春
最初の一歩 子猫とふたり
深い森を抜けると、そこは知らない場所でした。さっきまで遊んでいた原っぱよりずっと遠くまで緑が広がり、上を見れば果てしなく青空が続いています。
さんさんと降りそそぐ太陽の光を浴びながら鳥たちが飛び回り、リスが木の上をせわしく行ったり来たりしていました。
ねそべって寄りそい合い、日向ぼっこをする二匹の野ウサギもいます。と、ほほ笑ましいはずのその光景に、なぜか兄弟たちの顔が思いうかんで、忘れかけていた怒りがまたこみ上げてきました。
「どろだらけじゃないか、もう」
野原を転げ回って、その足で森の中をかけ抜けてきたものだから、体中うす汚れていました。白い毛並みは、木の葉や小枝、どろの色がよく目立ちます。
――これまでだって、そうだったはずです。気づかないほうがおかしいのです。
さびしさとくやしさで、目の奥がじわりと熱くなるのを感じたそのとき、
「オレのテリトリーの前を断りもなくちょろちょろするとは、いいドキョウしてんじゃねぇか。ぼうず」
背後で低い声がしました。父さんの声とはちがいます。そもそも、父さんは子猫のことを「ぼうず」なんて呼びません。
ゆっくりと後ろをふり返ると、灰色の猫がキッとこちらをにらみつけていました。緑色のひとみは兄弟たちのそれと似ていたけれど、もっと細くて、ささるようなするどさがあります。
「あの……ごめんなさい」
あまりの怖さに、声が上手く出せません。二、三歩後ずさって、猫に背中を向けた瞬間、
「おい、待てよ」
ふきげんそうに呼び止められ、子猫は全身の毛を逆立てて飛び上がりました。
「お前、行く当てはあるのか?」
思いも寄らない質問に少しばかりおどろいて、
「な、ない……です」
首だけを猫のほうに回し、ふるえる声で答えます。兄弟たちにからかわれたときとはまた別の恐怖が押し寄せてきて、今すぐに逃げ出したい気分でした。
「言っとくが、そっちに行くのはオススメしないぜ? タチの悪い連中がうろつきまわってるからな。何されるか分かったもんじゃない」
それから、考えるように晴れた空を見上げて、猫は言いました。
「どんな事情でここに来たか知らないけど、一日くらいならうちに泊めてやってもいい。どうする?」
突然のおさそいに、子猫はまたおどろきます。
「え? だってあなたさっき、今すぐ出てけって顔――」
「おっと『あなた』はやめてくれ。オレはドライト。敬語もナシな。そういうの、慣れてないんだよ」
ドライトは子猫の言葉をさえぎり、しぶい顔をして早口でまくし立てました。
「あと、さっきのはな、ほんの冗談のつもりだったんだ。別に怒ってるわけじゃない」
怖がらせて悪かったな、と、彼は申し訳なさそうに苦笑します。
「なんせこの目つきだから、姿見ただけで飛んで逃げていくヤツも多い。まあオレだって好きでこんな顔してるわけじゃないから、大目に見てくれ」
意外に気さくな性格のようです。「なんでも見かけで判断しちゃダメよ」と母さんがよく言っていたのを、子猫は思い出しました。
「で、どうする? 泊まってくか?」
あらためてたずねられ、
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
小さな声で答えると、ドライトはうれしそうに「よし、決まりだ!」と言って、くるりときびすを返します。
「こっちだ。ついてこい」
置いていかれないよう、子猫は小走りで後をおいました。
今日は晴れていたので、夜には星がよく見えました。
「きれいだな」
子猫のかたわらで、ドライトが藍色の空にぽつりぽつりとかがやく星たちを見上げながらつぶやきます。子猫はだまってうなずきました。彼のするどい目つきが、少しだけ優しくなっている気がします。
「そういえば、自己紹介はしたけど、お前の名前を聞いてなかった」
ふいにそう言われ、子猫はためらいます。
「……名前なんてないよ。ドライトみたいに、だれかに飼われてたわけじゃないもん」
すねたように答えると、ドライトはこちらに顔を向け、目を丸くしました。
「オレ、人間に飼われてたなんて話したか?」
「『ちゃんと自分の名前を持ってる動物は、一度は人間に飼われたことがあるんだ』って父さんが言ってた」
すると彼は、納得した表情になって、もう一度星空をながめます。何かをなつかしむように遠くを見つめ、
「飼われてたって言っても、三ヶ月だけだけどな」
と、言いました。夜の冷たい風が、ふたりの間を通り過ぎていきます。
「ガキのころに、食うものがなくてたおれかけてるところを、人間に助けてもらったんだ」
情けねぇよな、と彼は恥ずかしそうに小さく笑いました。
「ドライトって名前は、そいつがくれた。灰色の宝石に、ラブラドライトっていうのがあって、そこから付けられたらしい。月と太陽の象徴なんだってさ」
『ショウチョウ』ってなんでしょう? 彼の話はちょっと難しくてよく分からなかったけれど、心をこめて付けられた大切な名前なのだということだけは、伝わってきました。
「どうして、ずっと一緒にいてあげなかったの?」
ノラとして生まれてきた子猫には、人間との生活など想像もつきません。けれど、ドライトの話す声は、とてもあたたかくて幸せそうでした。こうして寒さにたえながら夜を過ごすより、ずっとよさそうなのに。
子猫の質問に、彼は「なんでだろうな」と自分に問い返すように言いました。
「外から帰ってくるとメシが用意されてて、水は苦手だったけどたまにはシャワーも浴びられる。夜は人間にくっついて、あったかい布団でねる。いつもだれかに守られてるってのは、悪くなかった」
でもな、と彼は続けます。
「なんか、性に合わなかったんだよ。ぜいたくすぎるっていうか……ちょっとくらい危険なことして必死に生きてるほうが、オレらしいなって思ったんだ」
そう言う彼のまなざしが、子猫には、なんだかすごくかっこよく見えました。
「いいなぁ、自分の名前があるって」
ぽろりと本音をこぼすと、彼はいたずらっぽい笑みをうかべて、
「じゃあさ、オレが付けてやるよ」
なんて言い出しました。
「え? いいよ、そんな……」
「うーん、そうだなー」
とまどう子猫をそっちのけで、ドライトは名前を考え始めます。
せっかくなので、子猫もおとなしく待つことにしました。猫から名前をもらう猫なんて、もしかしたら自分が初めてかもしれません。
星がまたたく空を見上げていると、ふと、ひとすじの白い光が落ちていきます。流れ星です。藍色の空を、小さな円をえがくようにしてなぞりながら、あっという間に消えていきました。
あっ、フツーになれますようにってお願いすればよかったな、と思っていると、
「やっぱやめた」
突然、あきらめたようにドライトが言いました。その一言に、子猫は拍子抜けしてしまいます。
「オレ、お前のこと全然知らないから、どうやって付けたらいいか分かんねぇや。また思いついたら付けてやるよ」
「思いついたらって、ボクもう明日には――」
「だからさ、しばらくここにいればいい。特に行き先はないんだろ?」
さらりと言われて、子猫は目を見開きました。
「狩りのしかたとか、うまい食べものとか、色々教えてやるから。……いやか?」
心配そうにたずねてきたドライトに、あわてて首を横にふります。
「よし、決まりだ!」
昼間と同じ元気な声が、夜空にひびきわたりました。
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