十五歩目 子猫といつもじゃない日常


 *


 目が覚めると、あたたかな灰色の毛にうずめていたはずの頭は、チクチクとした草の上にありました。空をおおっていたもやは晴れ、果てしなく広がる青の中心で、太陽がじまんげにまぶしい光を放っています。

 マノルはねころんだまま、自信満々にかがやき続ける丸い光を見つめて、ため息をつきました。毛にふれる草は少し冷たく、かたくとがった先でほおをしげきします。けれどそこには、かすかにドライトのにおいとぬくもりが残っている気がしました。

「行っちゃった……」

 いっそ、何も言わずに姿を消してくれたほうがよかったでしょうか。いいえ、そんなの悲しすぎます。でも、笑顔で見送る勇気もなかったのです。最後の最後までドライトをわがままに付き合わせてしまいました。彼と一緒に暮らすようになってから、すっかり強くなったつもりでいたけれど、本当はちっとも成長できていなかったのかもしれません。

 太陽のまぶしさに顔をしかめたとき、ひんやりとした風がふいて、真っ白な毛並みを乱していきます。晴れているのに、こんなに風が冷たいなんて。

 もうすぐ雪が降る、とドライトが言っていたのを思い出しました。もう冬が近づいているのでしょうか。

 マノルはあお向けになり、空に向かって長く息をはくと、重い体を起こして立ち上がります。今日くらいはドライトの気配を感じながら一日中ねむっていたい気分だったけれど、そういうわけにもいきません。彼が帰ってきたときこそ笑顔でいなければ、きっと心配するでしょう。   

 そのためには、たとえひとりでも、いつもの日常を送らなくてはいけない気がしました。


 体をにぶらせたくはなかったので、久しぶりに葉っぱで狩りの練習をしてから、夕暮れ時に街へ向かいました。ナツキはいるでしょうか。彼女に会ったときのため、わざと食事をとらなかったのです。

 いつものように道をたどり、パン屋をのぞくと、いつもと同じ格好をしたナツキがにこりとほほ笑みました。ホッと胸をなでおろします。

 ちょっと待ってね、と言い置いて、一度お店のおくに引っこんでから、

「はい、お待たせ」

 そう言ってしゃがみこみ、かたくて冷めたパンのかけらを差し出してくれるところも、いつもと変わりません。

 マノルがパンを食べ始めると、ナツキが申し訳なさそうに口を開きました。

「店長から聞いたよ。昨日も来てくれたんだってね。 ごめんね、お休みだって伝えておけばよかった」

 ナツキは、まるでマノルと会話しているかのように謝ります。言葉なんて、本当は通じるはずがないと思っているだろうに。

「ねぇ、聞いて」

 聞き覚えのあるセリフに、マノルは一度パンを食べるのをやめて、ナツキを見上げます。それは、おとといとまったく同じ言葉でしたが、とても楽しげに聞こえました。何より、ナツキの笑顔がうれしさを物語っています。

「あのね、カレ、ほんとは好きなんだって。動物」

 思ったとおり、彼女が切り出したのは、お友だちとのケンカのことのようでした。

「猫相手にヤキモチ焼くなんて、ちっちゃい男よね。まったく」

 彼女はあきれたように言いつつも「ふふっ」と笑っています。お友だちは男の子なのでしょうか。詳しいことはよく分からないけれど、とりあえず仲直りできたようです。

 よかったね、という意味をこめてひと鳴きし、マノルは残りのパンを食べてしまいます。

 ナツキは何もなくなった両手のひらをパチンと合わせると、マノルの代わりに「ごちそうさまでした」とあいさつをしてくれました。

 そうしてすっと立ち上がり、

「最近寒くなってきたから、カゼひかないようにね~。じゃあまた」

 明るい声でそう言って去っていきます。言葉の最後に音符をつけたような、ごきげんな言い方でした。

 ナツキが元気になってくれたのはうれしいけれど、ドライトとはなれたばかりで落ちこんでいるマノルは、ちょっと彼女のハイテンションについていけませんでした。


 月と星が静かにかがやく夜空をながめながら、マノルは考えてみました。

 今日一日ひとりで過ごしてみると、そこにはたくさんの「いつも」がありましたが、マノルにとっては全然「いつも」ではありませんでした。

 だって、だれも一緒に狩りをしてくれなくて、街から帰ってきてもだれもお帰りと言ってくれなくて、今だって、だれもマノルに寄りそってねむってはくれません、

 ドライトがいないだけで、いつもと同じはずの日常ががらりと変わってしまったのです。

 もしかしたら「フツー」も同じなのかもしれません。家族全員が黒い毛並みと緑のひとみを持っていて、それが当たり前だと思っていた兄弟たちにとっては、マノルはたしかに「フツーじゃない」存在だったのでしょう。

 でもそれはあくまで兄弟たちの見方であって、悲しく思うことでも、怒りを覚えることでもなかったのです。

 あとひとりでも毛色や目の色のちがう兄弟がいれば、あんなくだらないケンカをしないで済んだ気がします。

 狩りを始めてすぐに味覚が変わってしまったように、きっとものの見方もささいなちがいでずいぶんと変わってしまうのではないか。なぜだか、そんなふうに思えてきました。

 この考えをドライトに話したら、彼はなんと言うでしょう。共感してくれるでしょうか。それとも、もっといいアドバイスをくれるでしょうか。

「……早く、帰ってくるといいな」

 となりでねむる彼の姿が見えた気がして、ほんのちょっぴりなみだがにじみました。

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