二 斎藤一之章:Spy 蛤御門の変

壱 子飼

 初めて人を殺したのは十九のころだ。ほんの二年前。オレは江戸に住んでいた。


 一人酒を覚えた時期だった。家では母がろうがいで寝付いていた。姉はとうに嫁いで、父と兄とオレの三人では、飯もろくに作れない。オレは近藤さんの道場、試衛館にいるか、安い料理屋で酒を飲んでいるか、どちらかだった。


 酔った浪人に絡まれた。苛々いらいらした。表へ出ろと言ったのは浪人のほうだ。浪人はさんざんっぱら酔っていた。むろん、素面しらふだったとしても、オレが負けるはずもなかったが。


 構えろと言われた。オレは、左に差していた刀を鞘ごと抜いて、右に差して構えた。浪人の酔って赤らんだ顔が怒りに染まった。


 士道の礼儀として、刀は右で抜くものだ。左利きのオレも当然、礼儀の刀は右で抜く。オレが左手を使うときは、本気で相手を倒す心づもりだ。士道を踏みにじる無礼で相手を挑発して、ほかの誰とも違う左手の剣技で相手を翻弄する。


 いらっていた。倒したかった。殺してみたかった。だから、左手で刀を抜いた。


 ただ一閃。


 踏み込みながら振り抜いた刀が、胸郭を叩き割って心臓を切り裂いた。鮮やかな手応え。仕留めた一瞬、オレは歓喜に打ち震えた。日々鍛えてきた剣は、こんなにも鋭くて速くて正確だ。


 返り血を浴びた。我に返った。酔って怒鳴っていたはずの浪人が、物言わぬ死体になってくずおれた。


 オレが斬った。オレが殺した。取り返しの付かない罪を、オレは犯した。


 刀の血を拭うことも、それどころか呼吸をすることさえ忘れて、オレは立ち尽くした。酒飲みたちの声が聞こえてくる路地裏。薄暗い。けれども、人がまったく通らないわけではない。


 罪を隠す? 死体をどうする? 頭が回らない。


 オレは死ぬべきか? のろのろと、そう思い付いた。だって、オレは人殺しだ。道場の近藤さんたちに迷惑がかかる。それに、家族にも。


 いや、死のうかと思ったのは、迷惑がかかるからだけじゃない。オレの罪を知った皆が何を言うか、想像したら怖くなった。


 誰にも見られないうちに逃げ出したい。でも駄目だ。死体がこのままじゃ、左利きの剣で斬られた傷だと露見する。オレのわざだと、見る人が見ればすぐにわかる。


 どうすればいい? 息ができないほどの混乱に、もういっそ叫んでしまいそうになった、そのとき。


「やっちまったな、兄さん。最初から見てたぜ」


 声に背中を打たれた。男の声だ。若くはない。でも張りがあって、強い。からかうように、かすかに笑っている。


 いつ背後に立たれたんだろう? 最初から見られていた? 信じられない。オレはそんなに間抜けじゃない。でも、事実として、男はオレの背後にいる。


「兄さん、ずいぶん若いようだが、腕は大したもんだ。しかしなあ、困るんだよ。そこに転がってる酔っ払いは、浪人の格好なんぞさせてたが、一応は旗本でね。俺が目に掛けていた飼い犬だ」


 ぞっとした。旗本を斬った罪は軽くない。旗本を子飼いにする男に、罪の現場を見られてしまった。


 一歩、オレに近寄る足音。留め付けられたように、オレは体が動かない。


「あいつぁ、しょうもねぇ男だったよ。しかしまあ、俺が与えた仕事だけはきちっとやってくれていたところを、どうしてくれるんだい? 兄さん、ちょいと顔を見せてくれや」


 言われるままに振り返る。


 身の丈五尺ほどの小柄な、四十絡みの男が立っていた。油断なく見開いた丸い目が、ぎょろりと光ってオレを観察する。厚みのある唇は、片方だけ笑っている。崩した着流し姿に、二本差し。


 男はオレに歩み寄った。視線に威圧される。


「兄さん、どこの道場のもんだい? 左利きの居合なんぞ初めて見たぜ。おもしれえ。なあ、その腕、俺のために使っちゃくれねぇか? 実を言やあ、兄さんがどんな酒を飲む男なのか、ちょいと前から見ていたのさ。兄さんなら悪くねえ」


