第20話・家族物語

 ひいばあちゃんは、オレが物心ついた頃にはすでに90前で、いつも仏壇の前に敷かれた布団で眠っている状態だった。寝たきりというやつなのだろう。その姿は、まるで革を張った枯れ枝のようで、動くといえば、お母ちゃんが差し出す吸い口からチュウチュウと水を飲むくらいだ。

 彼女は名高いマジナイ師だ。どんなヤケドも、呪文ひとつでたちどころに治してしまう、という。北は北海道から、南は鹿児島まで、この魔法使いの噂を聞きつけた病人が引きも切らなかった・・・とのちに聞かされた。その呪文は、一子相伝でなく、世代いっこまたぎの女系子孫に伝えられる、というのが習わしだ。つまり、現魔女のひいばあちゃんから呪文を伝授されるのは、ばあちゃんをまたいで、オレのお母ちゃんに、というわけだ。その次には、一世代をまたいでオレの娘に、という順序になる。死期を悟ったひいばあちゃんは、この重要な秘伝をお母ちゃんに伝え、魔女の任を担わせることにした。魔女襲名、相成る。

 ひいばあちゃんはやがて老衰で亡くなり、荼毘に付された。古い魔女が火葬場で煙となり、天に昇った夜、オレは、新しい魔女となった母親に訊いた。

「ひいばあちゃんのひみつのじゅもん、ちゃんとおぼえた?」

 お母ちゃんは答える。

「あたりまえやがね。えーと・・・んーと・・・あれ・・・?」

 呪文は、呪い師の家系における最高機密なので、文書として残すことは許されない。記憶だけが頼りだ。ところがお母ちゃんは、

「あらら、しまったっ!忘れてまったわ」。

 ・・・こうして、魔女の系譜は途絶えた。

 ばあちゃんのダンナさん、つまりじいちゃんは、オレが生まれるとっくに前、20代で亡くなっていた。太平洋戦争中のことだ。しかし死んだのは、戦地でではない。

 戦火がますます拡大、というその時期、若き日のじいちゃんに、ついに赤紙がきた。徴兵の召集令状だ。いよいよか・・・と覚悟をして、彼は兵役の身体検査に出かけていったのだそうな。ところが検査のその場で、盲腸炎にかかっていることが判明した。わーい、ツイてる!これで兵隊にとられなくてすむ。一家は涙涙で、こっそりとお祝いを挙げた。ところが、それがその年の大晦日の出来事だ。厄介なことに、医者が診察をしてくれないのだ。くそーっ、ツイてない!若きじいちゃんは、正月三が日を腹を押さえて過ごし、その間に腹膜炎をも患ってしまった。そしてそのまま、イテーイテーと叫びつつ、悶え死んでしまったのだ。なんてことだ。腸を切ってもらえないばかりに、断腸の思いであの世に旅立ってしまったというわけだ。ばあちゃんは涙涙に暮れた。

 そんなわけで、気丈なばあちゃんは、一粒種として残されたお母ちゃんを女手ひとつで育て上げた・・・というよりも、気丈なお母ちゃんは、働くばあちゃんにほとんど育児もしてもらえないままに、勝手に育っていった。ひいばあちゃんの世話を含む家事一切を、幼い手でして遂げたという。女も強くなければならない時代だった。ばあちゃんはせっせと働き、お母ちゃんはたくましく成長した。

 そんなお母ちゃんは、高校で陸上競技をはじめた。スパイクの針が恐い恐いといって、はだしで走っていたらしい。しかし腹を決めてその近代的な靴を履いてみると、たちまち県大会で優勝してしまった。

「インターハイにもいったんやで」

 そうのたまうので、半信半疑にアルバムをひもといてみる。と、白黒の薄ぼやけたポジの中に、インターハイの表彰台が写っている。よく見ると、そのまん中に立っているのがお母ちゃんだ。胸には一等賞のメダル。驚愕の事実!彼女は当時、日本でいちばん足の速い女子高生だったのだ。かっこいいぜ。

 インターハイ優勝のお母ちゃん、というのもなかなかに得がたい。足の速い彼女は、小学校の運動会で保護者の駆けっこ競技などに参戦しては、とてつもない快足を披露して周囲の度肝を抜く。スリムで、美人で、運動神経が抜群のお母ちゃんは、幼いオレには実に誇らしい。どういうわけか、オレはちっとも駆けっこが得意ではないのだが。

 一方、ナス農家の次男坊であるお父ちゃんは、ひいばあちゃんとばあちゃんとお母ちゃんという女三人の住むごぼぜこ通りの長屋に、ムコ養子として転がり込んだ。女所帯の中で男ひとり、肩身のせまい思いをして暮らしていたにちがいない。そこへコロリコロリと男児がふたりつづけて生まれたのだ。感慨もひとしおだったろう。妹がその後に追加されたが、これで男女間の力関係は拮抗し、お父ちゃんの居心地もよくなった。

 倉庫会社で働いているお父ちゃんは、筋骨も隆々とした美男子だ。彼もまた、足が速い。ヒマさえあれば、ハス畑を走っている。「市民マラソン大会」みたいなのが近所で行われるというので、一家で見物にいったときのことだ。彼は、スタートを待つ何百人という参加者に刺激されたのか、「お父ちゃんも走ってみるわ」と飛び入り参加してしまった。号砲を合図に、大勢のランナーに交じって飛び出していく。そして3キロだか5キロだかを走ってもどってきたとき、彼は先頭から二番目を走っていた。ゼッケンも付けていない普段着姿の男は、ランナーたちの中で完全に浮いている。参加資格のない彼は、さすがにそのままゴールすることがはばかられたのだろう。ゴールテープを切る寸前に、見物人の中に逃げ込んでしまった。関係者はあぜんとしている。

 お父ちゃんは、人並みをかき分けかき分け、いつの間にか背後に立っていた。ワイシャツを脱いでラクダの肌着姿だ。息をはずませ、流れる汗をふく。

「さ、帰るか」

 無口な男は、表彰台(と賞品)には目もくれず、悠然と会場を後にする。そんなお父ちゃんもまた、幼いオレには誇らしかった。このふたりの間に生まれても、どういうわけか、オレはちっとも駆けっこが得意ではないのだが。

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