二十歩目 猫たちとなみだの夕暮れ


 *


 待ってて。今、助けるから。

 マノルはそれだけを心の中でくり返し、まだ雪がとけ残る日暮れ道をかけ抜けます。冷たい風にふかれながら、アスファルトを力いっぱい走り、パン屋の前で急ブレーキをかけました。

 お店のドアは閉まっています。夢中でひっかいて知らせます。

 ナツキ。ボクだよ。マノルだよ。大変なんだ。

 しかし、どんなにはげしくひっかいても、ナツキが応えてくれることもなければ、ドアが開く気配もありません。まさか、今日もお店に来ていないのでしょうか。

 いやな予感を打ち消すように、がむしゃらにドアをかきむしっていると、

「あら、早いのね。猫ちゃん」

 後ろで優しげな声がしました。――ナツキです。

 バッとふり向いてかけ寄ると、彼女は立ったままマノルを見下ろして「でも、ごめんね」と苦笑しました。

「私、これからお仕事しなきゃいけないんだ。それが終わってからじゃないと、パンは――」

 ちがうんだ!

 マノルはあわててさえぎります。今日はパンをもらいにきたわけではありません。

 あのねっ、ドライトがねっ、

 友だちが、大変なんだ!

 ハアハアって、苦しそうに息してて!

「どうしたの、そんなに鳴いて」

 どれだけがんばって伝えても、やはりナツキには鳴き声にしか聞こえないらしく、不思議そうに首をかしげるばかりです。猫は人間の言葉が分かるのに、どうして相手には伝わらないのでしょう。もどかしいったらありません。

「――!」

 マノルはたまらず、ドライトが待つ噴水のほうに向かってさけびます。

「え? 向こうに何か――」

 ナツキの気を引いたところで、一気に走り出しました。

「あっ、待って! 猫ちゃん」

 無事についてきてくれたようです。スピードを合わせている余裕はありません。ドライトが、待っているのですから。来た道を、さっきと反対方向にかけ抜けていきます。

「ドライト!」

 噴水までたどり着くと、マノルは彼の名前をさけんで、そばに腰を下ろしました。返事はありません。ただ、あらい息をしたまま、苦しそうに顔をゆがめています。

 後ろをふり返ると、遠くに小さくナツキの姿が見えました。

「――!」

 合図するように、もう一度大声で鳴きます。

「もうちょっとだから!」

 マノルはドライトを懸命にはげましながら、背中をさすり続けました。この背中のわずかな動きが、彼が生きているという証になります。

 お願いだから――

 いのる思いがはち切れそうになったとき、

「待ってってばー」

 不満げな声と一緒に、せかせかとあせったような足音が近づいてきて、二匹の前でぴたりと止まりました。

「もう、どうしたの。さっきから」

 声のしたほうに目をやると、ナツキが肩で息を切らしながら立っています。マノルは状況を伝えるため、彼女の足もとでもう一度ひかえめに鳴きました。

「一体何が――」

 肩で息をついていたナツキが、つと、言葉をつまらせました。大きく開かれたひとみは、アスファルトにぐったりとたおれこんだ灰色の猫をじっと見つめています。

「ドライト……?」

 ぽつりとこぼされた言葉に、耳を疑いました。

 どうしてナツキが彼の名前を……?

「ねぇ……ドライトなの?」

 彼女はおそるおそる問いかけるように言いながら、ゆっくりとドライトに歩み寄り、その場にしゃがみこみます。

「……ナツ……キ?」

 苦しそうな息つぎのすきまからしぼり出すような、か細いドライトの声を聞いたとき、ようやく、はっとしました。

 ――飼われてたって言っても、三ヶ月だけだけどな。

 ――ドライトって名前は、そいつがくれた。

 いつか聞いたドライトの言葉とともに、記憶の糸がするするとほどけて、ひとつにつながります。

 ――あぁ、そうか。

 マノルは、心の底からこみあげてくるあたたかい感情に、顔をほころばせました。

 ――キミは、ドライトの家族だったんだね。

 と、みつ色にかがやくアスファルトの上に小さなしずくが落ち、じわりとシミを作ります。マノルではありません。ナツキです。ナツキが、泣いているのです。

「もう、もう……会えないと思ってたのに……」

 なみだぐんでふるえた声。目の前の出来事が現実であることを確かめるように、ドライトの背中にふれようとした白い手は、毛並みをなでる寸前でぴたりと動きを止めます。彼を苦しめている傷に気がついたのでしょう。小さく息をのむと、たずねるようなまなざしをマノルに向けます。

 そうです。もしも――もしもここで、ドライトが息絶えてしまったら、せっかくの再会も悲しいものになってしまうのです。

 マノルはのぞきこむようにして、ナツキの切なげにうるんだ黒いひとみのおくをじっと見つめます。すると彼女は強くうなずき、なみだでぬれた顔をゴシゴシとこすりました。

「いい? ドライト。私の腕の中で死んだりしたら、許さないんだからねっ!」

「――」

 ドライトの精いっぱいの返事を聞き届けると、しかりつけるような口調とは裏腹にそっと彼をだきあげ、走り出します。温かそうな胸にだかれた彼が、ぎゅっとくちびるをかみしめているのは、痛みや苦しさのせいばかりではないのでしょう。マノルも急いで後をおいます。

 ひとりと一匹のかげが雪どけ道に長く伸びて、遠ざかっていきました。

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