第67話 嵐が来るまでは.4

 突然訪れた名家の令嬢。その美しいたたずまいや仕草に、教室にいた同級生たちは一瞬で圧倒されてしまう。

 そうなればもう、バカみたいに翔馬の行った先を指差すことしかできなかった。


「ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げて視線を廊下へと向ける。

 するとまさに、廊下を駆けていく翔馬の背中が見えた。


「九条さま、お待ちになって!」


 クラリスは、その後を追う形で走り出す。

 当然翔馬は止まらない。聞こえないフリをしながら逃走を続けるのみ。


「冗談じゃないっ。これ以上の面倒は絶対に避けなくては!」


 だがそれは、クラリスだって変わらない。

 絶対に翔馬を捕まえて、勘違いを訂正しなくてはならないのだ。


「九条さまっ! 九条さまっ!!」


 クラリスは走りながら必死に翔馬に呼びかける。

 だがなりふり構わず全力で逃げていく翔馬との距離は、離れていく一方だ。


「あのっ、あのっ! お待ちになって!」


 必死の呼びかけも届かない。

 このままでは、翔馬に逃げられてしまう。

 するとなんとしても話を聞いてもらいたいクラリスは、大きく息を吸いこんだ。

 ――――そして。


「……りょ」


 できる限りの大声で、翔馬へと呼びかける。


「陵辱の件ですのおおおお――――ッ!!」


 まさかの言葉に、廊下は静まり返る。

 な、なんてことを言い出すんだあの子はァァァァッ!!


「おい、アイツ」「エインズワースのお嬢様になんてことを」「ACAに連絡しろ!」


 そして周りの生徒たちの目が、怒りや軽蔑を含んだものに変わっていく。

 翔馬も負けじとここで白目を解放。

 しかしそれでもクラリスは止まらない。


「陵辱の件についてトークしたいことがありますのぉぉぉぉぉぉ――――――ッ!!」

「あのクズ野郎め!」「逃げるとか最低だろ!」「ええ、もう原型を残してやる必要もないでしょう」


 頼むからやめてくれええええええええ――――――――ッ!!

 翔馬は心の中で悲痛な叫び声を上げる。

 だがここまで逃げてしまった以上、もう止まるわけにはいかない。

 とにかく今は逃げ切るのみ! 振り切る以外に道はないッ!!

 翔馬はさらに加速し、クラリスとの距離を離しにかかる。


「このまま行けば、なんとか逃げきれるはずだッ!!」


 見え始めた光明。

 だが、クラリスにも乙女の意地がある。

 このまま勘違いされたままでいることはエインズワース、いや一人の女子として許せない。

 今回ばかりは、逃げられてしまうわけにはいかないのだ!

 クラリスは腰元のベルトに差していた魔法杖『リインフォース』を引き抜いた。

 そして――。


「アクアバレット!!」


 Dランクアイテム魔法杖リインフォースの効果は、単純な魔術強化。

 銃弾のような速度で飛来する水の弾丸で、目標を狙い撃つ。

 パーン! と、翔馬の足元で水弾が大きく弾けた。


「マ、マジかよッ!!」


 その魔術にはどれだけの量の水が圧縮されているのか、弾け散った水弾からは大量の水しぶきが上がる。


「ひ、ひええええっ」


 乱れ打ち。次々と襲い掛かってくる水の弾丸は、翔馬をかすめて砕け散る。舞い踊る無数の水滴はもはや美しく、周りの生徒たちの視線を奪うってしまうほどだ。


「さすがに走りながらでは仕留められませんわっ!」

「おい! 今仕留めるとか言ってなかったかッ!?」


 まさかの発言に翔馬はさらに足に力を込め、ラストスパートをかける。

 このまま行けば、もう残り数メートルで逃げ切れるッ!!