 身分の高い武士だろうに、下町言葉を使う。風変わりな、そして不気味な男だ。捕らえられたことを、オレは本能的に理解した。刀を取り落とさないように、震えながら耐える。


 男が、くつくつと笑った。


「俺は兄さんをかばってやることができる。もちろん、ただってわけにはいかねえ。何、難しいことをやらせるわけじゃあねぇさ。これからこの国を懸けて始まるおおばくを、特等席で見せてやるよ。俺に付いてきな。ああ、刀はしまったほうがいいな」


 暗示に掛けられた心地だった。オレは懐紙で刀を拭って鞘に収めた。手招きする男の後ろに、ふらふらと従う。


 なぜ逃げ出さなかったのか。なぜ男を斬らなかったのか。後になって思い返しても、少しもわからない。


 連れて行かれた先は、男がめかけを囲っている屋敷だった。夜中だというのに幾人もの奉公人が起きていて、オレは風呂に入れられた。背丈に合う着物をあてがわれて、書斎に案内される。男が手ずから、かんかんに熱い茶を淹れてオレに勧めた。


「ちっとぁ落ち着いたかい、兄さん?」


 うなずけなかった。右手と左手の感覚が、まるで子どものころに戻ったみたいだ。一つの仕草を利き手で為すべきか、礼儀の手で為すべきか、判断ができない。


 湯飲みを受け取った両手を、ぼんやりと見下ろした。両手の角度を少し変えると、手の甲の蒼い環が目に入った。


 ああ、そうだ、思い出した。環がある手は左。オレの利き手。さっき人を斬ったほうの、容赦のない武術の手。


 唐突に、男が名乗った。


「俺ぁ、かつりんろうってんだ。勝先生とでも呼びな。私塾を開いて若い連中に学問をさせている。号はかいしゅうというんだが、なかなか洒落しゃれてるだろう? 俺は海が好きで、船も好きだ。船酔いしちまうんで、自分で海に繰り出したくはないがな」


 勝先生はおしゃべりだった。私塾の先生なんてのは、そんなもんなんだろうか。オレは学問がわからない。ぼうっとしたまま、日本は海軍を創るべきだとかいう話を聞いていた。屋敷よりも大きい、大砲を備えた船が、数百艘? 想像もつかない。


 ずいぶん長らくしゃべった勝先生が、不意にオレに尋ねた。


「兄さん、名は? どこの道場に関わってる? その環は、妖狩りのあかしだな?」


 尋ねられてやっと、今まで名乗っていなかったことを思い出した。名前も身分も所属も問われないまま、オレはここに座っていた。手の中の湯飲みの茶が冷めている。


 いや、名乗るどころか、オレは勝先生と会ってから、まだ一度も口を開いていない。勝先生だけが、べらべらと言葉を重ねている。


「よう、兄さん。頭と胴体がくっついたままでいたけりゃ、正直にしゃべることだ。人殺しは打ち首だぜ。まあ、死んだ男のほうも身元不明の流れ者ってことにしてあるんで、ろくな捜査もできやしねぇが、俺はおまえさんの罪を目撃した。意味はわかるな?」


 やっぱりオレはここで死ぬべきだ。きな臭い予感がする。勝先生に関わっちゃいけない。首を突っ込むくらいなら、死んだほうがきっとましだ。


 無言のオレの胸の内は、勝先生に見抜かれた。勝先生は、にぃっと笑った。


「死人に口なしって言うよなあ? 死んで口も手も足も出せなくなっちまった後で、俺が兄さんの大事な剣術仲間にちょっかいを出したらどうする? 人斬りを出した道場だなんて噂が流れたら、門弟が逃げ出して、潰れちまうよなあ」


「やめてくれ」


 初めて声が出た。勝先生が声を立てて笑った。


「即答かい。なるほど、そのあたりが兄さんの泣き所ってわけだ。仲間が大事かい? 強者ぞろいの、大した道場なんだろうな」


 知恵の回らない自分に嫌気が差した。頭のいい男に弱みを握られた。抵抗して勝てるはずもない。


「兄さん、名は?」


 あきらめて名乗った。


「山口一だ」

「どこの道場にゆかりがある?」

「天然理心流の、試衛館」

「生まれはどこだ? 試衛館って道場はどんなふうだ? どんな人間が出入りしている?」


 質問は矢継ぎ早だった。訊かれるままに答えた。全部話した。


 オレは江戸の生まれで、父方は明石の出、母方は会津の出。姉と兄がいる。利き手の矯正のために、十を過ぎたころから試衛館に通っている。道場主の名は、近藤勇。住み込みの門弟は沖田総司を始め数名と、出入りする者は土方歳三たち数名。違う流派の者もいる。


