙椒蛇の息に限界はない。ヤツは死ぬまで、炎を吐き続けるのだ。

 HMDをかけて起動する。しかし沙椒蛇の姿も炎の壁に遮られて見ることができない。ARインターフェースもほとんどが参照リファレンスエラーを返していた。

(みのりには109km先が見えたのに)

 頼りにならないHMDをたたんでポケットに入れた。

 ここでみのりに勝てなければ、負け癖がつく。

「私があの娘みのりの母であるなら、この勝負、負けるわけにはいかない!」

 杖の先に力をこめる。光波爆発ライトウェーブ・バースト。軌道を描かず、直接任意の場所に爆発を引き起こす術だ。これなら、障壁を張ったままでも沙椒蛇を粉砕できる。

 光の爆発とともに炎が吹き飛んだ。一瞬、沙椒蛇の姿が見えた。すかさず二発目、鞭のような左前足を吹き飛ばす。三発目。沙椒蛇の顔の半分を破壊した。

(だめだ、全然威力が出ない)

 本来なら、沙椒蛇ごとき一撃で殺せる術なのだ。だが魔力が衰えたさゆりには、これが精一杯だった。命中しているだけマシかもしれない。

「どうして! どうして私じゃダメなの!」

 さゆりの目が涙で潤む。

「私は最強の金剛竜ダイヤモンド・ドラゴンのはずなのに!」

 負けたくない。みのりに負けたくない。

 六発目。外した。七発目と八発目も沙椒蛇には当たらなかった。涙が溢れる。沙椒蛇の姿が歪んで見えた。

 みのりが備える力と若さ。自分が失ったもの全てを持つみのり。

 可愛い。みのりは可愛い。だが、心の奥底に燃え上がるこの感情は、目前の焔よりも熱く沸き立つ、みのりへのこの気持ちは…。

「女として、小娘みのりに負けたくないんだよ!」

 九発目。またしても外した。しかし、今までの光波爆発とは威力が違っていた。強烈な衝撃波で炎の壁が吹き飛んだ。さゆりと沙椒蛇の間に、もう焔はない。

 左前足を失い、頭を潰され、右の胴体の半分が消し飛んでいる。姿勢が維持できず、地面に這いつくばっていた。口がなくなって炎が吹けなくなった代わりに、鰓から噴き出した炎で体を包んでいる。そして、失われた部位も、新たな組織がつくられつつあった。

 竜脈から、竜気を喰らっているのだ。

 障壁を外した。今なら、接近して魔法を撃ち込める。

 焼かれて使い物にならないデッキシューズを脱ぎ捨てた。パンツも膝より下は焼け落ちていた。だが、気にすることはない。

 どうせババァだ、生足晒そうが、恥ずかしいなどと思わない。それよりも今は、みのりに勝たねば!

 至近距離から光の球ボールライトニングを撃ち込む。ゼロ距離なら、ノーコンのさゆりだって外すことはない。

 光の球は、沙椒蛇の身体を貫いた。もう一発叩き込む。沙椒蛇の体は泡立ち、吹き飛んだ。体組織は完全に崩壊し、そして消滅するに至った。

 勝った。勝ったんだ。

 直後、背後から轟音があがった。

 愛車ヴィヴィオが燃えていた。エンジンフードとキャビンから、勢いよく火の手があがっていた。

 20年ずっと乗っていた車が、鉄くずになっていく。

 呆然となった。膝が崩れそうになった。

 草太の言う通り、駐車場に入れておけばよかった。ちょっとした横着が、取り返しのつかない事になってしまった。

 勝利に酔いしれるいとまもなかった。後悔の念が、彼女の胸を占めていく。

 サイレンの音で、我に返った。

 河川敷にいた人たちだろうか、土手の上から遠巻きに、さゆりを見ていた。

 涙の跡が、炭で黒くなっているに違いない。パンツも膝から下は焼け落ちている。ひどい外見ありさまだ。脚の火傷が消えていたのは、せめてもの慰めであった。

 必死に戦った結果がこれか。情けない気持ちになった。もうなにも、考えることができない。

 竜が消えた今、さゆりができることは何もない。あとは消防に任せればいい。

 彼女の健闘をたたえる声は、一つもなかった。河川敷公園が灰燼と化したのだ。さゆりを英雄だなんて、誰も思うわけがない。

 自嘲した。これが最強の金剛竜ダイヤモンド・ドラゴンか。なんとみじめだろう。なんてぶざまだろう。

 だがこの時のさゆりは、なぜ誰も彼女を賞賛をしなかったか、その理由を知らなかった。

「おねえさん! うしろ! うしろ!」などと言われたから、自分の事だと思わなかったのだろう。

 それだけ彼女は、自分に失望していた。


(つづく)

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