「……ん?」


 突然、水弾の飛来が止んだ。


「諦めて、くれたのか?」


 攻撃の手が急に止まったことに、翔馬は背後を確認しようと振り返る。

 そして完全に足を止めた状態のクラリスの姿を確認した、次の瞬間。


「…………え?」


 冗談みたいな現実が、そこにあった。

 翔馬の目の前に突然現れる予想外の――――大津波。


「恥ずかしい言い間違いもウォーターに流して! メイルシュトロームッ!」

「う、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――ッ!!」


 学院の廊下に突如として現れた津波は、翔馬を一瞬で飲み込んでしまう。

 砕ける波、あふれる大量の水。そしてそのまま流されていく翔馬。


「なっ、なんだよこれごぼぼぼぼぼぼぼぼぼ――――ッ」


 突然学院内におとずれた未曽有の水害に、廊下は静まり返る。

 やがて水が引いた後、そこにはリインフォースを腰に戻しながら歩み寄って来るクラリスと、うつ伏せで倒れこんでいる翔馬の姿があった。


「あ、あの、申し訳ありません……どうしても話を聞いていただきたくて」


 ようやく我に返ったクラリスは、申し訳無さそうに翔馬に声をかける。


「……ん? ああ、クラリスか」


 対して翔馬は、あくまで自分が逃げていたとは思われないように、不自然なくらいに自然な感じで顔を上げた。


「いやーびっくりしたなぁ。全然、全然全く気づかなかったよ本当に! ……ええと、なにか用?」

「あの! わたくし九条さまに聞いていただきたいお話がありますの!」

「ひぎっ……な、なに、かな?」


 翔馬の前でだけはいつも猪突猛進なクラリスの、妙な必死さに面食らってしまう。

 翔馬の白目が、不安に震えだす。


「あの、りょ……」


 改めて言うのは恥ずかしい、でも言わなくてはならない。

 だからクラリスは恥ずかしさに身体を揺らしながら、それでも――。


「……陵辱の件……ですわ」


 どうにか言い切ることに成功した。


「意味がよく、分からないんだけど」


 翔馬はただただ呆気に取られる。


「あっ、あれはわたくしの間違えで、陵辱されているというのは違うのです!」


 顔を赤くしながら、しかしクラリスはハッキリと否定する。


「申し訳ありません! こんなミステイクをしてしまうなんて、なんてあやまればいいのか」


 そう言ってクラリスは必死に頭を下げる。

 思い返してみれば、あの時の翔馬はやけに心配してくれていた。

 あれだけ驚かしてしまったのだから、文句の一つや二つ言われても仕方がない。

 だからこそクラリスは深く頭を下げ、ただ翔馬の言葉を待つしかできなかった。


「そ、れなら……よかったよ」

「……え?」


 しかし予想外の優しい声に、クラリスは思わず視線を上げる。

 見れば翔馬は、白目のままどうにかこうにか笑っていた。


「それは、クラリスが酷い目にあっていたわけじゃないってことだよね?」

「は、はい!」

「クラリスがなんともないんだったら、それが……一番だから」

「九条さまっ…………なんて、なんてお優しい!」


 感動のあまり、思わず目に涙が浮かびそうになる。

 こうして念願だった翔馬の勘違いを解くことは、どうにか達成できた。

 英国名家の子女としてのプライド、そして乙女の意地はここに守られたのだ。

 重くのしかかっていた荷が降りたことに、クラリスは大きく安堵する。


「たしかに機関では、なにかとレオンさんが食って掛かってきますし、上司も魔法アイテムのチェーンでわたくしをキツく縛ります」

「それ、本当に大丈夫なの?」


 翔馬がたずねると、クラリスは胸を張ってみせた。


「その点はご安心ください。エインズワース家の教育もあって、ハートの強さと高潔さには自信がありますわ!」


 その点に関しては事実、なにも間違ったことを言っていない。

 だから今度はしっかりと、自身のアピールをする番だ。

 ぜひとも知ってもらわなくてはならない。

 清く正しく美しい、クラリスという令嬢の真実の姿を。今、ここで!