 一通り話し終えると、勝先生は満足そうに笑った。


「兄さんは明日、試衛館に顔を出せ。連中にとって具合のいい出世話を持って行ってやるんだ。いいか。幕府はもうじき、ろうぐみに加わる人手を募る。浪士組ってのは、京都の治安維持を助けるための組織だ」


 浪士組、と勝先生はオレに復唱させた。うなずきもしないんじゃやりにくいと、文句を言われた。口を挟む隙がないほどしゃべるくせに、勝手な人だ。


 勝先生は話を続けた。


「浪士組に加われるのは、剣を使えるやつなら、武家だろうが商家だろうが農家だろうが構わねえ。腕っ節の強いやつを集めて、京都に送る。試衛館の連中もそこに加わるよう、兄さんが話をして来い」


 浪士組、腕っ節の強いやつ。家柄に構わず、幕府の下す任に就ける。京都に行く。一応うなずきながら、話を呑み込む。勝先生は、オレの胸のあたりを指差した。


「兄さん自身は、一足先に京都に行け。でなけりゃ、岡っ引きにしょっ引かれることになるぜ。京都には、俺の縁故の道場がある。そこで師範のふりでもして、浪士組の到着を待ってろ。名前も変えるんだ」


「名前?」

「山口の姓を捨てろ。しばらくは親の顔を見られないと思え。そうさな、斎藤一とでも名乗れ。山口なんて丸っこい響きよりも、斎藤っていう、すぱっとした音の方がおまえさんに似合うじゃねえか」


 うなずくよりほかになかった。試衛館では山口と呼ばれていた。夕方までそうだった。明日からは違うらしい。


「さいとう、はじめ」


 耳慣れない名をつぶやく。勝先生が、立てた膝を打ちながら、京都で剣術師範をする斎藤一という男の像を語っていく。


「人前では右利きのふりをしろ。上背があるのを目立たせねぇように、大通りは猫背で歩け。人斬りの太刀を振るうときは遠慮なく、右に差した刀を左手で抜け」

「人を、斬るのか」


「斬らずに済むほど生やさしくはあるまいよ。まあ、刀を振り回す程度なら御の字だね。鉄砲だの大砲だの持ち出してどんぱちやらずに済むよう、せいぜい働いてくれ」

「鉄砲や大砲? 戦が起こる?」


 黒船が来てから、日本じゅうが騒がしい。戦が起こるかもしれないと、あちこちで聞く。藩と藩が潰し合うような日が来るのか。だったら、父が明石で母が会津で江戸育ちで、しかもこれから京都に行くオレは、どこに加勢すればいいんだ?


 勝先生はオレのほうへ身を乗り出した。


「斎藤一、おまえさんは今日から俺の間者だ。京都で刀を振り回すやつら、佐幕派に倒幕派、尊皇攘夷に公武合体、長州、薩摩、土佐、会津、そいつら全部の動きをよく見ろ。見て聞いて、俺に話せ。おまえさん自身は何も考えなくていい。一つずつ知っていくだけでいい」


「なぜオレが?」

「無知だが、馬鹿じゃあねえ。剣術試合じゃなく、斬り合いの喧嘩で生き延びるすべを持っている。しかも、妖狩りの環を持つ者と来た。そういう男を探していた」

「……斬れない」


 人を斬るのが怖い。理屈じゃなかった。試合と斬り合いは全然違う。


「いや、斬れるね」

「オレは……」


「俺は、自分には人を見る目があると思ってる。おまえさんは俺の期待通り、やり遂げるだろうよ。試衛館の大事な仲間たちの命運も懸かってるわけだしな。まあ、連中は浪士組の募集に応じるだろうから、京都で再会できるさ。そしたら、また仲良くすりゃあいい」


 試衛館。


 オレの人生を丸ごと全部、人質に取られたようなものだ。最初からオレには勝ち目がない。


「近藤さんたちには、不利益のないように」


 よろしくお願いしますと口の中で言って、頭を下げる。膝の上で握りしめた自分の拳が震えていることに、目撃して初めて気が付いた。

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