第65話 嵐が来るまでは.2
英立魔法機関。その横濱東洋本部に吸血鬼対策室が新設されて数日。
そして裏中華街掃討作戦の発表から数時間後。
英国魔術名家の子女であるクラリス・エインズワースは一つ、息をつく。
プライドの高さを感じさせる顔つきは、今日もただ凛々しく美しい。
白くなめらかな線を描く頬からあごへと伝った水滴がこぼれ、大きな胸に弾かれる。
クラリスは、入浴の最中だった。
隙なく着こなした機関制服のために誰もそのことにはふれないが、服の下には思わず見とれてしまうほど色っぽい身体が隠されていた。
「九条さま……」
クラリスは水面にあご先までつけると、そっと目を閉じる。
衝撃の事実を知ってしまった。
所属を同じくする新垣友の話では、九条翔馬には最近できたばかりの恋人がいるらしい。
「素敵な方ですもの。そういうお相手がいたっておかしくないですけど」
ただ、それはよりにもよって……。
「恋人の名は――――カザハナ」
言葉にすると自然に、クラリスの青い瞳に敵意の色が宿っていく。
「やはりカザハナはわたくしにとって、敵ですのね」
思い出すのは、これまでのこと。
「カザハナに憧れてジャパンにやってきて……」
エインズワース家には、天才と呼ばれる兄がいる。
よって妹のクラリスに家を継ぐことはできない。
それでも、英国魔術名家の令嬢として恥ずかしくない、誇りを持てる仕事を見つけなくてはならなかった。
そんな中、天才には届かなくとも、その優秀さで名を上げた機関員の存在を知った。
それこそが『カザハナ』だった。
「……裏切られて」
そして日本への留学を決め、念願だった横濱にたどり着いたまさにその瞬間だった。
風花まつりの祖父が、不祥事によって機関を解雇されたことを知ったのは。
「でも、結果として九条さまに出会えた」
大さん橋での出会いは、衝撃的だった。
横濱を象徴するような美しい夜景の中で、出会った二人。
夢だった素敵なティータイムもかなった。
「それだというのに」
英国魔術名家の娘というだけで敬遠されてしまうクラリスにとっての、特別な出会い。
「今度はカザハナの孫娘が、わたくしの想いを打ち砕こうとしている」
あまりに数奇な『風花』との関係。
しかしクラリスは、頭を振ってそんな現実を振り払う。
「でも、負けるわけにはいきませんわ」
カザハナの孫娘は、今でも機関制服を着て個人で動き回っているという。
伝統あるイギリスの魔術名家に生まれたクラリスにとって、『英立』魔法機関で名を上げることはようやく見つけた夢であり、誇りだ。
その看板を汚し続ける者を許すわけにはいかない。負けるなんてもっての外だ。
「ですが、九条さまがわたくしの手に口づけをしながら『マイスウィートヴィーナス』と言ったのは事実ですもの。そうですわ。デスティニーのお相手との間には、いつだって壁が立ちはだかるもの」
クラリスは「だからこそ!」と意気を上げる。そして。
「……ま、まずは、訂正しなくてはいけませんわね」
一転して恥ずかしそうに声をひそめた。
その顔は、すでに赤く染まっていた。
そう、クラリスには必ず最初にやらなくてはいけないことがある。
それは一日も、いや一秒でも早くなさなくてはならないことだ。
「ま、まさか……りょ、陵辱と侮辱を間違えるだなんて……」
思い出しただけで頭が沸騰しそうになる。
ここ数日クラリスは、『侮辱』を『陵辱』と言い間違えていたのだ。
「こ、これでは意味がぜんぜん違ってしまいますわっ!」
クラリスは恥ずかしさに任せて、「もうもうっ、どうしてこんなことになりますのっ!」と水面をバシバシ引っぱたく。
「しかもよりによって九条さまに向かって何度も執拗に陵辱陵辱と! ……こっ、これではわたくしは連日のようにいやらしい……ぶくぶくぶく」
そして顔を真っ赤にしたまま、クラリスはバスタブの中へと沈んでいった。
朝の浴室は、とたんに静まり返る。
「……ぷはっ」
やがて水面から顔を上げたクラリスは、そっと両手でお湯をくみ上げた。
手のひらに乗せた水は、一滴もその手から流れ落ちない。
やがてくるくるとクラリスの手の中で小さな渦を作ると、一つの大きな水滴になって湯船へと落ちた。美しいウォータークラウンを作って。
クラリスの得意魔術は、水を自在に操るもの。
それも英国魔術家の名に恥じない、かなりの使い手だ。
「いえ、それだけではダメですわね」
クラリス・エインズワースはどこに出しても恥ずかしくない立派な魔術士であり、なにより貞淑な『名家の子女』であると、九条翔馬に伝えなくてはならない。
その点に関しては間違いない。相応の教育を受けてきたという自信もある。
「清く、正しく、美しく。しっかりと間違いを訂正して、九条さまには本当の、トゥルーのクラリス・エインズワースを知っていただきます!」
決意と共に立ち上がり、勢いのまま浴室を出る。
近いうちに吸血鬼対策室の一員として参加する、大きな作戦がある。
それまでにしっかりと、翔馬に話をつけておきたい。
すでに脱衣所に準備されていた制服をいつもより慌ただしく着こむと、手早く準備を済ませ、クラリスは足早に玄関へと向かう。
「中村、わたくしトゥデイはもう学院へ向かいます」
「……かしこまりました」
ピンと張った背筋、壮年でありながらも堂々としたたたずまいを崩さないクラリスの執事、中村は折り目正しく頭を下げる。
「ですが、くれぐれもご自身は名高きエインズワースの子女であることを……」
そしていつもより荒々しい足音に気づき、そう呼びかけようとした時にはすでに――――クラリスは屋敷を飛び出していった後だった。
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