「ええ。なにせわたくしクラリス・エインズワースはっ!」


 その青い瞳に、確かな自信と強い想いを乗せる。

 そして真っすぐに翔馬を見つめ――。


「英国でも指折りの名家の……」


 ――エインズワースの『子女』は、高らかに宣言する。



「痴女なのですから!!」



「…………えっ?」


 翔馬、まさかの言葉に唖然とする。


「ご、ごめん、もう一回言ってもらっていい?」

「はい! わたくしは英国屈指の――――痴女なのですっ!!」


 あまりに正々堂々とした言い方に、翔馬は混乱する。

 ……ええと、痴女ってやっぱあの痴女のことだよな。

 ていうことは、凌辱の話って無理やりじゃなくてむしろ……。


「自分からなの……!?」

「はい! たしかにこういうことを自ら口にするのは褒められたことではないのですが、これだけは自信を持って言えますわ!」


 ま、マジかよ……。

 驚きが隠せない翔馬は、浮かんできた疑問を思わず口にする。


「ええと、エインズワース家の教育って言ってたけど、家の方でそういう方針なの?」

「はいっ、もちろんです。厳しい英才教育を受けておりますわ」

「そ、そうなんだ。ち、ちなみにその勉強って、いつ頃から始まるものなの?」

「それはもちろん、生まれてすぐにですわ」

「幼少から!?」

「当然ですわ。名家ですもの」

「それって、どういう時に……その、み、見られるものなの?」

「まずはなんと言っても食事中」

「食事中に!?」

「はい、一番目立つところと言っても過言ではありません」

「まあ確かに目立つだろうけど……」

「そして、婚礼やお葬式もですわね」

「冠婚葬祭は絶対ダメでしょ!!」

「はい。セレモニーの場なので無礼は絶対に許されません」

「それなら無理してやらなければいいのに……」


 それでも、いや、だからこそ強行するのが、名家が名家たる所以なんだろうか……。

 翔馬はなんとかして納得しようと、無理やりそう結論付けた。


「でも、なんていうか、すごいんだな」

「はい、ハードな特訓に耐えることで、どこへ出しても恥ずかしくないエインズワースの痴女として成長していくのです」

「どこに出しても恥ずかしくないの意味が、俺にはもう分からない」


 ていうか厳しい特訓ってなんだよ。内容が想像つかねえよ。


「ですから九条さま、作法等で知りたいことがありましたら、なんでも聞いてください」

「聞くの怖えぇぇぇぇ……」

「これで本当のわたくしを、知っていただけたでしょうか?」

「まあ、その……そうだね」


 どちらかと言うと、知りたくなかったような気がしないでもないけど……。


「それなら、よかったですわ」


 これで『陵辱』に関する勘違いを解くという目的だけは、一応クリアできた。

 そう言ってクラリスは息をつくと、同時に大切なことを思い出す。


「あ、あの、九条さま」


 そしてさっきまでとは全く違う、どこか不安げな声で翔馬を呼んだ。

 それはプライドの高さを感じさせる令嬢の顔とも、強い意思をたたえた機関員の顔とも違う、完全な素顔だった。


「その、九条さまには……」


 うつむくクラリスの声は、どんどん小さくなっていく。


「九条さまには……こ、恋……人が」


 言葉が、続けられない。

 そのまま二人、無言の時間が過ぎていく。


「……クラリス?」


 やがて不思議に思った翔馬が声をかけると――。


「あっ、ええと……く、九条さまがレオンさんと闘ったとお聞きしまして!」


 慌ててそうごまかした。


「えっ? あ、ああー。そんなことも……あったかなぁ?」


 突然の話にしどろもどろになる翔馬。

 その姿にようやく、クラリスは笑みをのぞかせることができた。


「九条さま」

「はひっ」

「順番がリバースになってしまいましたが、ご無事でよかったです」


 そして、その青い瞳を翔馬に向けると――。


「次は、容赦なくトドメを刺してくださいね」

「いいのかよ……一応同じ機関員なのに……」


 ためらいもなくそう言い放つのだった。


「それより制服はどうしましょう。そんなにウェットになってしまっては……」

「ああ、大丈夫だよ。そのうち乾くから」

「ご一緒していただければ、新しい物を買い付けることもできるのですが」

「いやいや、それには及ばないって」


 クラリスに追われる形で教室を出てきて、そのまま一緒に戻ってきたなんてことになったら、なにを言われるか分かったものじゃない。

 そもそも吸血鬼対策室の隊員と共に行動するなんて、どんな面倒につながるか……。


「そういうわけだから、気にしないで」

「本当に申し訳ありませんでした。それと、話を聞いていただいてありがとうございます」


 そう言って頭を下げたクラリスは、一度微笑んで見せると、いつも通りの美しい所作で去っていった。


「な、なんとか……乗り切ったか……」


 その後姿を見送ってから、ぐったりとした足取りで教室へ戻ることにする。

 いきなり逮捕されるなんてことはないんだろうけど、やっぱ機関の関係者はダメだな……。

 あらためてそう確認して、教室に入ったところで――。


「さあ九条、説明してもらおうか」


 教室から逃げ出した翔馬には、次なる糾弾が待っていた。

 さっそく田中が説明を求めてくる。


「なんのだよ」

「陵辱の件についてエインズワース嬢と話をしたのであろうお前が、どうしてそんなに汗だくになって帰ってきたのかってことだよ」

「これは汗じゃねーよ!」


 水滴をぽたぽたと垂らしながら否定する翔馬。

 するとそんな姿を見た一人の女子が、声を上げた。


「とりあえずまつりちゃんの魔法で乾かしてもらえば? ドライヤー的な感じで」


 それはなんていうことのない思い付きだったが、女子たちは急に盛り上がり始める。


「あ! それでそのまま九条くんのシャツをまつりちゃんが着るのは?」

「彼氏のシャツを着てるまつりちゃんとか絶対可愛い!」

「ちょっとブカブカなのいいね!」

「……そしたら俺はなにを着るんだよ」


 翔馬はツッコミを入れる。

 でも、確かに風の魔術で乾かしてもらうのはありかもしれない。

 このまま水浸しで授業を受けるのはちょっとイヤだし、なにより風花との共同作業を見せつけることで、余計な疑念を向けられている状況を緩和できるかもしれないからな!


「そういうわけで風花っ」


 翔馬は振り返り、期待の視線を向ける。

 すると風花は、そんな翔馬の思いに応えるかのように――。


「しーらないっ」


 そっけなく言って、再びそっぽを向いてしまうのだった。


「あ、あれーっ!?」

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